2009年10月 5日 (月)

JRubyの勉強1

2009年10月5日

Jrubyを「JRuby 徹底入門」(ソーテック社)を使って勉強し始めた。

本の通りに、jruby-bin-1.1.2をダウンロードして、C:\jruby ディレクトリにして環境変数も本の通りにして、例題とか上手くいっていたのだが、jruby -S gem rake コマンドで失敗した。

結局、jruby-bin-1.1.2をやめて、jruby-1.4.0RC1をインスト-ラーでイントールし環境変数も自動設定してもらって、コマンドjruby -S gem rakeが実行できた。使っているファイアーウォールの設定変更も必要なかった。

このイントーラーは

http://kenai.com/projects/jruby/pages/Home

にあった。

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2009年5月29日 (金)

09.04.30朝日ジャーナル・赤木智弘氏へのインタビュー

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナルの赤木智弘氏へのインタビューを論文を読んでいて

「論座」2007年1月号の、氏の有名になった論文は読んでいない。赤木氏の情報発信をちゃんと捕捉していない。 そうした情報は、いくらかでも、希望者の数が多ければそれなりの、赤木氏の収入になる形で、金を払って入手したいと、私個人は思う。

そうするだけの、情報の固有価値が赤木氏だけにあるのではなく、すなわち、我々が知らないだけで、赤木氏と同水準の、情報、意見を発信している赤木氏と同世代の人たちが潜在的にもいるのかも知れないが、論座が注目して世に出した赤木氏とのコラボを、ここはすなおに肯定したい。これは私にとっては対価を払って得るだけの情報として赤木氏の固有の価値と私はする。いくぶん、運も実力のうちの見方が入っているかも知れないが、そうかどうかは、私なりに、赤木氏を見極めてみないと判らない。でもそれは他の有名で社会的地位が確立している言論人だって同じことであろう。実力のこもった言論は最初だけで、有名になってからは、貫禄でごまかして、実は中身が空っぽのことしか書いていないかもしれないのである。

戦争は、なんとしても嫌ではあるが、赤木氏の心情は、なんか、すごく理解できしまうような気がする。
戦争が嫌いだから、赤木氏とは話もしたくないというのでは、戦争を嫌う気持ちの方が本物でないような気がしてしまうのである。

赤木氏と話しもしたくない人は、戦争さえ起きなければ、赤木氏たちのように、考える力がありながら、働いても、働いても、やるせない生活が、死ぬまで続くという生活に、かろうじて、ならずにすむ確率がある程度以上高い人なんだということを思い知らされる。戦争が嫌いだから、赤木氏とは話もしたくないという平和主義の信条というのは、なんとか、こうした状態にしがみつき、そこそこそこに安住を見出している者達なんだなという気もしてくる。穂影もその一人である。

赤木氏と話しもしたくないと言う、背広を着た世間で認めてもらっている、言論人知識人などは、さらに穂影などよりも、ずっと可能性的にも、一番ひどかったときの赤木氏の状態から、距離が大きい、ゆとりのある人々だろう。その状態で平和主義者でいる。

戦争というのは、赤木氏らが起こして欲しいから起きるのではなく、今、赤木氏と話しもしたくないという平和主義者が、一番ひどかったときの赤木氏の状態に近くなるという危機感で起きるのだということを歴史は教えているように思う。つまり餓死するという恐怖ではなくて、明日から車にガソリンを入れる為には、ステーキが食えなくなるで戦争をするのである。
その程度の平和主義者は、赤木氏もあっと驚く豹変をいとも簡単にやってのけるのである。米国民がそうである。赤木氏らではなく、米国民がそうしたいと思えば、日本国民は徴兵され従軍せざるを得ないのは現在でもそうである。日本人が戦う相手は、米国に言われて中国かもしれないし、また米国かも知れないのである。
あるいは、やがてはその役割は米国民でなく中国国民に移るかも知れない。日本人は中国国民が望むから米国と戦争し、あるいは中国と戦争をするかもしれない。

赤木氏らと、十分にこうした話をする必要があるように思える。

私は、戦争する勇気よりも、戦争しないで、みんなで貧乏になる勇気が欲しかったと、書いたことがあるが、それができるなら、今、一番ひどかったときの赤木氏の状態と変わる勇気があるのかと問われてもいかしかたあるまい。

