2009年6月 4日 (木)

一生懸命

一生懸命って大切だと思う。

一生懸命であることを、評価・称賛・敬愛し、場合によっては、その前提で、人にそれを期待することも、よろしいかなと思う。

ただ、一生懸命の型というのは人によって、違っているんだと思う。

だから、型まで含んで、特に自分固有の型で、人に一生懸命であれとさとすのは、よろしくない。

人から、特定の型で、一生懸命であれと、圧力をかけられて悩んでいる状態から、場合によっては、人目を気にせず、早く自分の型を見出して、一生懸命になれることが肝要である。

何故、一生懸命になれるのか、それは自分の納得の為であり、人に納得してもらう第一歩である。納得は知りたがることでもある。知りたがることなくして、自他を欺いて、一生懸命はない。

感じることは知ることである。感じないで知ることに価値はない。

人からの評価を得るのに急ぐな。それは死んでからっだって、とわの先だって良い。自分の納得が大切である。

一生懸命である人々が集って、何事かを成すこと、美しくも素晴らしい事である。

板の上や、映像で、演劇活動にかかわっている方々、

ウェブ上で、オープンソース、フリィーウエア、API、クラスの開発に参加している方々、

ブロガーたらんとしている方々

うらやましくもある。

営み、事業とは、そうでありたいものである。

人づきあいが苦手であっても、どこかで、つながって、一生懸命が生きる通路は必ずある。

経済、金融、投資はインフラでもあり、重要でもあるが、二の次で良い。株・投機 そこにどんな自分の納得があるのだろうか?

貯えることに納得を見出すのは、否定しない。

人生には限りがある、背負って生まれてきたものを生かし克服し、同類を勇気づけられる、進化の可能性を示唆できる、美しいアンガジェマンで終わりたい。道半ばも立派なアンガジェの有終である。

どういう気持ちで、闘病するか、キーパンチするか、どぶすさらいするか、官僚するか、育児するか、政治家するか、かしづくか、軍人するか、ベッドメーキングするか、・・・すべて一生懸命に足る重要なアンガジェである。

知りたいことに、一生懸命であれ。一生懸命が、感じるに値すること、知るに値することを生みだす。

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2009年5月29日 (金)

09.04.30朝日ジャーナル・斉藤貴男氏

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナルの
斉藤貴男氏の論文を読んでいて

朝日新聞系だからリベラル・左翼系なのかも知れない。
保守系・タカ派・差別主義的な人達として、三浦朱門氏、ノーベル物理学賞の江崎氏、石原慎太郎氏、小泉元首相らの言動などを批判しているようにも思える。

タカ派・愛国主義的な文化人・知識人について、何となく思うことがある。
西洋的な事で社会で成功しようとしながら、世界に認められなかった人に、そういう人が多いのではないのかという仮説である。
もっとも、穂影のように、何がなんでも社会で成功しようという根性が萎えているから、のほほんと、ハト派国際協調派モドキでいられるのだという意見もあろう。タカ派・愛国主義的でない凡人は無責任、根性無しということになる。

三島由紀夫氏は、和歌・俳句や漢詩というようりは、近代の小説家だから、西洋的なことで社会にデビューした人かと思う。能力、才能としても自分は日本人離れしているとの自負・自信が強かった人と想像する。それでもノベール文学賞は、川端康成氏、大江健三郎氏が受賞しても、三島氏はとれなかった。何故、自分は受賞できなかったという葛藤が、タカ派・愛国主義的、保守的な伝統主義に走らせるのではないかと想像してしまう。日本人として卓越している自分は日本人にしか評価できない、日本人よ日本人たれということになっていくのではないだろうか?川端康成氏、大江健三郎氏は外国に媚びていたから賞が取れたということになる。

はじめから、日本古来で勝負してきている日本の第一人者には、意外とタカ派・愛国主義的な人が少ないように思える。日本文化の世界への紹介について熱心な、他国の独自文化に対する敬意が深い、リベラルな国際派が多いような気がする。

スポーツでも、世界で通用する日本人選手は、タカ派・愛国主義的な人たちから英雄視もされるが、ご本人達は、外国のライバルを敬愛するリベラルな国際派の方々ではなかろうか。半端な選手だと、外国勢はズルイとかいって、タカ派・愛国主義的に走るかも知れない。柔道・相撲とかの将来、あるいは福原愛ちゃんや石川遼君の将来が心配でもある。

音楽家の故・黛敏郎氏は、タカ派・愛国主義的な印象を持たれていなかっただろうか?西洋音楽をやっていても、「世界の小沢」とかまでにはなれなかった。三枝成彰氏とかは大丈夫だろうか?

