2009年6月 4日 (木)

一生懸命

一生懸命って大切だと思う。

一生懸命であることを、評価・称賛・敬愛し、場合によっては、その前提で、人にそれを期待することも、よろしいかなと思う。

ただ、一生懸命の型というのは人によって、違っているんだと思う。

だから、型まで含んで、特に自分固有の型で、人に一生懸命であれとさとすのは、よろしくない。

人から、特定の型で、一生懸命であれと、圧力をかけられて悩んでいる状態から、場合によっては、人目を気にせず、早く自分の型を見出して、一生懸命になれることが肝要である。

何故、一生懸命になれるのか、それは自分の納得の為であり、人に納得してもらう第一歩である。納得は知りたがることでもある。知りたがることなくして、自他を欺いて、一生懸命はない。

感じることは知ることである。感じないで知ることに価値はない。

人からの評価を得るのに急ぐな。それは死んでからっだって、とわの先だって良い。自分の納得が大切である。

一生懸命である人々が集って、何事かを成すこと、美しくも素晴らしい事である。

板の上や、映像で、演劇活動にかかわっている方々、

ウェブ上で、オープンソース、フリィーウエア、API、クラスの開発に参加している方々、

ブロガーたらんとしている方々

うらやましくもある。

営み、事業とは、そうでありたいものである。

人づきあいが苦手であっても、どこかで、つながって、一生懸命が生きる通路は必ずある。

経済、金融、投資はインフラでもあり、重要でもあるが、二の次で良い。株・投機 そこにどんな自分の納得があるのだろうか?

貯えることに納得を見出すのは、否定しない。

人生には限りがある、背負って生まれてきたものを生かし克服し、同類を勇気づけられる、進化の可能性を示唆できる、美しいアンガジェマンで終わりたい。道半ばも立派なアンガジェの有終である。

どういう気持ちで、闘病するか、キーパンチするか、どぶすさらいするか、官僚するか、育児するか、政治家するか、かしづくか、軍人するか、ベッドメーキングするか、・・・すべて一生懸命に足る重要なアンガジェである。

知りたいことに、一生懸命であれ。一生懸命が、感じるに値すること、知るに値することを生みだす。

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2009年5月29日 (金)

09.04.30朝日ジャーナル・赤木智弘氏へのインタビュー

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナルの赤木智弘氏へのインタビューを論文を読んでいて

「論座」2007年1月号の、氏の有名になった論文は読んでいない。赤木氏の情報発信をちゃんと捕捉していない。 そうした情報は、いくらかでも、希望者の数が多ければそれなりの、赤木氏の収入になる形で、金を払って入手したいと、私個人は思う。

そうするだけの、情報の固有価値が赤木氏だけにあるのではなく、すなわち、我々が知らないだけで、赤木氏と同水準の、情報、意見を発信している赤木氏と同世代の人たちが潜在的にもいるのかも知れないが、論座が注目して世に出した赤木氏とのコラボを、ここはすなおに肯定したい。これは私にとっては対価を払って得るだけの情報として赤木氏の固有の価値と私はする。いくぶん、運も実力のうちの見方が入っているかも知れないが、そうかどうかは、私なりに、赤木氏を見極めてみないと判らない。でもそれは他の有名で社会的地位が確立している言論人だって同じことであろう。実力のこもった言論は最初だけで、有名になってからは、貫禄でごまかして、実は中身が空っぽのことしか書いていないかもしれないのである。

戦争は、なんとしても嫌ではあるが、赤木氏の心情は、なんか、すごく理解できしまうような気がする。
戦争が嫌いだから、赤木氏とは話もしたくないというのでは、戦争を嫌う気持ちの方が本物でないような気がしてしまうのである。

赤木氏と話しもしたくない人は、戦争さえ起きなければ、赤木氏たちのように、考える力がありながら、働いても、働いても、やるせない生活が、死ぬまで続くという生活に、かろうじて、ならずにすむ確率がある程度以上高い人なんだということを思い知らされる。戦争が嫌いだから、赤木氏とは話もしたくないという平和主義の信条というのは、なんとか、こうした状態にしがみつき、そこそこそこに安住を見出している者達なんだなという気もしてくる。穂影もその一人である。

赤木氏と話しもしたくないと言う、背広を着た世間で認めてもらっている、言論人知識人などは、さらに穂影などよりも、ずっと可能性的にも、一番ひどかったときの赤木氏の状態から、距離が大きい、ゆとりのある人々だろう。その状態で平和主義者でいる。

戦争というのは、赤木氏らが起こして欲しいから起きるのではなく、今、赤木氏と話しもしたくないという平和主義者が、一番ひどかったときの赤木氏の状態に近くなるという危機感で起きるのだということを歴史は教えているように思う。つまり餓死するという恐怖ではなくて、明日から車にガソリンを入れる為には、ステーキが食えなくなるで戦争をするのである。
その程度の平和主義者は、赤木氏もあっと驚く豹変をいとも簡単にやってのけるのである。米国民がそうである。赤木氏らではなく、米国民がそうしたいと思えば、日本国民は徴兵され従軍せざるを得ないのは現在でもそうである。日本人が戦う相手は、米国に言われて中国かもしれないし、また米国かも知れないのである。
あるいは、やがてはその役割は米国民でなく中国国民に移るかも知れない。日本人は中国国民が望むから米国と戦争し、あるいは中国と戦争をするかもしれない。

赤木氏らと、十分にこうした話をする必要があるように思える。

私は、戦争する勇気よりも、戦争しないで、みんなで貧乏になる勇気が欲しかったと、書いたことがあるが、それができるなら、今、一番ひどかったときの赤木氏の状態と変わる勇気があるのかと問われてもいかしかたあるまい。