今後、太平洋戦争ようなことを避けること。その抑止力は赤木氏の存在が握っているように思える。社会的地位のある平和主義の言論人は頼りない。
あの太平洋戦争勃発のとき、今のような、社会的地位のある平和主義の言論人がいなかった訳ではなかろう。それでも米国民が望んだから、太平洋戦争は起きた。
米国民が自らを欺く為に欲しがった大義名分をチャーチルとルーズベルトの画策によって成就させられてしまったから起きた。
米国人が、日本人が、みんなで貧乏になる勇気がなかったから起きた。

そして当時、もっと貧乏な若者がたくさんいたのに、赤木氏のような若者がいなく、その若者と、米国がどのようにして戦争を起こすかについて、十分に話し合う機会を持たなかったから起きたようにも思えるのである。

今、赤木氏の希望がかなう確率は、必ずしも低くはない。蟹工船のブームは、無意味であろう。

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09.04.30朝日ジャーナル・斉藤貴男氏

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナルの
斉藤貴男氏の論文を読んでいて

朝日新聞系だからリベラル・左翼系なのかも知れない。
保守系・タカ派・差別主義的な人達として、三浦朱門氏、ノーベル物理学賞の江崎氏、石原慎太郎氏、小泉元首相らの言動などを批判しているようにも思える。

タカ派・愛国主義的な文化人・知識人について、何となく思うことがある。
西洋的な事で社会で成功しようとしながら、世界に認められなかった人に、そういう人が多いのではないのかという仮説である。
もっとも、穂影のように、何がなんでも社会で成功しようという根性が萎えているから、のほほんと、ハト派国際協調派モドキでいられるのだという意見もあろう。タカ派・愛国主義的でない凡人は無責任、根性無しということになる。

三島由紀夫氏は、和歌・俳句や漢詩というようりは、近代の小説家だから、西洋的なことで社会にデビューした人かと思う。能力、才能としても自分は日本人離れしているとの自負・自信が強かった人と想像する。それでもノベール文学賞は、川端康成氏、大江健三郎氏が受賞しても、三島氏はとれなかった。何故、自分は受賞できなかったという葛藤が、タカ派・愛国主義的、保守的な伝統主義に走らせるのではないかと想像してしまう。日本人として卓越している自分は日本人にしか評価できない、日本人よ日本人たれということになっていくのではないだろうか?川端康成氏、大江健三郎氏は外国に媚びていたから賞が取れたということになる。

はじめから、日本古来で勝負してきている日本の第一人者には、意外とタカ派・愛国主義的な人が少ないように思える。日本文化の世界への紹介について熱心な、他国の独自文化に対する敬意が深い、リベラルな国際派が多いような気がする。

スポーツでも、世界で通用する日本人選手は、タカ派・愛国主義的な人たちから英雄視もされるが、ご本人達は、外国のライバルを敬愛するリベラルな国際派の方々ではなかろうか。半端な選手だと、外国勢はズルイとかいって、タカ派・愛国主義的に走るかも知れない。柔道・相撲とかの将来、あるいは福原愛ちゃんや石川遼君の将来が心配でもある。

音楽家の故・黛敏郎氏は、タカ派・愛国主義的な印象を持たれていなかっただろうか?西洋音楽をやっていても、「世界の小沢」とかまでにはなれなかった。三枝成彰氏とかは大丈夫だろうか?

「国家の品格」の藤原正彦氏は、タカ派・愛国主義的な人とは言えないかもしれないが、保守系という印象の強い雑誌の取材をお受けになることが多くないだろうか。お父様は私の敬愛する新田次郎氏で、ある意味、重い十字架とも思う。数学者として立派な方でもあろうが、フィールズ賞とかの距離も気にしないではない。
藤原正彦氏は小川洋子さんの「博士の愛した数式」のモデルとも言われるが、それは事実だとしても、数学への愛情、フィールズ賞とからの距離はそうかもしれないが、ほんのチョッピりであろう。何より大切な博士の愛すべき性格は、小川洋子先生の全くのオリジナルかと思う。

ノーベル物理学賞の江崎氏の業績と能力が素晴らしいものであることは言うまでもないし、物理学以外の教養でも、穂影などがとうていおよぶところではない。でもDNAや遺伝学の知識、あるは人間観察の力量は本当の専門家と同列というわけにいくまい。同じノーベル物理学賞を受賞していても、広い教養と洞察で、数々の名著を残されている、湯川博士・朝永博士は高い壁かと想像する。小柴博士は、チームの業績と巨大資金ビッグサイエンスのマネージメンとの成果という謙遜があるようにも思える。世俗世間での人間的魅力としても南部博士・小林博士・益川博士・田中博士に負けてしまっているような口惜しさもあるかなと想像してしまう。

ところで、江崎氏はご自身の考えと芝浦工大の学長であることの折り合いをどうつけるのだろうか心配にもなってしまう。江崎氏が学長していると、東大、京大、早稲田より良いDNAが集まるのかしらん?でないと教育しても無駄???
あるいは努力はしていた、東大、京大、早大出身者のDNAの歩留まりが、あまりも悪かったという氏の観察経験なのかしらん?