「国家の品格」の藤原正彦氏は、タカ派・愛国主義的な人とは言えないかもしれないが、保守系という印象の強い雑誌の取材をお受けになることが多くないだろうか。お父様は私の敬愛する新田次郎氏で、ある意味、重い十字架とも思う。数学者として立派な方でもあろうが、フィールズ賞とかの距離も気にしないではない。
藤原正彦氏は小川洋子さんの「博士の愛した数式」のモデルとも言われるが、それは事実だとしても、数学への愛情、フィールズ賞とからの距離はそうかもしれないが、ほんのチョッピりであろう。何より大切な博士の愛すべき性格は、小川洋子先生の全くのオリジナルかと思う。

ノーベル物理学賞の江崎氏の業績と能力が素晴らしいものであることは言うまでもないし、物理学以外の教養でも、穂影などがとうていおよぶところではない。でもDNAや遺伝学の知識、あるは人間観察の力量は本当の専門家と同列というわけにいくまい。同じノーベル物理学賞を受賞していても、広い教養と洞察で、数々の名著を残されている、湯川博士・朝永博士は高い壁かと想像する。小柴博士は、チームの業績と巨大資金ビッグサイエンスのマネージメンとの成果という謙遜があるようにも思える。世俗世間での人間的魅力としても南部博士・小林博士・益川博士・田中博士に負けてしまっているような口惜しさもあるかなと想像してしまう。

ところで、江崎氏はご自身の考えと芝浦工大の学長であることの折り合いをどうつけるのだろうか心配にもなってしまう。江崎氏が学長していると、東大、京大、早稲田より良いDNAが集まるのかしらん?でないと教育しても無駄???
あるいは努力はしていた、東大、京大、早大出身者のDNAの歩留まりが、あまりも悪かったという氏の観察経験なのかしらん?

石原慎太郎氏は文学者としての経歴があるのかないのか微妙ではある。ただ広い範囲の教養・知識でも、穂影などがとうていおよぶところではないし、石原氏は立派な教養人・知識人ではある。麻生総理なども遠くおよぶところではない。しかもエンターテイメントとして小説で成功しているのは、素晴らしいことである。実績で、勝てば官軍的に立派なクリエータである。やや低いレベルで人心掌握術に長けていたという証明はしている。ただ、政治家として実力者だからといって、むやみに、文学者・思索家としての大江健三郎氏とかを軽んじて、影を踏むに全く躊躇しないとしたら、やや問題ではあると思う。無論、創造的・発展的に大江健三郎氏らと激しい論戦をすることは別である。
人心掌握術に長けているという自信が、2ちゃんねる的な意見にゆずりすぎるという結果で終わると、石原氏のせかっくの大きく物事をつかむ力の可能性に、水をさすという結果にもなりかねないと心配にもなる。
計算通りに低いレベルでエンターテイメントで成功できてしまうというのは、どこか顧客を馬鹿にしている放漫さが残る。
ただ石原氏が説く、臆せずNOと言うべきときは言うというのは、とても大切ではある。
政治家としては、これからもあるが、物書きとしては石原氏の方がチャーチルより上かなとは思う。(読んだことはないが)。お国の為に石原氏の良さを生かすとして、策士として上である必要はないと思う。

自国を愛することの大切さは、自国を愛する他国の人々を敬愛・理解できてこそ意味のあることであろう。自国を愛したいがいゆえに、自国の現状を憎む気持ちも、自国民に対しても、他国民に対しても理解できる力も必要となろう。

私は、月並みな考えではあるが、矮小、いやしい、気質としての愛国主義、国粋主義、選民思想、差別主義を、美意識、美学的にも、理知の敵として忌避するのである。

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2009年4月24日 (金)

くさなぎさんのお酒の失敗?

2009年4月24日読売朝刊・朝日朝刊を見て、草なぎさんが泥酔して失敗されたことが報道されていた。びっくりしたのは、報道が大きいこと。記事を読んだ印象として、この時点なら普通は小さい記事で済ませるところだろう。

朝日朝刊も読売朝刊も、芸能週刊誌じゃあるまいしと、正直思う。

政財界官僚の不祥事など、重要な報道は山積みである。草薙さんをスケープゴードにする狙いでもあるのだろうか?

そこそこ酒を楽しむ穂影なども、少なからず、酒での失敗はある。新聞社の人間だって、そういう人間は少なくないはずだ。

ふだんは、気取っている管理職の会社人間の中にも、酒で品格に欠ける人間ははいて捨てるほどいて、二日酔いの後、ケッロとして、いいきなもんである。

とりあえず、草薙さんの場合は、飲酒運転や暴力、薬物に関連がないようなので、この点に関しては、なによりであった。

日本は飲酒の間違いに対する自己責任追及が、つい最近まで恐ろしいほど甘い国であった。死刑になるべきところを、飲酒が免罪布になってしまっていたのである。飲酒運転への規制もやっと最近になって厳しくなったのである。

草薙さんは、お酒がお好きということをバラエティ番組でも、ある程度ウリにされているようだった。これまで、お酒で回りに迷惑をかけているという話は我々の耳には入っていなかった。お酒に強いと、飲んでも間違いが少ないということはある。草薙さんが、もし世間に知られていないお酒の間違いが多かったとしたら、周りの人々の責任は重い。

今回は、普段身近な人たちにとっても、あの草薙さんがとビックリなら、草薙さんの抱えていた心のストレスは何なんだろうかと思わずにはいられない。しかし、そうした心配も、まづは、普段身近な人達が持つべきものであって、報道の役割でないし、報道から守るのが筋かと思う。