今後、太平洋戦争ようなことを避けること。その抑止力は赤木氏の存在が握っているように思える。社会的地位のある平和主義の言論人は頼りない。
あの太平洋戦争勃発のとき、今のような、社会的地位のある平和主義の言論人がいなかった訳ではなかろう。それでも米国民が望んだから、太平洋戦争は起きた。
米国民が自らを欺く為に欲しがった大義名分をチャーチルとルーズベルトの画策によって成就させられてしまったから起きた。
米国人が、日本人が、みんなで貧乏になる勇気がなかったから起きた。

そして当時、もっと貧乏な若者がたくさんいたのに、赤木氏のような若者がいなく、その若者と、米国がどのようにして戦争を起こすかについて、十分に話し合う機会を持たなかったから起きたようにも思えるのである。

今、赤木氏の希望がかなう確率は、必ずしも低くはない。蟹工船のブームは、無意味であろう。

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09.04.30朝日ジャーナル・斉藤貴男氏

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナルの
斉藤貴男氏の論文を読んでいて

朝日新聞系だからリベラル・左翼系なのかも知れない。
保守系・タカ派・差別主義的な人達として、三浦朱門氏、ノーベル物理学賞の江崎氏、石原慎太郎氏、小泉元首相らの言動などを批判しているようにも思える。

タカ派・愛国主義的な文化人・知識人について、何となく思うことがある。
西洋的な事で社会で成功しようとしながら、世界に認められなかった人に、そういう人が多いのではないのかという仮説である。
もっとも、穂影のように、何がなんでも社会で成功しようという根性が萎えているから、のほほんと、ハト派国際協調派モドキでいられるのだという意見もあろう。タカ派・愛国主義的でない凡人は無責任、根性無しということになる。

三島由紀夫氏は、和歌・俳句や漢詩というようりは、近代の小説家だから、西洋的なことで社会にデビューした人かと思う。能力、才能としても自分は日本人離れしているとの自負・自信が強かった人と想像する。それでもノベール文学賞は、川端康成氏、大江健三郎氏が受賞しても、三島氏はとれなかった。何故、自分は受賞できなかったという葛藤が、タカ派・愛国主義的、保守的な伝統主義に走らせるのではないかと想像してしまう。日本人として卓越している自分は日本人にしか評価できない、日本人よ日本人たれということになっていくのではないだろうか?川端康成氏、大江健三郎氏は外国に媚びていたから賞が取れたということになる。

はじめから、日本古来で勝負してきている日本の第一人者には、意外とタカ派・愛国主義的な人が少ないように思える。日本文化の世界への紹介について熱心な、他国の独自文化に対する敬意が深い、リベラルな国際派が多いような気がする。

スポーツでも、世界で通用する日本人選手は、タカ派・愛国主義的な人たちから英雄視もされるが、ご本人達は、外国のライバルを敬愛するリベラルな国際派の方々ではなかろうか。半端な選手だと、外国勢はズルイとかいって、タカ派・愛国主義的に走るかも知れない。柔道・相撲とかの将来、あるいは福原愛ちゃんや石川遼君の将来が心配でもある。

音楽家の故・黛敏郎氏は、タカ派・愛国主義的な印象を持たれていなかっただろうか?西洋音楽をやっていても、「世界の小沢」とかまでにはなれなかった。三枝成彰氏とかは大丈夫だろうか?

「国家の品格」の藤原正彦氏は、タカ派・愛国主義的な人とは言えないかもしれないが、保守系という印象の強い雑誌の取材をお受けになることが多くないだろうか。お父様は私の敬愛する新田次郎氏で、ある意味、重い十字架とも思う。数学者として立派な方でもあろうが、フィールズ賞とかの距離も気にしないではない。
藤原正彦氏は小川洋子さんの「博士の愛した数式」のモデルとも言われるが、それは事実だとしても、数学への愛情、フィールズ賞とからの距離はそうかもしれないが、ほんのチョッピりであろう。何より大切な博士の愛すべき性格は、小川洋子先生の全くのオリジナルかと思う。

ノーベル物理学賞の江崎氏の業績と能力が素晴らしいものであることは言うまでもないし、物理学以外の教養でも、穂影などがとうていおよぶところではない。でもDNAや遺伝学の知識、あるは人間観察の力量は本当の専門家と同列というわけにいくまい。同じノーベル物理学賞を受賞していても、広い教養と洞察で、数々の名著を残されている、湯川博士・朝永博士は高い壁かと想像する。小柴博士は、チームの業績と巨大資金ビッグサイエンスのマネージメンとの成果という謙遜があるようにも思える。世俗世間での人間的魅力としても南部博士・小林博士・益川博士・田中博士に負けてしまっているような口惜しさもあるかなと想像してしまう。

ところで、江崎氏はご自身の考えと芝浦工大の学長であることの折り合いをどうつけるのだろうか心配にもなってしまう。江崎氏が学長していると、東大、京大、早稲田より良いDNAが集まるのかしらん?でないと教育しても無駄???
あるいは努力はしていた、東大、京大、早大出身者のDNAの歩留まりが、あまりも悪かったという氏の観察経験なのかしらん?

