反射光

2011年11月 3日 (木)

新聞を読みましょう? Twitterは危険? 反原発デモ報道 再臨界

新聞を読みましょう的な、キャンペーンが、読んでいる新聞に、たまにというか、ちょくちょくというか目にする。

やっぱ、信用できるのは、新聞・テレビニュースとかの、アンケート結果も頻繁に紹介される。

私も、おおむねそうとは思う、話半分的にも、そうかなとは思う。

でも、最近の新聞はというより、昔から新聞は、十分には信用しすぎても良くない、限界があるのを、もっと知っておくべきだったと思う。新聞は悪さ加減を低減、是正することにおいて、全く進歩していない、進化していない。

国民の新聞離れは、国民の退化でもあり、進化、改善でもあるかも知れない。半々なんじゃないだろうか?

だから、新聞を学校教材になんてのも、紙面がアッピールしていると、説明的な文章とは何かはともかくとして、一歩間違えれば、一種の偏向教育にも、なりかねない懸念がある。

新聞は教養であるなんて言うのも、傲慢と言えば傲慢とも言える。教養というものは、そうとも限らない。

新聞が反体制をよそっても、その新聞もまた、体制を志向している。体制擁護は真実の敵である可能性は常に小さくはない。資本に逆らえきれない官に逆らえ切れない広告主に逆らえ切れない体制側である。反体制のふりの姿勢は、情報操作のポーズだ。人気キャスターも、著名・評論家・学識者もみんなそうだ。

グーグルもググル結果として、Twitterの表示をやめているかと思う。私はそれは苦情の結果だとも想像する。Twitterはネットをやっていれば誰でもアカウントを得、手軽に検索できるので、ググル結果にそれを出すのは無駄だだし、グーグルが使いにくくなるだけだったんだと思う。

しょせん、つぶやき。ある特定の話題に、どんなつぶやきがあるのかというは興味深い結果、参考ではあるが、参考にする考えとしては、たとえ匿名ではあっても、多少の労を費やして書かれている、サイトやブログの主の記事の方が、私はより価値があると思う。

しかし、新聞等の悪さ加減を補って、広める力がある、Twitterも認めて、より良く活用されるべきだ。自分なりに、それを模索してみたい。

心配なのは、Twitterはダメだということになり、ネットパラダイム全体が、十把一絡げに悪いとされ、サイト、ブログ文化がすたれてしまうことだ。

サイト、ブログにも危うさはある。みんなそれを学習できてきた面もある。Twitterには、それ以上のあやうさが秘められているようにも思うのである。みなが学習できるのは、これからだろう。上手く活用したい。

私はグーグルも進めようとしている、クラウド・コンピュター化が、ネットパダイムの敵である可能性を感じるのだが、それについてはまた。

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2011年9月16日 (金)

記者クラブは言論の敵か 記者クラブ発世論誘導 原発推進記者クラブか 記者クラブが新聞・政治を破壊する

以前、脱原発を論調にしている毎日新聞、朝日新聞でも、また、小出裕章京大助教を黙殺しつつあるのではと書いたかと思うが、その後、毎日新聞では、ある程度大きく、小出氏のインタビューだかを取り上げていたかと思う。これは、脱原発を論調にしている新聞としては、ふさわしい。

http://hokage.cocolog-nifty.com/eyesonly/2011/09/post-fd06.html

で、

>「鉢呂 ヤクザ記者はどこ」でググったら、新聞社名、記者個人名を特定している記載がヒットできた。 もし本当なら、あの新聞社がである。

と記したが、どうも、この情報も怪しいところがあるようだ。記者クラブのメンバーの中には、本当のところを知っている者もいるかとも思うのだが、公式にも明らかにして欲しいところである。毎日、朝日新聞とかに期待したいのではある

そもそも、ヤクザ記者とか、言葉づかいで非礼なこともよりも、問題は記者クラブの、言葉狩り的な報道姿勢である。

さらには、この点、鉢呂元大臣は、もっと抵抗できたはずだと思うのに、やすやすと辞任してしまうこと、記者クラブとともに、脱原発はポーズで、原発維持推進の経団連とかに、買収されているのかとも、疑ってしまう。

そももそも、「放射能つけてやる」の件、これを記事とすること、記者クラブの総意なのだろうか? 我が国の記者クラブのあり方、ジャーナリズとして国際比較上も、健全とは言えないとの議論はもともあるようだ。

記者クラブの総意でも問題だし、どこかの記者の抜け駆けでも、ノーコメントで追従記事を書くマスコミも健全ではない

まして、脱原発論調の毎日新聞、朝日新聞が、それを微塵も怪しまないというのが不健全である。

毎日新聞の脱原発論調がゆるぎない信念に基づく本物だったとして、何故たやすく記者クラブ発の情報に、乗ってしまうのか?