石原慎太郎氏は文学者としての経歴があるのかないのか微妙ではある。ただ広い範囲の教養・知識でも、穂影などがとうていおよぶところではないし、石原氏は立派な教養人・知識人ではある。麻生総理なども遠くおよぶところではない。しかもエンターテイメントとして小説で成功しているのは、素晴らしいことである。実績で、勝てば官軍的に立派なクリエータである。やや低いレベルで人心掌握術に長けていたという証明はしている。ただ、政治家として実力者だからといって、むやみに、文学者・思索家としての大江健三郎氏とかを軽んじて、影を踏むに全く躊躇しないとしたら、やや問題ではあると思う。無論、創造的・発展的に大江健三郎氏らと激しい論戦をすることは別である。
人心掌握術に長けているという自信が、2ちゃんねる的な意見にゆずりすぎるという結果で終わると、石原氏のせかっくの大きく物事をつかむ力の可能性に、水をさすという結果にもなりかねないと心配にもなる。
計算通りに低いレベルでエンターテイメントで成功できてしまうというのは、どこか顧客を馬鹿にしている放漫さが残る。
ただ石原氏が説く、臆せずNOと言うべきときは言うというのは、とても大切ではある。
政治家としては、これからもあるが、物書きとしては石原氏の方がチャーチルより上かなとは思う。(読んだことはないが)。お国の為に石原氏の良さを生かすとして、策士として上である必要はないと思う。

自国を愛することの大切さは、自国を愛する他国の人々を敬愛・理解できてこそ意味のあることであろう。自国を愛したいがいゆえに、自国の現状を憎む気持ちも、自国民に対しても、他国民に対しても理解できる力も必要となろう。

私は、月並みな考えではあるが、矮小、いやしい、気質としての愛国主義、国粋主義、選民思想、差別主義を、美意識、美学的にも、理知の敵として忌避するのである。

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09.04.30朝日ジャーナル・鶴見俊輔氏

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナル
の鶴見俊輔氏の論文を読んでいて。

氏いわく、
大学出で「首席だ」「一番だ」と言って、官界、財界のトップに君臨する人たちが、国民に意見を譲るだけで、大きく物事をつかむ力もないのに、政治の中枢に座り、世論をリードする地位について、日本を悪くしていると言う。

その悪さは、日露戦争のポーツマス条約を不服とする、国民の意見に譲りはじめたころから、現在まで連綿と、続いているという。

昭和の初めには、国民に意見を譲らない政治家や知識人はバタバタと殺されていったとも言う。

この点はどうなんだろうか? 昭和初期に政治家や知識人が殺されていった背景は、太平洋戦争突入もつながるが、果たしてこの背景は農家の母達などの草の根の国民の意見の結果だったろうか? ここで、国民の意見を、この背景に無批判だった、当時の都会のサラリーマン男子達のこととして言うなら、確かに、昭和初期の政治家や知識人は国民の意見で殺されていったのかもしれない。鶴見氏にとっては、農家の母達は、国民の意見には、入らないのかもしれない。

ただ確かに、昭和初期の政治家や知識人が殺されていった状況を静観していたのは、当時の、大学出で「首席だ」「一番だ」と言って、官界、財界のトップに君臨する者たちであり、当時の都会のサラリーマン男子達ではあったかも知れない。そこには、維新の獅子達のように世論を飛び越えて大きく物事をつかむ力を持つ者が、不在であったかも知れない。