石原慎太郎氏は文学者としての経歴があるのかないのか微妙ではある。ただ広い範囲の教養・知識でも、穂影などがとうていおよぶところではないし、石原氏は立派な教養人・知識人ではある。麻生総理なども遠くおよぶところではない。しかもエンターテイメントとして小説で成功しているのは、素晴らしいことである。実績で、勝てば官軍的に立派なクリエータである。やや低いレベルで人心掌握術に長けていたという証明はしている。ただ、政治家として実力者だからといって、むやみに、文学者・思索家としての大江健三郎氏とかを軽んじて、影を踏むに全く躊躇しないとしたら、やや問題ではあると思う。無論、創造的・発展的に大江健三郎氏らと激しい論戦をすることは別である。
人心掌握術に長けているという自信が、2ちゃんねる的な意見にゆずりすぎるという結果で終わると、石原氏のせかっくの大きく物事をつかむ力の可能性に、水をさすという結果にもなりかねないと心配にもなる。
計算通りに低いレベルでエンターテイメントで成功できてしまうというのは、どこか顧客を馬鹿にしている放漫さが残る。
ただ石原氏が説く、臆せずNOと言うべきときは言うというのは、とても大切ではある。
政治家としては、これからもあるが、物書きとしては石原氏の方がチャーチルより上かなとは思う。(読んだことはないが)。お国の為に石原氏の良さを生かすとして、策士として上である必要はないと思う。

自国を愛することの大切さは、自国を愛する他国の人々を敬愛・理解できてこそ意味のあることであろう。自国を愛したいがいゆえに、自国の現状を憎む気持ちも、自国民に対しても、他国民に対しても理解できる力も必要となろう。

私は、月並みな考えではあるが、矮小、いやしい、気質としての愛国主義、国粋主義、選民思想、差別主義を、美意識、美学的にも、理知の敵として忌避するのである。

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2009年4月24日 (金)

くさなぎさんのお酒の失敗?

2009年4月24日読売朝刊・朝日朝刊を見て、草なぎさんが泥酔して失敗されたことが報道されていた。びっくりしたのは、報道が大きいこと。記事を読んだ印象として、この時点なら普通は小さい記事で済ませるところだろう。

朝日朝刊も読売朝刊も、芸能週刊誌じゃあるまいしと、正直思う。

政財界官僚の不祥事など、重要な報道は山積みである。草薙さんをスケープゴードにする狙いでもあるのだろうか?

そこそこ酒を楽しむ穂影なども、少なからず、酒での失敗はある。新聞社の人間だって、そういう人間は少なくないはずだ。

ふだんは、気取っている管理職の会社人間の中にも、酒で品格に欠ける人間ははいて捨てるほどいて、二日酔いの後、ケッロとして、いいきなもんである。

とりあえず、草薙さんの場合は、飲酒運転や暴力、薬物に関連がないようなので、この点に関しては、なによりであった。

日本は飲酒の間違いに対する自己責任追及が、つい最近まで恐ろしいほど甘い国であった。死刑になるべきところを、飲酒が免罪布になってしまっていたのである。飲酒運転への規制もやっと最近になって厳しくなったのである。

草薙さんは、お酒がお好きということをバラエティ番組でも、ある程度ウリにされているようだった。これまで、お酒で回りに迷惑をかけているという話は我々の耳には入っていなかった。お酒に強いと、飲んでも間違いが少ないということはある。草薙さんが、もし世間に知られていないお酒の間違いが多かったとしたら、周りの人々の責任は重い。

今回は、普段身近な人たちにとっても、あの草薙さんがとビックリなら、草薙さんの抱えていた心のストレスは何なんだろうかと思わずにはいられない。しかし、そうした心配も、まづは、普段身近な人達が持つべきものであって、報道の役割でないし、報道から守るのが筋かと思う。

草薙さんの品格というより、これに関連して新聞社等の品格のなりゆきを注視する穂影である。

追記)無責任な勝手な妄想だが、草薙さんの心のストレスが、地デジ移行のCMのお仕事を通じて、広告代理店などCM受注を通じて、多額のリベートが例えば郵政関係の公職の人間に渡っていることを、たまたま知ってしまった、そんな正義感の葛藤だったらなぁーと妄想してしまう。仮に、そうでなくても、そんな気配を知っているなら、草薙さんが反省とは別に、逆襲してくれれば面白いと思ってしまうのである。あるいは、CMのギャラがもとをただせば税金であることの自責葛藤だったにしてしまうとかである。もっともファンとしては、そんな葛藤や悩みは吹き飛ばして、今後も良いお仕事を続けて、私たちに心の糧を与え続けて欲しいと思う。そんな正義感はジャーナリズムや司直の責務であって、我々ファンが草薙さんに求めているのは芸能人としての、感動や面白さを伝える力である。ストレスを乗り越えるように応援したい。

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2008年3月17日 (月)

洋書は高いなー

「その数学が戦略を決める」という文芸春秋の訳書は税込み1714円で

日本のamazonで原書を調べると、ハードカバーが税込みで2308円、ペーパバックが税込みで1433円

アメリカ1ドル、98.85円として、米国のAmazonのページでは、

ハードカバーが16.5ドル=1631円、ペーパバックが11.2ドル=1107円

書籍に関しては関税フリーということなので、流通経費と認識するが、やはり洋書は高い。

日本では、かなり大きな大型書店でないと、(語学副読本ペーパバックは別として)洋書コーナというのはないと思う。

昨今、英語教育熱が高まっているが、本当にそうであるだけ、多くの日本人にとって、それが必要なら、どんな本屋さんでも、さりげなく英語版の書籍がおいてあるのが自然かとも思う。日本の印刷工場で印刷された英語版があっても不思議でない時代が来るのだろうか?