「死の町」発言だって、現に原発事故で避難を余儀なくされている福島の人々の中には、それは、現状ありのままの表現だと、肯定している人もいるかも知れない。そうであるかどうか取材するのが、報道であろう。一方を聞いて沙汰するなである。

日本をダメにする記者クラブの傲慢、恐ろしさではないのか。記者クラブは右翼の街宣車と同じだ。言論の圧力ではないのか。否、右翼の街宣車の方が数段、可愛い、健全だ。記者クラブは、もっと恐ろしい邪悪さを秘めている

脱原発を掲げる政治家は、右翼の街宣車以上に記者クラブを恐れなければならないのか

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2011年9月11日 (日)

ネット時代に貧すれば鈍する:既成マスコミ・マスメデァは正義・理性の敵か。原発維持推進優位 金権小沢優位

美爾依さんのブログ『カナダde日本語』の記事「鉢呂吉雄経済産業大臣:原子力村に嵌められて」という記事を紹介したい。http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-2906.html#trackback

私の思いと重なる点大だ。マスコミ・マスメデァに不信を深くし、恐さを感じる。

別段、目を通している、日経新聞、毎日新聞を頼らなくても、テレビニュースを聞き流していても、聞こえ知った、野田内閣で辞任に追い込まれた経産相。

私はできたばかりの、内閣の大臣の名前を覚えておくこと、あまり興味がないし、出来の悪い私の脳みその記憶容量温存の為にも、無視している。

で、「死の町」でググル。鉢呂吉雄氏だったんですね。「鉢呂吉雄」でググルも、この件ばかり。私が調べたいのは、氏が菅派か、小沢派だっかみたいな情報。今日の日経、毎日を読んでも判らなかった。

で、ググッテ、鉢呂吉雄のウィキペディア。

北海道・北大・農協・社会党・反鳩山・元道議会議員・新党大地鈴木宗男とのパイプを期待さる・北方領土問題解決推進議員連盟(顧問・宗男)・菅代表選に尽力・菅内閣副党代表・脱小沢派・北海道教職員会個人献金問題ってところで

一応、菅派・脱小沢派。

重要だと思うのは、少なくとも表面は、鉢呂氏は経産相になってから、菅元総理以上の脱原発論者。

簡単に辞任してしまうこと、脱原発に本当には根性がなかったのではとも疑う。同じ疑惑は元菅首相にもつきまとう。ただのポーズだ。

脱原発の国民運動にとって、自民党は勿論、民主党だって、実は敵なのかも知れない。好きではない共産党は良く判らないが、既成政党に味方はいない。

鉢呂氏は反脱原発に負けて、脱原発よりも、自身の小さな政治生命の保身を選んだのではとも疑う。

野田総理が疑われる。野田と鉢呂のシナリオではないのか。

全く世も末である。

既存政党も頼りにならないが、マスコミ・マスメデァへの不信と恐さ。

これを良く伝えてくれているのが美爾依さんの記事である。

ググることで、身を守るしかない。

ネット時代に貧すれば鈍する:既成マスコミ・マスメデァは正義・理性の敵か。

追記)

「鉢呂 ヤクザ記者はどこ」でググったら、新聞社名、記者個人名を特定している記載がヒットできた。 もし本当なら、あの新聞社がである。

紙面や、テレビで記者クラブの問題点、反省が指摘されるのは期待薄ではあるが、ネットで広がって、釈明まで追いつめられればとも思う。

あの新聞社、やはり脱原発は見せかけ、所詮は大口広告主経団連の犬だ。脱原発のスローガンの一方で、脱原発議員をことごとく陥れることに余念がない。それが経団連からの使命なのか?