草薙さんの品格というより、これに関連して新聞社等の品格のなりゆきを注視する穂影である。

追記)無責任な勝手な妄想だが、草薙さんの心のストレスが、地デジ移行のCMのお仕事を通じて、広告代理店などCM受注を通じて、多額のリベートが例えば郵政関係の公職の人間に渡っていることを、たまたま知ってしまった、そんな正義感の葛藤だったらなぁーと妄想してしまう。仮に、そうでなくても、そんな気配を知っているなら、草薙さんが反省とは別に、逆襲してくれれば面白いと思ってしまうのである。あるいは、CMのギャラがもとをただせば税金であることの自責葛藤だったにしてしまうとかである。もっともファンとしては、そんな葛藤や悩みは吹き飛ばして、今後も良いお仕事を続けて、私たちに心の糧を与え続けて欲しいと思う。そんな正義感はジャーナリズムや司直の責務であって、我々ファンが草薙さんに求めているのは芸能人としての、感動や面白さを伝える力である。ストレスを乗り越えるように応援したい。

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2008年1月20日 (日)

飽食の角界・偽装品格

朝青龍 内館牧子 女禁制 の続きになる。

TVでヒールというのを論じていた。朝青龍や沢尻エリカさんをヒールにして、賑わいをつくり、金儲けなんかしている風潮への批判でもある。

私は、朝青龍に相撲をとらせてやってんだから、相撲の偽装品格に頭をたれろと言う角界のあの態度、横綱審議会のあの態度、納得いかない。朝青龍がはいそうですかとしたらモンゴル人から見たら朝青龍は売国奴になってしまう。

日本人の札束で相手の頬を打つような、あの態度、なんらかの反省はないものだろうか?

角界の関係者、かつては現役の人も少なくないはないが、今現在、飯を食わせてもらっているのは、実際に相撲をとっている朝青龍ら現役力士のおかげであろう。

1年を3日で暮らすいい男だったはずの力士達を、地方巡業、ファンサービスとこき使って伝統や品格を無視しているのは、一体どこの誰れなんだ。

戦後まもないまでの、昔の日本は、腹いっぱい食えることが当たり前ではなかった、今のモンゴルには、そのころの日本のようなマンホールチルドレンが大勢いる。朝青龍はそれを良くしっている、相撲ドリームを勝ち取ったモンゴルの英雄である。今の角界の役員は、相撲部屋に入って腹いっぱい食えることの有り難さをどの程度知っているというのか。品格というのを反省すべきは角界の方である。

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2007年4月17日 (火)

箱モノ行政のていたらく

17日の朝日朝刊。「ハートピアきつれ川」の記事。補助金を流用した全家連幹部の体質も問題があるが、そもそもの原因は旧厚生省にあったとしている。厚労省は補助金回収のために財産を差し押さえて全家連を解散するか、補助金免除で税金の無駄遣いを認めるか、自らの失策を認めざるをえない立場にあると結んでいる。

私も、記事を読む限りそうだなと思う。同じ厚労省関係でもグリーンピアもそうだし、いわいる箱物で、他省庁でも似たりよったりのことが、あまりにも多そうである。

別に根拠があるわけじゃないが、こういう立地に意味のないのところで事業が推進されるのは、土建業と代議士なんかも、からんでくるのだろうと思う。

そして、日本のどかかで、今でも、懲りずに似たことが進行しているに違いないのである。

私は、車に幼児を置いて、買い物をしたり、パチンコに興じている親が、あとをたたなく、幼児を死なせる事故を聞くたびに思う。新聞とかニュースとか、生まれてこの方、見聞きしたことないのか。そんな連中としか、交友がなかったのか。

同じように、これからも。「ハートピアきつれ川」のような記事を読まなければならないのら、有権者というのも、幼児を車の中で死なせてしまう保護者と、なんら変わらないのだと思う。

もし建築家を夢見る人がいたら、いな建築士でも、自分は建物を設計するだけで、きた仕事は糧のためには受けるというだけでなく、このような仕事に関わるのは恥として欲しい。施工監理技士だってそうである。そうでなけば残して誇りになるような仕事ではないだろう。仕事の背景を多いに詮索すべきである。でなければ、他の仕事に較べて、知的理性的でもなんでもないのだ。人に信頼される職業にはなりえない。

漫画「お味しんぼ」だったか。料亭も経営する料理人、魯山人は、食材を探求することにおいて、環境問題とかその背景も真剣に洞察していたそうな。衣食足りて礼節というが、足りていても、自分にすら嘘をつくという、心がいやしいことを嫌ったのである。真の芸術家と職人魂は、ここで最大の共通点を見出すのだと思う。科学者の真髄も同じである。

官庁の連中、群がってくる、土建屋、代議士を見下しているのだろう。しかし、そんな連中を毅然と一喝するのでなければ、かれらの数倍もいやしい人間でしかないのだ。大学教授とかもそうだが、東大とかは、いやしい人間の製造工場かとも言いたくなってしまうではないか。

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2007年1月27日 (土)