洋書コーナというのでなくて、理工学、コンピューター、経済、文学という書架に、ある程度の占有率で英語版が自然にあるような時代が来るのだろうか。その前に紙媒体の書物は衰退して、本屋というものが存在していないかも知れないが。

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2007年4月15日 (日)

紙面新聞の電子保存

朝日朝刊と読売朝刊を読んでいる。私は鈍感なので、気になる記事の記憶がっあっても、それが読売だったのか、朝日だったのか無頓着である。

つうか、紙面広げて、読んでいても、手にしているのが、朝日なのか読売なのか自覚がなくなってしまうのだ。

忙しいと、読まない新聞がたまる。古新聞は2週間に1回しか出せないので、うっかり出しそびれると部屋が古新聞で占領されてしまう。ゆえに読まないで終わってしまうことも結構多かった。

新聞をデジカメでパチパチ撮ることは続けている。最近は読むことより撮ることが優先になっている。記事はパソコンの画面で、比較的じっくり読んでいるのだ。パソコン画面を2台並べているので、このブログで関連を書くのにその方が便利なのだ。ならデジタル配信にすれば良さそうだが、なんか変なこだわりがあるのである。パソコンが使えない、実家の母に、あっちで購入していない方の新聞を持っていってあげる都合もある。

画面で新聞を読むに、安い画像アルバム編集ソフトのスライドショー機能を使っているのだが、あまり便利ではない。読んでいるのが朝日なのか読売なのか、何日の記事なのか判らなくなるのだ。保存時点でフォルダーで分類はしてあるのだが、それが表示できないのである。ファイル名は表示されるし、ファイル名の一括変換機能はあるのだが、それが不安定なので、部分修正にかえって時間がかかる。またスライドショーモードで、コメント、タグづけ、分類保存とかが出来ない。いったんスライドショーを中断して、また再開するときの操作性も良くない。高いソフトを買えば良いのかもしれないが、それもなんかしゃくである。Javaプログラムの初心者勉強もかねて自分でツールでもつくれないかとも思っている。できればXMLなんかの技術も取り入れたいところだ。アジャイルに蓄積が再構成できたら便利かと思う。

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2006年12月 9日 (土)

私の学校、教育観

教育。私は学校って大切だと思う。文明国つくりの基幹でもある。

私は発想の転換って、ほどじゃないかもだけど、教育は学校の下位でしかない。

教師も、そんなに重要だとは思っていない。

小学生は小学生で、大学生は大学生で学校に集まっていること、これが、なにより重要だと思う。

昨今は、学歴に無関係に、変な親が少なくない。そんな親の子弟には、あなたの親は変です、あなたがそれを手本にするのを、ここ学校では否定します。というのが学校ではないだろうか。同時に変でない親を持つ、子弟に、わざわざ、あなたの親は立派ですねと言う必要もない。学校とはそうあるべきものだ。

親は敬わなくてはならないと思う。学校がそう教えても良い。

だけど、ときと場合にはよっては、学校というのは、生徒に親を否定することを教える場でもあるべきなのだ。子供に箸の持つ方が変だから、直しなさいと言って、子供が自分の親もそうで、親はかまわないと言っていると言っても、それを否定するのが学校でなくてはならない。教師自ら手本であるべきだが、絶対にそうである必要もない。手本になれないときは、教師自ら、生徒の前で、自己否定するべきなのである。「私はダメだけど、君達はできるようになって良かった」と言えるのが教師である。

算数なんかいらない、音楽なんかいらない、と言っている親を、否定するのが学校である。

生徒の、ダメなくせに反省のない親とケンカできて負けないことが、教師の最低条件である。

このケンカに負けない根拠を与えるのが、学校、校長、教育委員会、文部科学省でなければならない。

義務教育を否定する日本人の親は、子供を残させて、国外追放で良いのである。人権を認めなくて良いのだ。怒らせないように、ご機嫌を取る必要はない。

これが、できるとき、学校は、子供達の親からの避難所になる。国づくりの基幹になる。

失敗作からは失敗作しかできない。これを否定するのが学校である。

友達は、友達の親を否定しても良い。親と闘う友達を、みんなで敬愛し守ってあげなくてはならない。

金があるのに、給食費を払わない親の子供である友達に、その子自身が大きくなったらそんな大人になりたくないと友達に誓うのなら、その子を友達同士で敬愛し、応援し、励ますのが学校である。その子が、大人になって人並以上なって、親を打ち捨てるのなら、友達は大いに喝采すべきだろう。

謙虚な親を持つ友達には、その親の期待に応えるられるように、みんなで、応援し合いながら頑張る。それこそが学校の本分である。

まして、高校以上ともなれば、それは当然のことで、親として自分を否定するような学校には子供を行かせたくないという親は、救い難いオオバカ者である。大学以上は言うまでもない。

それをヤダと言う親は、子供を学校行かせたがらない親、以上ではないのだ。

こういう親から子供達、学生を守るのが、国家であり社会なのだ。

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2005年12月29日 (木)

反射光・猫が見ている

SAGAさんが猫との付き合いについて触れています

私も、もう大分、昔のことになるが、深夜、たぶん20匹以上の猫の集会に出あったことがある。
その前に、劇団四季のミュージカル「キャッツ」を舞台で観ていたので
本当に猫の集会ってあるんだという驚きを交えた、感動を覚えた。
そのころは、比較的大規模な分譲マンションの一室に間借りしていて
駐車場に囲まれた玄関を出たすぐのところで、猫が集会をしていたのである。
まだ、畑なども残っているような地域ではあったが、その点に関しては、いくぶん
舞台「キャッツ」のような都会的な雰囲気でもあったのだ。

私は、数が数なので、ちょっと恐いとも思ったし、
何より、深夜なので、不用意に近づいて、猫達が騒ぐと近所迷惑かなとも思い
その集会を横目に、煙草を買う為に、ちょっと離れたコンビニに行こうとした。
すると、真っ白な毛足の短い美しい猫が、私に近づいて来て
歩く私の足の間を2、3回すり抜けてくれたのである。
突然でビックリして立ち止まると、ちょこんと座って、私を見上げてくれた。
抱き上げても良いのかなぁと、思っているうちに、立ち去ってしまったのである。
一生忘れない、私にとっては、ちょっと感動的な貴重な体験だった。