しかし、鉢呂氏、かの氏に擁護してもらいながらも、簡単に辞任してしまう。これも鉢呂氏、野田総理が怪しい、民主党が怪しいことでもある。

もう、かのジャーナリスト以外、誰も信じられなくなってくる。

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2011年3月 2日 (水)

山崎正和氏 相撲 八百長

私は劇作家の山崎正和氏の言動、疑問に思うことも少なくない。

http://hokage.cocolog-nifty.com/eyesonly/2010/08/post-851e.html

でも、朝日新聞に寄稿された相撲と八百長の件に関しては、納得のいく意見であって、共感できた。ネット上では残念ながら公式のコピーはない。でも「山崎正和 相撲 朝日」とかでググれば、関連はヒットする。

そもそも私は、朝青竜パッシングの品格なんたらで、相撲界とマスコミに批判的であって、あれはプロレス興業と同じ、プロボクシング、柔道、空手の公式試合と違い、手加減八百長なしにには、労働安全基準法的にも成立しえないものだと主張していた。

http://hokage.cocolog-nifty.com/eyesonly/2008/01/post_3ecc.html

そいうものだから、プロ野球、サッカーとか違って、本来、プロレス同様、天覧試合のようなものがあっていい、品格のあるもの、フェアなもはとは言い難い。伝統芸能として、能や狂言をご覧になるとして、相撲取りを役者とみたたて、かろうじて天覧が納得できる程度のものだ。

じゃあ、学生相撲はとかではあるが、あれだって、一歩まちがえると、近代ボクシングとかとは違って、実は噛ませ犬、ローマ時代の殺し合い見世物に、学生がかりだされているに近くなる代物だ。

まあ、土俵、土俵を割るというルールがあるから、かろうじて殺傷競技にならなくて済んでいる訳だが(かばい手というルールもある)、それでも、あれを15日間続けて本気でやったら殺傷に近い。

ネットでは山崎氏の意見>>に次のような反論>があった。

>現在、問題になっている八百長疑惑は、金銭で星の売買をした、というものです。十両から転落しそうな相手力士に力をつくせないこととは別のことです。山崎氏は、問題をすりかえて矮小化しています。
>>国の監視下にあるから、八百長はけしからんと言われるのであって、国と関係なければ、八百長だなんだと騒ぐ必要がありますか。
>これも間違いです。かつて、プロ野球も八百長問題で騒ぎになりました。ファンが八百長を認めないから騒いでいるのです。

私はそれでも、この件では山崎氏に組みする。

プロレスでヤクザが絡むような、金銭がからむ八百長の話は聞かない。それは賭けが成立するような勝負の世界ではないことを皆が知っているからだ。賭けが成立しない。

山崎氏は相撲の本質は、プロレスと同じだから、同様に賭けが成立しないことが、健全で本当の姿として自然だろうと言っているのである。プロレスがシナリオとして事前に勝敗が決まっていると同じように、情実で、星のやりとりがあったていいじゃないか、体を守る為に、手加減があったて良いじゃかないか。それでも、プロレス同様、見栄えのある、プロでなくては出来ない技はある。

プロ野球や、Jリーグは、基本そうではないから、賭博八百長の可能性が残るのである。

この辺は考えてみると結構面白い。プロゴルファー、プロテニスプレイヤーはどちらかと給与制というよりは賞金稼ぎである。ランクずけが収入の源泉の中心になっている訳ではない。プロ野球選手、Jリーガーは給与制的である。ゆえに、プロ野球選手、Jリーガーの方が、ゴルファー、テニスプレイヤーより、賭博八百長に手を出しやすい環境だ。

相撲にいたっては、賞金稼ぎ的な側面は弱く、基本的に給与制的である。しかも昇進の影響が強い。サラリーマンは実力主義ではない、賞金稼ぎではない。昇進は情実がものを言う。星のやりとりは当然ではないか(笑い) 商談でも出世払い的な話が良く出る。昇進が予定調和的だから、話が進んでいることも多々ある。相撲界の商談とは、相撲人気を維持することである。連勝記録も角界あげての商談である。協力者にはお駄賃がある。当然である。

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2008年8月 2日 (土)

反射光:自殺のすすめ:甘やかされてきたやから

①これは、②SAGAさんの「自殺のすすめ」という記事を読んでの、私の触発の続きである。①と同様の私の先の記事、③「反射光:自殺のすすめ:社会の狂気とは?」に④SAGAさんにコメントして頂いたのだが、その返答になるかは判らない。判らないと言うのは、私にとってはそれはまだ難しいからでもある。良く考えたい問題でもある。