教育幻想と大学の淘汰

安部政権も教育再生を目玉にしているし、ジャーナリズムも当然取り上げている。また教育関係の不祥事も多い。国として教育が大事もわかる。

例えば、大学教育と初等教育の両端、それぞれに考えるべきことだろう。

昨今の論調をみるに、ジャーナリズムにしても、政治にしても、本質をつくという意味では、大勢の国民の心情を配慮せざるを得ないという意味で、おのずから限界はある。これは世間では、社交辞令的な会話では、はばかれるものの、結構みんなも、判っていることだろう。新聞がつまらなくなっているのは、大衆的であるのは結構なものの、これに気付かない、知的弱者が主たる読者になっているせいとも感じる。週刊朝日、サンデー毎日かなんの大学入試偏差値特集や東大進学高校ランキングなんか読んで、ヤンキーなパパママに優越感を感じても、所詮は大衆オバカな父兄だと思う。

まんず、初等教育は大事なのだが、それが大学を目指すということに、間違って悪い影響を受けていること。その目指すべき大学が、なんかおかしいということである。

この、現況の1つは、大学というのが供給者論理でしか動いていないこと。そして世間が教育幻想から目覚めていないことである。そもそも、大学生、大卒の高卒生にたいするパーセンテージは大学の教授の講義、授業を受けて意味のある学生のパーセンテージをとうに超えていると思う。このあるべき大卒のパーセンテージが上昇にするには日本人の生物学的な進化が必要なのだが、50年、数百年でそれはない。これを知らないのが教育幻想の1つでもある。そして、今後、そのパーセンテージの絶対数はどんどん減少していく。だから大学の数とか、教授とか大学関係者の数は、いらなくなってくるわけだが、今の日本は、供給者論理でそれを欺いて無駄をしているわけである。このままでいくと、卒業証書を持っていても、趣味、てなぐさみ以上の価値はない大学があふれるという現実を直視してない。あるいは、まじめにやったとしても、高校の中学の補修で終わってしまう大学も出てくる。こんな大卒を、年齢くっているからというだけで、昔の高卒の初任給より高い賃金で入社させるわけにはいかない。むしろ能力が低い分、昔の高卒中卒の同年齢と較べても賃金が割高になる。

東大だって、卒業生の数を絞らなくては、昔の東大卒より、期待値は下がっているのが理なのだ。人口と進学率の関係で、どこに能力期待値のピークがあったのだろうか?バブル前に定年退職したあたりの世代だろうか?今のテレビタレントの中には、その生きた証のような者もいるようだ。

大学で学ぶことの意義というのは、昔から一意ではないだろう。しかし大事なそれというのは、その時代なりにある。また現代では意味のないものもある。専門書籍というのが、まだ一般でなく、高価な時代だったときの大学の講義の価値と、今のそれとでは違うだろう。現代は、くだらない授業をし続け、蛸壺学会にくだらない論文を出す、あるいは連名で学生で書かせるしか能のない、まともな書籍を世に出せない、ろくでもない大学教授があふれかえっている。教授にして、そうなのだから、学位など言うに及ばずである。

日本の将来に為にも、良い大学のあり方というのを真剣に考えるときなんだろうと思う。それがあるべき初等教育にも、少なからず影響を与えるはずだ。

外国は、こうなのに、日本は・・・という話は良く聞く。私は外国の事情は知らない。また外国も、刻々とよくも悪くも変わっていると思う。正しいことは、自分達で考えることも必要だと思う。

私は、学部、学科にもよると思うが、大学ともなれば、学生一人当たりの教授の数とかは、多ければ良いってものじゃないと思う。正直、少人数教室で変な教授にあたっちまったら被害甚大である。むしろ、時の人である教授の名声で、優秀な学生が大講義室に集まっている大学の方が良い場合もある。自分が目指そうと思っている分野で、自分がチンプンカンプの講義に同年輩の学生が教授とツーカーで論議しているの聞いて挫折するのも良い経験なのだ。そしてその分野をあきらめるべきである。井の中の蛙にならなくて済むのである。

マイナーな大学で、井の中の蛙で天狗になっている学生がいたら、そういう一流の大学に学生を行かせて鼻をへし折るというのも、教授の大切な役割の1つだと思う。今の日本なら鼻をへし折られるのが一流に入学できたと思っている学生の方であっても良い。

日本において、このような状況にしまいというのが、日本の教育界の供給者論理の悪さそのものなのである。

大学よ倒産せよ、キャンバス建設投資をやめよ。海外一流校を誘致せよ。

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2006年12月30日 (土)

人の鑑賞の余韻を損なうな!!

12月29日朝日朝刊読者投書。映画館で館内の照明がつく前に席を立ってしまう人が多いそうな。感動と余韻の味わいが損なわれるとのこと。なんかわかるし、悲しいですね。今の日本人、やっぱ急いでいるばかりで、事物の鑑賞力が衰えているかな?同時に身勝手なばかりで思いやりのある公共心がない。そんな人に支えられているんじゃ邦画の復活も、すなおには喜べません。もうキムタクが映っているのは終わったじゃね。キムタクだって、そんな見かたされるのは残念だろうに。

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2006年7月23日 (日)

電子書籍・電子出版

私、電子書籍とかに興味があって、SAGAさんとかの意見なんか聞きたいなと思ってました。レス違いですがTBさせて頂きます。

 私は、今のところ電子書籍というものをあまり利用していません。

ただ期待感はあるんです。紙メディアの書籍と遜色なくなったら多いに活用したいと思っています。

まず経済的な理由で、購読料が書籍より、凄く安くなって欲しいと思っています。特にあまり売れないような専門書なんかにおいてです。紙に印刷したり、製本したりする必要がないんだから、その分安くなることが期待されます。