鶴見氏の、今だ、日本の大学出が世の中を悪くしてきたから、日本の大学出が嫌いだという気持ちもわかるような気がする。

私も今の日本の、大学規模至上主義、大学進学市場至上主義、大学教職員就業市場を聖域化すること、文部科学省大学部局規模至上主義は、大変おかしいと思う。

鶴見氏は、大学を出ていない賢人の例を現代も含めて、いく人か上げている。

まして、IT、ネット時代である。これからも、各方面で大学を出ていない偉人が多く出てくる必要があろう。

既に大学を出た人たち、これから大学を出ようとする人たちが問われるべきこと。社会に出て、大学を出てなくても教養学問をつんだ、あるいは地頭と経験が素晴らしい人と対峙して、自らのキャリアを辱められたら、どうするつもりなのか? にたような大卒の同僚とつるんで、見苦しい光景を展開するのみであろうか? 当面、最近に限らず、日本の大卒者は、そのことをもって、十分に自虐的であるのが、とりあえず望ましいところであろう。

そうでなくて、鶴見俊輔氏に嫌われるような大卒者にだけはなるべきではない。

そのような卒業者が多くなりがちな大学にも行くべきでもない。そのような大学の教授や職員にもなるべきではない。

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2008年3月20日 (木)

統計 絶対計算 フェルミ推定 サイコロの傷

最近、書籍活字に親しむペースが落ちている。特に文芸系である。

最近読んで、印象に残っているのは3冊で、合わせワザである。

①:「統計という名のウソ 数字の正体、データのたくらみ」 ジョエル・ベスト 著:林大 訳

②:「その数学が戦略を決める」イアン・エアーズ 著:山形浩生 訳

③:「地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」」 細谷 功 著

である。

①と②は、私の中では、背反でもなくて、相補的でもある。

②の言う、テラ規模、天文学的数字規模の絶対計算統計は、脅威でもある。それが秘密裏に行われ、公知として活かされない恐さ。その成果を偽る恐さ。それに振り回せられる恐さ。

統計の真価、危うさは、精密さ厳密にも係わる。統計は確率論でもあるから、精密さは、統計の場合は規模でもある。

絶対計算は思考を拒否するようにも思えるし、思考(思い込み・現象無視)に反省を促すようにも思える。絶対計算は絶対計算にしか評価されえないのか?

③のフェルミ推定にはホットする。定量的であることは、やはり判断基準として大切である。しかし精密であるばかりが能ではない。論理判断に基づいた大局もまた大切なのである。絶対計算は大資本である。あまねく人間個人のものではない。フェルミ推定の資質は1個人で持つことが可能だ。そして素早い。

新聞などを読むとき、これらの書籍から感じ取ったものからすれば、思考停止で書かれた惰性判断が記事にあふれかえっていることが判る。

どちらかというと自然科学の法則・構造に比べれば、人間社会の構造は比較的容易に変化し得える。絶対計算といえども、社会科学、経済学的現象において、絶対計算の限界というのものはありそうだ。ただ、今は絶対計算に分があるというのは言えることが多いだろう。

絶対計算は後だしジャンケンでもある。あたる間は絶対計算である。統計予測は思考のいらない構造分析そのものなのだ。構造の変化をどれだけ予測できるかが絶対計算の問題点でもある。絶対計算は振っているサイコロの性質をサイコロを見なくても明かにする。しかし、そのサイコロが突如、欠けてしまって、性質が変わることまでは予測し難い。確かにサイコロが欠ける兆候は感知するかも知れないが、その兆候の評価は、それまでの実績ほどの精度は望むべくもない。サイコロが欠けそうなこと、欠けてしまっていることを直接、見ることも大切なのである。

そして何より大切なこと、我々の一人一人が、後に続く者がいる、サイコロが欠けたり割れたりする、きかっけになる最初の傷をサイコロにつけることができるのである。

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2008年3月17日 (月)

洋書は高いなー

「その数学が戦略を決める」という文芸春秋の訳書は税込み1714円で

日本のamazonで原書を調べると、ハードカバーが税込みで2308円、ペーパバックが税込みで1433円

アメリカ1ドル、98.85円として、米国のAmazonのページでは、

ハードカバーが16.5ドル=1631円、ペーパバックが11.2ドル=1107円

書籍に関しては関税フリーということなので、流通経費と認識するが、やはり洋書は高い。

日本では、かなり大きな大型書店でないと、(語学副読本ペーパバックは別として)洋書コーナというのはないと思う。

昨今、英語教育熱が高まっているが、本当にそうであるだけ、多くの日本人にとって、それが必要なら、どんな本屋さんでも、さりげなく英語版の書籍がおいてあるのが自然かとも思う。日本の印刷工場で印刷された英語版があっても不思議でない時代が来るのだろうか?