私が②に触発されたのは、そこにジャーナリズム、社会心理学のおえらい先生方の、「問題のすりかえ」への指摘を感じたからでもある。ここにフォーカスしてしまうことは、②の趣旨には、はずれては、いるかもしれない。

②では全く言及していないが、A:朝日新聞的と言っていいのか、社会心理学のおえらい先生方は、ワーキングプアとか非正社員制度、派遣社員制度とかの、「社会が悪い、社会を変えないと」に持って行こうとする傾向が目につく。あんな、とんでもない凶行に及んだ犯人はそんな可哀想な境遇にいたんだという感じである。昔は、そんな社会じゃなかった、だから今になって、あんな犯罪がおきるのだということになる。

これには、B:反論があるだろう。むしろ昔の方が、餓死を意識しなけらばないほどのワーキングプアが、多くの国民にとって身近な存在だった。そんな時代に、あんな犯罪はなかったという反論である。

今のワーキングプアは本当のワーキングプアではない、とかの議論にもなってくる。こんな議論をしていると、何か「小人閑居して不善を成す」という言葉も思い出してきてしまう。そんな、こんなで、うっかり、A:朝日新聞的とでも言うのか、社会心理学のおえらい先生方はの意見は「問題のすりかえ」ではないかと指摘しているうちに、すりかえ先の反発から、別の「問題のすりかえ」の論陣を張ってしまう穴に落ちる危険も感じる。

「物事の背景に正しく言及」するということは大切である。これが正しければ「問題のすりかえ」ではない。「問題のすりかえ」は基本的には、忌わしき悪徳である。Aへの反発から正しい「物事の背景に正しく言及」に行き着くこともあるかも知れない。B的に言えば「甘やかし体質こそ問題である、分相応に勤労に満足しないことそ問題である」なども正しい背景分析の候補ではあろう。

Aの相反としてBの論陣を仮定しているのだが、A、Bの共通点はある。すなわち昔だったらなかったという姿勢である。果たしてそうか?いつまでも、この疑問を抱いていると、A,B双方から文句を言われかねない。

昔だってあったという説明に成功しつつ、AやBを否定しないことも可能かも知れない。なるほど、昔もAが指摘するような背景があって、悲惨なことがおきていた。なるほど、昔もBが指摘するような背景があって、悲惨なことがおきていたなどである。

絶対とは言わないが、比較的相反しているA、Bについて上のようなことが同時に言えてしまうと、もともとAもBも、論考の対象となっていたことの背景としては、あまり関係がないということにもなってしまうのである。

④で「旗本侍の横暴とかもちゃんとした動機がある暴力です」という意見も頂いて、動機の問題は重大として残るものの、一部の旗本侍は、町人、農民と較べて、甘やかされていたから、昔からこうしたやからは、現代からすれば、とんでもない凶行を平気でやっていたという論考もありえるのである。そして何故、現代は町人、農民の系譜から、こんな甘やかされた、やからが出てくるのかという問題にもなって来る。

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2008年8月 1日 (金)

反射光:自殺のすすめ:社会の狂気とは?

SAGAさんが、「自殺のすすめ」というのを書いています。読んでいて自殺以外の点で思ったことがあるので、つらつらと書いてみます。自殺については機会があれば、自分の考えをまとめてみたい。

ジャーナリズムの歴史というのは良く判らない。風評というのも世論を形成するものと1つと考えれば、ジャーナリズムというのは、江戸時代以前にも、それなりにあったという言い方もできるのかも知れない。

起源はともかくとして、将来的にも、ある意味、ジャーナリズムは、いい加減な面もあると言わざるを得ないような気もする。ジャーナリズムの宿命、普遍性の一成分と言ってもよい。

「ジャーナリズムは死んだ」なんて言い方も聞くけど、そんなもの、はじめから生き死に言うほどのものではない気もする。

職業的学識者というのも、ジャーナリズムの協力者、その一部であることも多々あるような気がする。変な犯罪があると、社会が悪い、社会を変えないと発言するような社会心理学のおえらい先生とかがそうである。日頃の勉強・研究がジャーナリズム同様のいい加減さでもある。