次の理由は、スペースの問題ですね。私は、今のところ、ほとんど読み返えさない方なんだけど書籍を捨てない傾向があるんで、部屋がどんどん狭くなっちゃてるんです。

なんか書棚って自分の履歴のような気がしてるんですよね。友達の家に行っても、書棚を観察する悪い?クセもある。何故か本というのは貸すとまず返ってこない(新聞、雑誌の切り抜きもそう)ので、出来れば貸したくない。書棚にあっても自慢したくない軽い本は、積極的に家族で回し読みするけど。本を返さない人って、たかが本と思ってるのかな。私は記憶力が悪いので本を所有しているんだけど、返してくれないと、脳みその一部をかきとられたような不快感がある。

こういう私が、電子書籍を利用するようになると、読んだファイルをハードディスクにためこんで悦にいるようになるのかなぁ。ただ電子書籍って期間限定でしか読めないのが主流なんですかね?

出来れば、有料で購入する電子書籍であれば、自分のハードディスクを消費するのもヤダから、(自分のハードディスクは壊れることもあるし)永久アクセス権とかの形にできないかな、なんて考えています。読む対象のファイルはあくまでも向こうにあるんですね。そしてバーチャル・プライベート書棚、書斎とかを構築するサービスとかできないかな。

悪趣味だけど、自分の蔵書、友達に自慢したりして。自分の子供なんかにも税金とか払って相続できる形になるのかしらん?

今持ってる、紙の書籍もしかるべきところに持っていくと、こうしたシステムに置き換えてくれるサービスとかも成立しないでしょうか?

このバーチャル書棚だと、全文検索とか、いろいろ便利ですよね。

こんなサービスを利用しなくても、読んだ本は自分で目録つくっておけば良いのかもしれない。気になる部分があったら、一般検索して、必要な範囲を従量料金で読みかえし確認すれば良いのかな? だとすると、今の期間限定閲覧方式でも良いのかな。

論文なんか発表して、参考文献名を後書きすると、本当にその人、その本買ったことがあるのか、判っちゃう時代が来るかもしれない。

こういうシステムは著作権の問題とかコピー防止とかの問題ありますよね。ただ、印刷や製本に従事している方々のお仕事が縮小するとかの心配はどうなんだろう?

私は、少なくとも日本は、少子高齢化になるんだし、この点の気遣いはしたくない。

これまで、文筆で身を立てこられてきた方々は、印刷や製本に従事されてきた方々への恩義が捨てられないのでしょうか?

ただ、読み手としては、ムダな経費を省いて読書が安価になれば助かるし、著作者の方々も、実入りは良くなるんじゃないかという気もする。出版自体が安上がりにもなる。

やっぱインターネット技術で解決して欲しいかな。携帯は本人確認、課金がしやすいんだろうけど、通信料の寡占がシャクにさわります。

(あと、ブロードバンドを脅迫的にあおる商売もほどほどにして欲しい。ナローバンドで、「タイムアップで切断されました」がやたらないようにして欲しい。こちとら金はないけど時間はある。PCの前、離れて、しなくちゃならいこともたくさんあるんじゃ。)

知的に高度な書籍は、貧乏人にはアクセスしにくかった。日本人の知性を世界で最も発展させたいと願うのならば、そのような書籍を書ける方々は電子書籍に積極的になって欲しいとも思う。IT技術者の方々も、著作される方々の代償を守れる技術を確立して欲しいとも思うのです。

一度、なんらかの理由で、紙の書籍が、全く売れんようになった方が、そして紙の書籍関連の会社が次々に破綻・崩壊して権利関係が散逸した方が、電子書籍社会到来が早くなるんでしょうか?

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2006年4月23日 (日)

建築家・建築士

 私は、青年のころから、絵や工作が好きだったこともあり、視覚美術に興味があって、特別にその方面の本なんかも買い集めている方だと思う。同時に科学少年でもありたいと思っていました。科学者・数学者の伝記、啓蒙書なんかもずいぶん読んだんじゃないかと思う。実際、今の仕事はITじゃないけど、汎用数学ソフトMathematicaなんかを活用している会社員なわけだし。(もうFortran,basic,C,Lispなんか忘れてしまった。最近Javaの勉強をしはじめている。汗)

 

 視覚美術・芸術に興味があったので、絵画、彫刻家の他、建築家関係の著作物にも結構アクセスしました。ミケランジェロ、ブルネレスキからライト、コルビジェ、アアルトから丹下健三、磯崎新、村野藤吾、白井誠一からポストモダン、アレキサンダー、安藤忠雄、佐藤大(nendo)とか、少しばかり知っています。(最近、某新聞は死人に口無しか、丹下健三氏の悪口が多い? NHKは牧歌的な生活感のある坂倉準三を持ち上げる。)

 以前、建築家と建築士って、遠いって書きましたが、実は以前から、建築家ってのも世界的に問題になっているんですよね。

 世界的にいって、建築家ってのは身分の予備軍としては、医者、弁護士から、もう脱落していると思う。代わりはデザイナーをまとめるプロジェクトマネージャかな。

だから日本の場合の建築士は、もともとその存在が重層的にいびつだったんじゃないかと思う。もちろん、変化できない慣性の重さは、その背後にべったり土建国家として旧建設省が存在しているからでもある。