洋書コーナというのでなくて、理工学、コンピューター、経済、文学という書架に、ある程度の占有率で英語版が自然にあるような時代が来るのだろうか。その前に紙媒体の書物は衰退して、本屋というものが存在していないかも知れないが。

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2006年7月23日 (日)

電子書籍・電子出版

私、電子書籍とかに興味があって、SAGAさんとかの意見なんか聞きたいなと思ってました。レス違いですがTBさせて頂きます。

 私は、今のところ電子書籍というものをあまり利用していません。

ただ期待感はあるんです。紙メディアの書籍と遜色なくなったら多いに活用したいと思っています。

まず経済的な理由で、購読料が書籍より、凄く安くなって欲しいと思っています。特にあまり売れないような専門書なんかにおいてです。紙に印刷したり、製本したりする必要がないんだから、その分安くなることが期待されます。

次の理由は、スペースの問題ですね。私は、今のところ、ほとんど読み返えさない方なんだけど書籍を捨てない傾向があるんで、部屋がどんどん狭くなっちゃてるんです。

なんか書棚って自分の履歴のような気がしてるんですよね。友達の家に行っても、書棚を観察する悪い?クセもある。何故か本というのは貸すとまず返ってこない(新聞、雑誌の切り抜きもそう)ので、出来れば貸したくない。書棚にあっても自慢したくない軽い本は、積極的に家族で回し読みするけど。本を返さない人って、たかが本と思ってるのかな。私は記憶力が悪いので本を所有しているんだけど、返してくれないと、脳みその一部をかきとられたような不快感がある。

こういう私が、電子書籍を利用するようになると、読んだファイルをハードディスクにためこんで悦にいるようになるのかなぁ。ただ電子書籍って期間限定でしか読めないのが主流なんですかね?

出来れば、有料で購入する電子書籍であれば、自分のハードディスクを消費するのもヤダから、(自分のハードディスクは壊れることもあるし)永久アクセス権とかの形にできないかな、なんて考えています。読む対象のファイルはあくまでも向こうにあるんですね。そしてバーチャル・プライベート書棚、書斎とかを構築するサービスとかできないかな。

悪趣味だけど、自分の蔵書、友達に自慢したりして。自分の子供なんかにも税金とか払って相続できる形になるのかしらん?

今持ってる、紙の書籍もしかるべきところに持っていくと、こうしたシステムに置き換えてくれるサービスとかも成立しないでしょうか?

このバーチャル書棚だと、全文検索とか、いろいろ便利ですよね。

こんなサービスを利用しなくても、読んだ本は自分で目録つくっておけば良いのかもしれない。気になる部分があったら、一般検索して、必要な範囲を従量料金で読みかえし確認すれば良いのかな? だとすると、今の期間限定閲覧方式でも良いのかな。

論文なんか発表して、参考文献名を後書きすると、本当にその人、その本買ったことがあるのか、判っちゃう時代が来るかもしれない。

こういうシステムは著作権の問題とかコピー防止とかの問題ありますよね。ただ、印刷や製本に従事している方々のお仕事が縮小するとかの心配はどうなんだろう?

私は、少なくとも日本は、少子高齢化になるんだし、この点の気遣いはしたくない。

これまで、文筆で身を立てこられてきた方々は、印刷や製本に従事されてきた方々への恩義が捨てられないのでしょうか?

ただ、読み手としては、ムダな経費を省いて読書が安価になれば助かるし、著作者の方々も、実入りは良くなるんじゃないかという気もする。出版自体が安上がりにもなる。

やっぱインターネット技術で解決して欲しいかな。携帯は本人確認、課金がしやすいんだろうけど、通信料の寡占がシャクにさわります。

(あと、ブロードバンドを脅迫的にあおる商売もほどほどにして欲しい。ナローバンドで、「タイムアップで切断されました」がやたらないようにして欲しい。こちとら金はないけど時間はある。PCの前、離れて、しなくちゃならいこともたくさんあるんじゃ。)

知的に高度な書籍は、貧乏人にはアクセスしにくかった。日本人の知性を世界で最も発展させたいと願うのならば、そのような書籍を書ける方々は電子書籍に積極的になって欲しいとも思う。IT技術者の方々も、著作される方々の代償を守れる技術を確立して欲しいとも思うのです。

一度、なんらかの理由で、紙の書籍が、全く売れんようになった方が、そして紙の書籍関連の会社が次々に破綻・崩壊して権利関係が散逸した方が、電子書籍社会到来が早くなるんでしょうか?

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