ジャーナリズムなんて、所詮エンタメなんだから、いてもいいし頑張ってもいいのかとも思う、同様に、そんな社会心理学のおえらい先生もいていいのかもしれない。

そもそも、昔と較べて世の中が変だという、ジャーナリズムお得意の、判断、思い込みが怪しい。

私がそう思うのは、「統計という名のウソ」「データの罠 世論はこうしてつくられる」「その数学が戦略を決める」と言った本を好んで読むせいでもあろう。ニュース便乗型の学識者の言動は、ジャーナリスト同様、あまり信じられない点は多々ありそうだ。

社会が悪い、社会を変えないという点から言うと、制度設計、教育、モラルとかの他に、人種改良・品種改良というのも視野に入れざるを得ない。

やっていいかは別として、私は日本人の平均身長を伸ばすとか、平均百メートル走のタイムを短くするとかの、人種改良はできると思う。繁殖、生殖行為を自由にさせないことで、ある程度時間をかければ可能である。

ただ、日本人の頭を良くするという人種改良は、とても難しいだろう。まず頭が良いという定義・定量が困難である。それと、例えて言えば、身長とか百メートル走とかは、より脳幹に近い部分のことで、DNA的にも安定していて、品種改良しやすいのだが、頭の良さ的な大脳皮質よりのことは、偶発的、不安定で品種改良しにくいんじゃないかと想像される。

サラブレットって、人間によくなつくし、従順だから、一見賢そうだが、はたして馬なりの知能が高いといえるのだろうか。野生に離たれて、生活判断力がなくて死んでしまうのなら、野生馬より知能が低いとも言える。

たぶん、大脳皮質よりのことは、自然界(神?)は、進化・品種改良的に興味・関心の埒外かと思う。きわめて付帯的なことだ。自然界(神?)から見れば身長1cmの違いは非常に大きいが、東大に入れるかどうか、ノーベルー賞がとれるかどうかの頭の良し悪しの違いなど、誤差ほどにも興味がないことで、その発現のゆらぎを抑えたいほどのことでもない。紙一重とは良くいったものである。

現在、世界で体格や肌の色など、人種での差は大きい。でも先天的な大脳皮質的な頭の出来の差はほとんどないと思う。そんなもの、差というほどのものではないのだ。

人為的な品種改良の最大の問題点。DNAの多様性を枯渇させることの問題点。人工的に品種改良された人種は滅亡する確率が高い。変な病気がはやると一発で滅びる。生き残れる例外がいないのだ。

大脳皮質などの活動の活性は、個体のDNAでの伝承を期待しても、あまり意味はない。それは文字や文化などで伝承されるべきものだろう。ミームである。この点、DNAに期待されるのは将来の発現のゆらぎである。

私はまだ実存が好きだしこだわりがある。自分の実存をミームに託して継承して欲しい。大々的に知らしめなくても良い。スモールワールドで継承するだけでも良い。たいそうな実存でなくても良い。きっとそれには意味があるのだ。甥っ子、姪っ子の子孫、友達の娘、息子の子孫に、影響を及ぼすことだってあるのだ。ネット上のゴーストとして継承され、どこかの時空で再結晶、再結像化されるのだ。実用的に社会に役に立っているかどうかだけで判断した実存なんて、つまらない。伝承して未来の勇気につながる実存であって欲しい。苦しみのない未来なんて、ありえない。

狂気、狂気と騒ぐが、昔はなかったという根拠は一体、何なのか? 東大出身の医学部の教授が、エイズ菌、B型肝炎菌をばらまく。自分は権威のソファーにふんぞりかえって、多くの人間が病苦でのたうちまわるの想像して楽しんでいたのだ。歴代の米国の大統領、日本の総理大臣にも、これに似たりよったりの者がいたとも想像される。

日本には戦国武将英雄のファンも多い。戦争という殺人の狂気は強いて言わないとしても、戦国武将英雄の中に悪趣味の狂気を持っていた人間がいなかったと言い切れるのか? 行政の治世の為の弾圧とは別に、町娘、農家の娘を、猟奇的に虐待して、娯楽として楽しんでいた奴がいなかったと言い切れるのか。武士が辻きり、お手打ちを楽しんでいなかったと言い切れるのか?