 はっきりいって現代は世界的にも、アトリエ建築家ってのは、存在できていない、食ってはいけない環境みたいです。アトリエ的であらんとすれば、工業デザイナーの仕事として建築に係わらなくては食っていけません。その意味では、世界的にいっても、建築の大学教育は難しくなっています。建築という枠の中で、人材を育成することの意味が判らなくなってきているんじゃないかと思います。米国の大学なんかでは、建築におけるCADCAM研究、ビジネスプロセス、プロジェクトのモチベーション研究が残された道になるんだろうと思う。そして学生としても、社会人としても他分野の人材との人脈が重要になってくるんでしょう。(それには、ますます、建築という範囲にとらわれない、美学、工学上の幅広い高度な教養が必要になってくるが、日本では他学部、他学科、に比べてその水準がどんどん低くなっています。このことでは、こいつが凄いと、鑑定できる環境の水準が異常に低い。対照はIT産業です)日本の建築士を目標にしていたら、とてもおぼつかない世界です。

 日本は、古い建築家像と建築士制度のせいで、建築教育と建築がますます空洞化していきそうです。すなわち高度なシビルエンジニアリング、ビルディングエンジニアリングの民間活用の素地がない。プロジェクトマネージャとして人脈を構成する対象の素地がない。

 最近、大学で一流ほど、建築学科、土木学科から、建築士、技術士が必要か評価する世界、すなわち設計事務所、建設会社、国交省、不動産、デベロッパーに行かない人が増えているらしいけど、その選択をした人も、その選択から、取り残された人も、おそからず、この日本の空洞化には驚愕するはめになると思う。

(これは、木村建設、ヒューザーとかでなくても、三菱だったか野村だったか、一流のデベでも、売れないマンションを出してしまった最近の報道からも感知することができます。こうした、一流だから、この行動になるので、山とある木村建設、ヒューザークラスでは、似たようなことが秘密裏に横行していると思われます)

でその最大の被害者はというと、国民なわけである。

 そもそも、ミケランジェロ、ブルネレスキの時代はもちろん、コルビジェ、アアルトの時代と比べても、建築設計の需要の構造が変化しているわけです。建築家がどんなに抵抗しても、現代では建築はハイテックスタイル、エンジニアリングならざるを得ないのです。だからもし建築家的な要素の仕事が建築にあったとしても、それは自動車におけるカーデザイナー以上にはなれない。そして建築は技術が発達したので、造形的な制約は自動車なんかよりはるかにゆるくて、その意味では、建築家より彫刻家、カーデザイナー、家具デザイナーにデザインしてもらった方が、カッコ良いか、もしくは便利な建築になるのです。そして、現代は、コンクリートと鉄とガラスで作る建築においては、建築家不要の設計の方が多いのです。病院建築なんかは、建築家に設計させない方が良いものができます。

まあ、戸建住宅は施主の趣味的なもんだし、レトロなもんだから、ライフスタイル哲学(建築士の素養外)とか、建築家に設計頼むって需要はあるかもです。それでも、建築士にまかせるよりは、実績作品のあるインテリアデザイナー(有資格者という意味ではない)とエンジニアの組み合わせの方が成功する確率の方が高いと思う。

 日本の建築士から構造安全性設計とエネルギー環境設計を除いたたら、建築基準法という本の引き方と、鉛筆とT条規の使い方以外、何も残らないけど、その構造安全性とエネルギー環境設計能力が恐ろしく低水準なまま、その能力を、わけもわからないまま下請で使って、報酬をだましとる位置づけになっちゃてる。

 こんな資格の中から、構造や設備環境の専門家を選び直しても、カスの中から、必要なものを探すようなもんだと思う。

 日本の建築士ってのは、故田中角栄が大工さん、土建屋の延長でも、コンクリート、鉄骨でビルの設計ができるようにって、でっち上げちゃった資格制度そのまんまじゃないかと思う。

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2005年12月29日 (木)

反射光・猫が見ている

SAGAさんが猫との付き合いについて触れています

私も、もう大分、昔のことになるが、深夜、たぶん20匹以上の猫の集会に出あったことがある。
その前に、劇団四季のミュージカル「キャッツ」を舞台で観ていたので
本当に猫の集会ってあるんだという驚きを交えた、感動を覚えた。
そのころは、比較的大規模な分譲マンションの一室に間借りしていて
駐車場に囲まれた玄関を出たすぐのところで、猫が集会をしていたのである。
まだ、畑なども残っているような地域ではあったが、その点に関しては、いくぶん
舞台「キャッツ」のような都会的な雰囲気でもあったのだ。

私は、数が数なので、ちょっと恐いとも思ったし、
何より、深夜なので、不用意に近づいて、猫達が騒ぐと近所迷惑かなとも思い
その集会を横目に、煙草を買う為に、ちょっと離れたコンビニに行こうとした。
すると、真っ白な毛足の短い美しい猫が、私に近づいて来て
歩く私の足の間を2、3回すり抜けてくれたのである。
突然でビックリして立ち止まると、ちょこんと座って、私を見上げてくれた。
抱き上げても良いのかなぁと、思っているうちに、立ち去ってしまったのである。
一生忘れない、私にとっては、ちょっと感動的な貴重な体験だった。