私が思うに、あの猫は集会に参加していた、どこかの飼い猫だったんだろう
仲間と集会しているうちに、あきて、ふと人恋しくなったのかもしれない。
そんな時に、たまたま、私が通りかかったのかも知れない。

これは、比較的最近なのだが、朝自転車で走っていると、
前方にやはり真っ白な毛足の短い猫が、たたずんでいて、よけてくれる気配がない。
その猫のそばで停車すると、ジーンズのすそに体をすり寄せてくれた。
首輪と鈴がついていた。きっとこの猫は、体がかゆくなったので、
ジーンズをはいた人間が通るの待っていたのかも知れない。
こういう猫は、人間にやたら触れらることが好きではないのだけれども
人間の方は、自分が触ってあげることを必ず喜ぶと信じて疑っていないに違いない。
ゆとりのある、売れっ子ホステスのような猫達である(笑)
美しい恋人と、一緒に生活するのは、家に猫ちゃん飼っているようなもんである(笑い)

昔、農家でたくさんネズミを獲る成績の良い猫は、
囲炉裏端であぐらをかく、家長のひざの上に鎮座して居心地よくすごす権利があったのだろう。

私は猫のいない街には住みたくない
それは稲作文化、魚食いである、日本人の私のDNAのせいなのかも知れない。
ネコを好きになれない人は、アクセクしすぎる文明病に犯されて過ぎているかも知れない。

私は地上で、命あるものに、結構、差別主義である。
人間>猫=犬>金魚>鯉>馬>牛>豚>羊>>>>野生動物
まあ、人間である私が人間は別格筆頭にあげるのは当然として
親しいのはやはり犬猫である、人間との付き合いの歴史が長い
馬もそうなんだが、いかせん、あまり日常的にはお付き合いがない。

もし天国なんかで、彼らが他の野生動物から蔑まれていたら、体を張って彼らを擁護したいと思っている。
人間にはその責任ちゅうもんがある。いまさら彼らへの愛情を薄くするような不義理は許されないのだ。
彼らは人間の為に、いくばくかの適応、進化を選んでくれた、選ばされてしまった。人間の大切な仲間なのである。

だから私は、イルカ、クジラや絶滅種の野生動物も嫌いではないし、大切にしたいと思っているが
それを、犬猫より大切だと思う人達、まして人間の中には、イルカ、クジラより劣る者がいるなんて
平気で考えてる人間を基本的には許さないのを信条としている。
私にとって、猫、犬、金魚、馬達を他の野生動物より愛することは、日本人を人類を愛することでもあるのだ。
それから、イルカ、クジラは犬や猫より頭が良いかも知れない、だからより殺すのがより可哀相だと思っている人に言いたい。
もしそうなら、その考え方は非常に恐ろしい、差別意識を生んでいることに気がつくべきだろう。

気立ての良い、犬、猫が少ない、国は衰退してもしかたがなし、衰退すべきだとすら思う。

菜食主義者、動物愛護主義者の方々の一部に想う。
もしかしたら人類は将来それなりの合理的理由で、牛、豚を育ててその肉を食うのをやめるかも知れない。
しかし生物というものが、地上でその数を増やそうとするのならば、
牛、豚がとらされた戦略は無駄骨だった
ことになるのだろうか。
牛、豚を解放することは、その命や繁殖への感謝の気持ちをなくすことでもあるように想う。
もし、牛、豚が地上から姿を消したら、人類はその姿を永遠に祀り敬って欲しいものだと想う。

私は、最近大変不思議に思うのだが、ディズニィーは何故、ミッキーであるねずみを愛したのだろか?
キャラとしてねずみを愛する文化というのは、大変、奇妙だと思うのである。
ちょっと、ディズニィーファンの方々に尋ねてみたい気もする。

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2005年10月22日 (土)

反射散乱光 マイナスをエネルギーに! 

菅野探偵事務所のSAGAさんが、お体の変調に関してレポートされています。
まづ、おからだおだいじに、です。
SAGAさんのネガティブなシチュエーションにあってポジティブなご姿勢には励まさられます。

私自身は、不精で病院のお世話になることはめったにはありませんが
潜在的には少なくとも生活習慣病のオンパレードに近い身体になってしまっているようです。
わかっていながら、根源的なことを明らかにしようとしないで、問題に正面から向き合おうとしない
私のような人間は、世の中ものすごく多いんじゃないかと思う。

会社の健康診断程度で、深刻な傾向が指摘されれたときは、物凄い後悔の種だろうし
近い将来、そうなる確率はすごく高そうです。
そのときにしか、自分の体の限界、運命を思い知ることしかできないんでしょう。
自分の身体の見栄が良くないこと、運動神経もいまいち、脳細胞のパフォーマンスにも見るべきものがない
というのは、早くから自覚させられてはいましたが。
そのこととは、折り合いをつけて、何とかこの歳まで、この世に居座り続けているんですけどね。

創作活動って、体なんかのシチュエーションがなんらかの形で、結果の個性になってるって多いと思うんですよ。
そして、個性は創作活動の命ですよね。
なかでも、作家が身体の限界、運命とどう対峙していかという意識のあり方の影響は
作品が深くなるかどうかという意味でも大きいんじゃないかと思う。
SAGAさんの独白。我々にとって、リエゾンマンになっていただけるような気がする。
是非是非、頑張って下さい。私もいつかなんらかの形で、SAGAさんに続きたいです。

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2005年9月20日 (火)