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2006年11月 3日 (金)

反射光:必要なことだけ教えることの愚

SAGAさんが、高校の必修科目履修漏問題について、「必要なことだけ教えることの愚」という記事を掲載されています。

 学校関係者の「必要なことだけを教えればいい」という態度、完全に狂っていると思う。

そもそも学業、学問、知性、理性に「必要なことだけ」なんてものは存在しませんよね。

教育というのは、「いかに、必要なものを、少しでも多く、知ってもらうか」ということ。

校長や教師がこれに、背いたことを、絶対に許してはいけないと思う。

 履修してない生徒に甘い処置、仕方がないにしても、その代償は大きくとるべき。

例えば、もっと生徒に厳しい態度で臨めるのなら、関係校長らは、停職、降格、減俸、再教育で済んだところを、生徒の負担を軽くする為に、校長は懲戒免職の道を選ばざるを得なかったぐらいの結果は必要だと思う。私は、こうして、さらに将来を悲観して自殺する校長が出てきてもやむ無しだと思う。生徒達の方が、自分達のことを思ってくれた校長が懲戒免職では可哀相そうだから、100時間でも70時間でも補修履修しますという動きが出てくるなら、素晴らしいことでもある。

 私はというと、私がもし当事受験生だとして、たぶん、再履修負担減嘆願の犠牲になった校長に同情せんと思う。もともとが自分達の為にしてくれたとは思わん。学校の実績優先の自己保身動機の仕業としか思わない。たぶんそんな性格の学生だったと思う。

 そうでなければ、ただ甘い処理ですんだ結果を享受した、生徒達にとって、はなはなだ教育的でない結果を、教育関係者が教えただけのことになってしまう。こうして、得をした生徒も損?をした生徒も、「実社会をナメ、ますますズルガシコイ悪人になっていく」「社会を諦観し軽蔑し、良い子がグレ子になる」傾向を必ず助長すると思う。

 企業なんかも、問題高校の履歴のリストを持って、その高校出身の入社希望者が来たら、面接で、「君はどういう考えで、どうそれをあがなったか、当時の校長らをどう思うか」問うべきだろう。企業の経営陣は会社の宣伝の為にそれを表明し、次の経営陣にも、申し送るとした方が良い。

私、「06年10月1日朝日朝刊から

という記事の最後の方で、「教壇の授業は、あるていど遅れている子ベースが教育の基本です。そのかわり、秀才の子が授業中に、勉強の内職しているの、とがめるのは良くない。」と書いたのは、勉強が他のクラスメートより進んでいる生徒は、数学の授業で数学の内職をして良いという主張。補修履修で、違う大学受験科目の内職は許されない。世界史の補修授業で、大学院レベルの世界史の論文読んでいるのは許せる。

私、自分が受けた、教育制度で心が痛むことがある。当時、学区制度がある公立の志望高校に行くの、下町の中学でレベルが低かったので内申書が楽勝で、一発試験の点数あまり 必要なかったんです。高校入学して、山の手出身のクラスメートには、入試の自己採点結果は秘密でした(笑い)あの中学で文系の学力落ちてしまった(汗)。中学受験に失敗したけど、歴史、地理、生物の知識はあの時の受験勉強が基礎になってる気がする。大学受験は一浪したけど、結構沢山受験して、結果は友達から奇跡、フロックと言われたし、自分でもそう思う。ただ、今思うと、本気で受験勉強しなかった3年間は、なにものにも代えがたい時間だった。大学入試の一発試験の準備なんて、記憶力の悪い私には1年以上は長すぎたんです(笑い)。大学での感想。エレベータで来たやつら、学力、低い方に偏ってつくづくピンキリだと思った。

 高校での勉強、はやくから理系志望だったけど、歴史とか嫌いだったわけじゃない。中学のときからなんだけど、幾分意地もあって、歴史の中間、期末試験とか、年号とか覚えなかったし、たまたま知っていても、わざと年号の問題には解答しなかった。そんなゆとりもあった。

効率的すぎるのは、私も寂しい。酒飲んで、学生時代の話をするとき、「普段、読書とかしてないくせに、(遊び、部活に夢中、趣味に没頭)中間、期末試験がせまって、勉強しなきゃならないときに限って、何故か小説・新書・ブルーバックスとか読み始めちゃう」てな話題になって意気投合、それを聞いて「フン」なんて態度の秀才君とは、仲良くなれませんね(笑い)

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