私が思うに、あの猫は集会に参加していた、どこかの飼い猫だったんだろう
仲間と集会しているうちに、あきて、ふと人恋しくなったのかもしれない。
そんな時に、たまたま、私が通りかかったのかも知れない。

これは、比較的最近なのだが、朝自転車で走っていると、
前方にやはり真っ白な毛足の短い猫が、たたずんでいて、よけてくれる気配がない。
その猫のそばで停車すると、ジーンズのすそに体をすり寄せてくれた。
首輪と鈴がついていた。きっとこの猫は、体がかゆくなったので、
ジーンズをはいた人間が通るの待っていたのかも知れない。
こういう猫は、人間にやたら触れらることが好きではないのだけれども
人間の方は、自分が触ってあげることを必ず喜ぶと信じて疑っていないに違いない。
ゆとりのある、売れっ子ホステスのような猫達である(笑)
美しい恋人と、一緒に生活するのは、家に猫ちゃん飼っているようなもんである(笑い)

昔、農家でたくさんネズミを獲る成績の良い猫は、
囲炉裏端であぐらをかく、家長のひざの上に鎮座して居心地よくすごす権利があったのだろう。

私は猫のいない街には住みたくない
それは稲作文化、魚食いである、日本人の私のDNAのせいなのかも知れない。
ネコを好きになれない人は、アクセクしすぎる文明病に犯されて過ぎているかも知れない。

私は地上で、命あるものに、結構、差別主義である。
人間>猫=犬>金魚>鯉>馬>牛>豚>羊>>>>野生動物
まあ、人間である私が人間は別格筆頭にあげるのは当然として
親しいのはやはり犬猫である、人間との付き合いの歴史が長い
馬もそうなんだが、いかせん、あまり日常的にはお付き合いがない。

もし天国なんかで、彼らが他の野生動物から蔑まれていたら、体を張って彼らを擁護したいと思っている。
人間にはその責任ちゅうもんがある。いまさら彼らへの愛情を薄くするような不義理は許されないのだ。
彼らは人間の為に、いくばくかの適応、進化を選んでくれた、選ばされてしまった。人間の大切な仲間なのである。

だから私は、イルカ、クジラや絶滅種の野生動物も嫌いではないし、大切にしたいと思っているが
それを、犬猫より大切だと思う人達、まして人間の中には、イルカ、クジラより劣る者がいるなんて
平気で考えてる人間を基本的には許さないのを信条としている。
私にとって、猫、犬、金魚、馬達を他の野生動物より愛することは、日本人を人類を愛することでもあるのだ。
それから、イルカ、クジラは犬や猫より頭が良いかも知れない、だからより殺すのがより可哀相だと思っている人に言いたい。
もしそうなら、その考え方は非常に恐ろしい、差別意識を生んでいることに気がつくべきだろう。

気立ての良い、犬、猫が少ない、国は衰退してもしかたがなし、衰退すべきだとすら思う。

菜食主義者、動物愛護主義者の方々の一部に想う。
もしかしたら人類は将来それなりの合理的理由で、牛、豚を育ててその肉を食うのをやめるかも知れない。
しかし生物というものが、地上でその数を増やそうとするのならば、
牛、豚がとらされた戦略は無駄骨だった
ことになるのだろうか。
牛、豚を解放することは、その命や繁殖への感謝の気持ちをなくすことでもあるように想う。
もし、牛、豚が地上から姿を消したら、人類はその姿を永遠に祀り敬って欲しいものだと想う。

私は、最近大変不思議に思うのだが、ディズニィーは何故、ミッキーであるねずみを愛したのだろか?
キャラとしてねずみを愛する文化というのは、大変、奇妙だと思うのである。
ちょっと、ディズニィーファンの方々に尋ねてみたい気もする。

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2005年12月 4日 (日)

反射光、、「構造計算書偽造問題はIT化で解決,じゃないのか?」

YasuAtSellToJapanさんが、ブログ「Sell To Japan 日本語版」の記事、「構造計算書偽造問題はIT化で解決,じゃないのか?」
からTBを送ってくださいました。
私の関連記事は
時代錯誤の落とし子、建築士と建築構造計算捏造問題、責任の所在は?

私も専門家でないから、かなり適当なんですが、報道から察するに

①A1:正しい入力 ―> A2:応力出力 ―> A3(断面設計)応力出力適合断面条件―>A4:適合判定出力
②B1:偽造入力 ―> B2:偽造応力出力 ―> B3(断面設計)偽造応力出力適応断面条件―>B4:適合判定出力
③C1:正しい入力 ―> C2:応力出力 ―> C3(断面設計)偽造断面条件―>C4:不適判定出力
みたいな計算をしておいて

④A1:正しい入力 ―> A2:応力出力 ―>B3(断面設計)偽造応力出力適応断面条件
―>(A4:適合判定出力・B4:適合判定出力)
⑤A1:正しい入力 ―> A2:応力出力 ―>C3(断面設計)偽造断面条件
―>(A4:適合判定出力・B4:適合判定出力)
みいたいな、構造計算書を捏造したんじゃないでしょうか?その他、ちょこちょこ物性値みたいなものもいじってるみたいですが。