穂影が思う「女王の教室」最終話

「女王の教室」最終話と先回を観ました。
その他は、当初、真矢の悪魔ぶりではなくて
子供達の一部が悪魔になっちゃうのを観るのがつらくて鑑賞を放棄していました。

最終回では、私の考えとは違った形で、おおむね救いはありました。
私は、真矢が悪魔のまんま、生徒達にボコボコされてまうということを期待していたので
そこは、脚本の遊川さんに一本取られたのかもしれません。

良いドラマだった感動できたとの意見も多いようです。
そういう意見を持つことも、そういう評価を得ることができることも素晴らしいことだと思います。
批判するくらいなら、黙して語らず、他に自分で良い作品だと思ったものに言及する方が有意義です。
感動できたことから得たものの方が有意義だし、それにケチをつけることから得られるものはそれに較べれば貧しいと思う。

このドラマ、とにかく役者さん達は良いお仕事をされたと思うし、
何より、子供達が演技頑張りましたね。私は良いドラマつくるのに子役には高い要求はして欲しくない気持ちもありますが、
出来たことは、誉めてあげなくっちゃね。

ブログでみなさんの意見を読ませて頂いているので、後だしジャンケンみたいな感想になっちゃうかな?
真矢が理想の教師であるかと言うと、私にはまだ判断がつきません。
脚本の遊川さんはどう考えているんでしょう?
判らないけど、こうも言えるかも知れない。
遊川さんは、ある意味、真矢は理想の教師ではあるが
そうであるためには、真矢のように超人的に一人一人の子供達を親以上に心底守れるように完璧でなければならない。
現実、そんなことが出来ますか?できないなら、都合の良いところだけ(子供達に対して強権、権威として振舞う)
中途半端に真矢の真似をするんじゃない。
遊川さんは、そんなことを教育界に訴えているのかもしれないとも思うんですがいかがでしょうか?

私だってこの最後の2話でも感動できました。それは、1つの完璧な理想の教師の姿に感動した訳で
みなさんの感動と同じだと思う。
と同時に、一見、生徒に対して悪魔のように振舞えるのは、完璧な非現実的な理想の教師としての
影の努力があってこそのことであって、そんなことできないのに、ちょっとでも教室で真矢的であるのはおかしい
と遊川さんは訴えているのではないでしょうか。

だから天童先生が真矢の真似しているのが恐いかも知れません。真矢は悪魔じゃなかったけど
天童先生は、ホンとの悪魔教師になっちゃうかもしれない。遊川さんの痛烈な批判、置き土産?。

私てきには、このドラマも悪くはないのかも知れないけど、難しい感動できる理想としては
「二十四の瞳」なんかの感動の方が好きかもしれない。

私ね、最後の2話で感動というか、感心したところはですね、真矢の言葉なんですが
学校で必ずしも楽しくはない、勉強、学習することの意義ですね。
正直、これは小学生には難しいかなと思うけど、実は大学生とか社会人にとって
本当に大事なことなんだと思う。この本質的に大事な連鎖を我々は忘れていますよね。
(遊川さん達は小学生達にこのドラマを見せたかったじゃないんだと思う。)
「ドラゴン桜」でも、同じ感じで大切なことを言っていた気がします。

これは、ドラマなんだから、あんまり小難しく感じちゃいけないけど
子供達に、世の中の暗い部分を強調しちゃいけないと思う。
そういうこと知るのは、高校、大学からでも遅くはないと思う。
だって小学生に、やったて無駄なんだと感じさせないで、そういことを突きつけて
勉強を続けさせるのは難しいと思う。子供達には大人達がまだ達成できないことに
大人になって挑戦する為の基礎力を確実に身につけて欲しいと思う。知識も心も。
純真、無垢とは我々が考える以上にパワーだと思う。打算でない原体験が人類を救う発明、思想の芽だったりもする。
世の中の暗い部分を小学生に強調することが、その足しになるとは思えないんだけどな。
(出演した子供達にも高校生以上になるまでは、このドラマの内容振り返って欲しくないかな)

みなさんのご意見、すごく参考にしているんで、ちょっと紹介させて頂きますが
私の寸評なんかで済ませないで全文読んで下さいね。
(紹介の仕方が横着なの大変失礼します、平にご容赦)

それと今回は、やはり反響が大きくて、みなさんのブログ読みきれませんでした。
私のPCがボロでアクセスしにくかったサイトも多々でした。
紹介できなかったブログの作者さんからも、トラックバック、コメント頂けると嬉しいです。

みにぽぽさんも、私と似た(私が同じ)感想をもたれているように思うんですけどね。
●ひとりごと
http://hitorigoto19.dokyun.jp/archive/l-29575.html

k_kyjさんも最終話ではうるっとされたと正直に?(笑 失礼)
不覚にもという感じの感想で、私も「そう、そう」という感じなんだな。
●つれづれなる・・・日記?:『女王の教室』最終話感想
http://blog.goo.ne.jp/k_kyj/e/848882d7519f636d8c0952b88eb501bb

私もじゅんぺさんに負けず、予想ハズれまくりでしたね。
真矢の最後まで貫く「私は間違っていません」という態度と
「どんな教師を素晴らしいと言うのかさえ、まだわかりません」言葉の
矛盾迷い、指摘されますよね。脚本上の矛盾というより、遊川さんとしては
私のように想像することもできるよ、単純ではないよというメッセージなのかな?
●Junpe's Room:真矢のいない卒業式
http://blog.goo.ne.jp/junpe-m_m-830/e/045451df6104e7a34dceb84ad507f7b1

直美さんのように感動、号泣していいんだと思います。
真矢の深いセリフを紹介して下さっています。
●女王の教室最終回|私でもいいですか?
http://ameblo.jp/naomi-0604/entry-10004359170.html

どこまで行けるかさん
>左うちわで仕事をしている文部科学省の官僚の馬鹿どもに見せてやりたいよ。
”いい加減目を覚ましなさい。”というセリフも合わせてのしをつけて送ってやるよ。
<そうそう、こういう感覚我々に呼び覚ますドラマですよね
●ぶっちゃけしんどい 女王の教室で読み取れる教育論
http://135246.moe-nifty.com/katuro/2005/09/post_6780.html

>私はこの回だけを評価したなら間違いなく5つ星を付けるのですが、
前半部分で不快感を感じたことも確かで(このドラマでは必要だったと思ってます)全体評価でいくとどうしてもこうなりました。
<私も相当にそうなんですよ。
●ドラマの森|女王の教室( 11 最終回 )
http://plaza.rakuten.co.jp/trick4jp/diary/200509170000/

>ただ、ちょっと現実離れしているのが気になりました。
実際、ああいう言動の先生がいたら、子どもが本心に気づくことはないでしょうね~
<そうですよね。ちゃんと裏で真矢ほどのことをやってなくちゃいけないんですよね。
●「女王の教室」最終回
http://plaza.rakuten.co.jp/manekikneko/diary/200509180000/

strさんのこの番組の感想は私には共感するところ大です。
●『女王の教室』最終回
http://plaza.rakuten.co.jp/rekishikan/diary/200509170001/

>女王の教室、真矢先生は最後の最後まで自分を出さないクールな
先生をとことん貫きましたね。
<そう、でもだからこそ、真矢が本心、最後の生徒のプレゼントにジュワとなっていると想像できて涙をさそいましたね。
●真矢先生の【笑顔】キラン!★☆
http://plaza.rakuten.co.jp/toysorange/diary/200509170000/

>天海さんが演じた真矢先生は、しばらく頭から離れそうもありません
<そうあそこまで子供達のことを思う姿は理想の教師の感動ではあります。
●女王の教室・最終回
http://plaza.rakuten.co.jp/taikangekijou/diary/200509180000/

>最初からこういう話の脚本だったのか、
否定的な意見が多くてこっちのラインにしたのか、それはわかりません。
<最近のドラマはそういう疑心暗鬼ってのはありますよね。最初からそうだったと思いたいんですけど。
もうひとつのラインとしては、真矢はいいとこなしのサイコな悪魔教師で、
生徒達から改心させられるという意味でもボコボコってのもあるんですかね。
どっちが話しとしては、世の中に与える影響としては、深いのでしょうかね。
●サッチ嬢の小部屋
http://blog.livedoor.jp/tsuru0724/archives/31133662.html

>金八とか生理的に受け付けないので、学園ドラマで泣いたのは初めてだと思う。
<伝統的な熱血先生もので、感動できない感覚というのも大切だと思います。
その意味でも、考えさせられるドラマだったんですね。
ただ最終的には感動の根っ子は一緒だったような気もするので
もうひとつの終わり方の可能性もインパクトがあったかもです。
●|あんぱ的日々放談|∇ ̄●)ο:いざさらば。。。(女王の教室#10) - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/an_punch1028/archives/50083900.html

>もうちょっと毒を含んだ、そういう最終回を期待していましたが、なんか涙に無理矢理持っていった感じ
<そう、もっと毒を含んだ終わり方ってのも良かったのかもしれませんね。
●the prosaic world:女王の教室 最終回
http://blog.livedoor.jp/wildcrow/archives/31134514.html

>「どうせ最後はいい先生になるんだろ?展開バレバレだよ。」
<読みの勘が良いですね。私は違う結末もそれなりにとも思っていたんですが。
でも、問題提起に関しては、大いに評価されているんですね。私もかなりそうです。
●The Natsu Style:「女王の教室」が視聴者に教えたかったことは…? その2【女王の教室最終回】 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/ustan777/archives/50067657.html

>結局、子供も大人もそして教師も手探りで生きている、ということだったのだと思う。
<含蓄ありますね。この御感想。
>「児童たちと真矢の戦い」、結局、勝ったのはどっちだったのだろうか。
<児童たちVS真矢 ではなくて (児童+真矢)VS何か なのかも
●いかがに・ぱれす: 女王の教室、終了 ~結局、真矢は悪魔だったのか~
http://ikagani.s9.xrea.com/main/archives/2005/09/post_94.html

>まぁ、個人的には、あんなに生徒全員が同じ考えになっちゃうのはちょっと気持ち悪いんだけどね。
<私もこの感覚、非常に大切だと思います。
●女編集者ブログ:女王の教室 最終回 ううむ、終わってしまったか
http://blog.livedoor.jp/kyoukn/archives/50067707.html

>生徒を差別するような発言や行動が、実は生徒たちをすごく育てていた。。。
<私は固いこと言うとちょっとね。悪役の悪い例としてそうなら放送問題無しなんですけど、でも・・・
>他のどんな先生よりも、生徒を思いやる先生だった。。。
<ということは確かですからね。でも私には要注意かな。
●So-net blog:G'day mate!:女王の教室
http://blog.so-net.ne.jp/urn1977/2005-09-17-1

>大人がかっこよくないから、子供がぐれるんです。!!
<私もこのセリフには激しく共感です。
●夢子のス・テ・キ!なダイエットライフ:女王の教室 最終回!
http://blog.goo.ne.jp/yumeko3645/e/f36285337bdfe9d08029de89f662e943

>このシーンがやりたいがために教師を続けている人、辛くてもやめずに頑張れる人って多いのではないでしょうか。
<全然、教師の心情に関してうしろめたくない感想ですよ。そうでない方が不純だと思いますね。
「仰げば尊し」って生徒からの先生への優しさ、思いやりだとも思って欲しいです。
生徒の方が大人じゃん、って行きたいかな(笑い)。歌わせる歌わせないって悲しいですよね。
●ふらっとblog:真矢のいない卒業式
http://blog.goo.ne.jp/monkey0127/e/729bea239dd521bc080e82a431cf6481

>中高生なら、これからの人生に影響を与える作品だろうなぁ。
<そうですよね。その感覚でこのドラマを評価したいです。
●日記みたいなもの 女王の教室!!
http://ushint.blog19.fc2.com/blog-entry-32.html

>~仮想阿久津真矢のぼやき~
<お見事!!。納得。天童先生のあやうさ嗅ぎとってらっしゃるのかな?
●ota-broadcast:女王の教室 最終話
http://blog.goo.ne.jp/ota-broadcast/e/727e507a63795a1a0f906e13e5080e10

>小論文書けそう
<そうですよね。私にもまだまだ言い尽くせないことの予感があります。
でも、コンパクトで大変、ためになる記事、御感想だと思います。
私よりドラマ肯定よりの感じもしますが、私はお考えに好感致します。
●cocoa* Blog | 女王の教室 最終回
http://cocoa04.cool.ne.jp/blog/log/eid36.html

<TB頂きました。有難うございます。
>最近のドラマは、伏線というものが非常に少ない。
>連続ドラマであるなら連続していることの意義もっと制作者は頭に叩き込むべきである!!
<これには、私も激しく共感します。!!! 妥協はいかんですよね。
脚本の遊川さんも今回?はブレなかったと思います。
◆ドラマ!テレビ!言いたい放題: 女王の教室 最終回
http://yosukezan.seesaa.net/article/7361996.html

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2005年7月16日 (土)

視線

SAGAさんが視線について語られています
>なぜ犬や猫、鳥、牛や豚、トカゲまでもがお互いに「目を合わせる」ことになるのだろうか。
何故なんでしょうね、やはり「相手の様子を伺う」「出方を見る」というのが基本にあるんですかね。

>「人の目を見て話しなさい」とよく教えられたように
確かにそうですよね。でも私は早くからそうでないしゃべり方の方がカッコイイって思いはじめたかな?
なんかその方がハードボイルドというか、男ぽっい感じがする。
どうしてなんだろう?。
俺の話、お前なんかに別に聞いて欲しいわけじゃないんだ、
勝手にしゃべるからまあ判るなら参考しろよって感じですかね。
躾られることへの反発もあったかな?

「目は口ほどにものを言う」そうなんですよね。
サングラスって、お手軽にポーカフェースつくる道具ですね。
相手の出方、こっちのコンデイションを探れられない為の武器ですね。
男はサングラス好きだもんな。戦いを有利に運ぼうとする習性ですかね。
だから、女性からは男は嘘つき卑怯、カッコつけで誠意がない思われてしまう(笑い)
(でもね女性を扱い慣れているしたたか者は、誠意がなくても目を見つめて相手を納得させることに習熟しています。
もっと、気持ち見え見えで恥ずかしいと、あなたと視線合わせられない私を可愛いと思って欲しいなぁ(笑い))
(女性はうつむくという視線そらしの術を持っていますね)

女性は視線、自己表現として積極的に使うのかな。私をわかってよ!!てな感じで。

視線のコミニュケーションってのは、より動物的な気もする。
でも人間は、それをかなり高度に発達させてはいると思う。
映像演劇なんかでは、その高度な発達ぶりを披露した方がアドバンテージになりそうです。
菅野美穂さんは、その意味で凄いアドバンテージがありますよね。大竹しのぶさんもそう。

>声帯が退化し視線だけでコミュニケーションをとるような世界が待っているのかもしれない
少なくとも、現代はマン―マシン系では現在熱心に研究されていますね。

私は「視線を気にする」というのは、良くないことだと思う人生スタイルかな。
男として、ひとかどのことを成すには、ある意味、唯我独尊、引きこもりも必要だと思う。
これは、欝(うつ)病なんかに対する予防薬の一つではないかとも思う。
日本は人間関係がゴチャゴチャしすぎ、人の目を気にし過ぎじゃないかと思う。
気配りで知られる素敵な菅野美穂さんが、外国人になりたいって言うのは、彼女の中の反動かしらん。
菅野さんの才能は、素晴らしくユニークですもんね。
周りの凡人に方向付けなんかされたら、もったいない、台無しです。

ITが発達してくると、視線、声色を消去したコミニュケーションが多くなります。
私なんかは、もともと、そうした文字情報の方が好きなところありますね。
冷静に物事を判断、分析するには、視線、声色なんかは邪魔に感じる、知的、理性的でないように感じることがあります。
視線、声色を駆使されて、それを読まれて営業をかけられて、それが判断に影響すると、後で損するんじゃないかと思ったりもする。
出向かれて話聞かされて営業されるの好きじゃない。それより、しっかりしたカタログ、レポート提出しろよタイプですね。
それは、自分が求めるもの、欲しいものは自分から徹底的に調べて研究したいから。(ネットで情報不備なものは購入しない)
大事なことの判断材料としては、演説聞くより、文章読みたいかな。
テレビでも正統アナウンサー的でないキャスターの言動や討論会はできるだけ聞かないようにしています。

検索エンジンで「行動学 視線 発達」とかで調べても膨大なリストになります。一生かかっても読みきれない。
さすがにアカデミックでは、お色気路線で視線誘導ってテーマは、少ないかな?

女性。胸の谷間とか強調しておきながら、私を違ったふうに判ってよ!!てのは少し矛盾しているように思えます(笑い)

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