確かに、入力条件とか、断面条件のデータをCDとかメールで受け取って、検査確認機関のパソコンで再計算すれば
偽造は防げるハズですよね。基本的には自分達で、キーボードから再入力することはしなくて済むハズですよね。
普通、こういうソフトは入力の続きは明日やろうに対応するから、入力データ、中間出力はセーブしますよね。
それを読み取って計算はチョチョイのチョイだと思いますよね。

基本的に、認定構造計算ソフトの多くは、有限要素法とかは使ってなくて、せいぜい多元連立1次方程式を解くみたいなもんじゃないかな。
だから、1台のパソコンで1日100物件の再計算をしても、パソコン10台あれば、1日1000物件の再計算ができます。

YasuAtSellToJapanさんが、参考かな?示している「鉄筋コンクリート構造の離散化極限解析法」って書籍、かなり高級で、
建築士で、こうした内容理解している方1%以上いるんですかね。?
一級建築士試験って、微積分学、行列理論知らなくても大丈夫って前提で試験問題つくってるみたいです。
いくら地震の少ない米国でも、現代的には建築家が構造設計計算能力があるとは期待されていないみたいです。構造エンジニアと共同で設計してます
省エネ計画、空調設備の設計も出来るとは思われていないと思う。日本は逆で、構造エンジニア、設備設計者がたくさん一級建築士なんですよね。現場管理者もそう。意味ないんじゃんになっちゃてる。米国なんかでは、うちの建築家っていうのに最低限相当しそうなのは、日本の建築士の中では3割?1割?いないなって言われていると聞いています。

考えようによっては、

同じソフトを使うのだから、出力のベリファイは簡単なハズ出だし、実はベイリファイ対象の出力自体、提出の必要がない。
とは言え、計算過程の中間出力はともかく、実際に現場でつくる為の図面と一致してなければならない訳ではあります。
それでも、今どきなら、検査員がパソコンとかもって現場に行けば良いので、紙の図面の必要性は未来的には疑問ですね。
現場用の設計マスターデータがあれば、通信でベリファイもできそうです。

まあ、はっきり言って、はじめから、認定確認検査機関が時代錯誤的に怠慢とは言えそうです。
設備投資を嫌がって、ヤラズボッタクリ体質だったと言われても仕方が無い。
そもそも、設立されて間もないから、まだちゃんとした生え抜きがいなくて、かつて所管行政にいたロートルの建築主事とかその下で仕事してた人達で作った会社が多いんじゃないでしょうか。で設立の資本も業界から集めている。民間として早く安く検査する物理的根拠がもともとなかったのかも知れません。
とすれば、やることは手抜きですよね。

私ね、行政ってのは、立法の手伝いをしちゃいけないとは言いません。そして違法結果を排除することがお仕事だと思うんですよ。
指導ってはの気をつけなくちゃいけない。指導は責任に結びつくから。役所は責任とろうとすると血税でしょ、責任能力ないんですよ。
違法結果を排除するだけでなくて予防もしたいとしても、基本的な手段は恫喝と警告で良いんです。そして適法の情報提供です。
これまた、税金でタダでやるべきことを、やっていない必要な情報をタダで配信しないで、くだらないパンフレットばかり発注しているんじゃないでしょうか?

私は民間の損害保険会社の活用を念頭しましたが、官製のそれや、業界のそれってどうかなと思います。
官とか業界協会って、不適格者擁護体質になっちゃうんです。で個々の不適格者は能力がないから、手綱緩くしてもらおうとペコペコ体質でしょ。
それが楽しくってしょうがない機関になちゃう
んじゃないかな。で本当に損害賠償しなきゃならないとき、建物利用者本位でなくて逃げまわるし
損害賠償ばかりになって、金銭的に破綻しそうになると、倒産させないで、所管省庁経由で血税投入しちゃうんじゃないかな。
これがあるから、建物利用者本位でなくて逃げまわるじゃなくて、大判ぶるまいにもなっちゃうかも。保証してもらう方はペコペコした甲斐があるなぁと。設立資本金集めた甲斐があるなと。
もともと不当に安い保険料で保証したり、問題おこした設計事務所、建設業者なんからの、債務回収なんかそっちのけでね。
最終的には血税使っての、不適格者が設計建設した建築の販売促進になっちゃうんじゃ。実際、政治的にもこれっきゃ考えてない。
民間の損害保険会社活用の方が、不適格者排除としては機能するんじゃないでしょうか。
官製のそれや、業界のそれっていうのが、つきまとうから、民間の損害保険もビジネスとして躊躇しちゃうんじゃないでしょうか。

、ITってのは使い方次第で、公開性、透明性、トレサービィティ、ベリファイ、エラーチェックとか、ローコストの正義の剣にもなると思います。関係者の皆様、お仕事頑張ってください。

問題の建物、少なくとも、住んでる人じゃなくて、近隣や通行人にとっても危ないというのなら、解体撤去ぐらいは血税でやるのも仕方ないかしらん。
責任追及は後まわしにするにしても。

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2005年12月 3日 (土)

時代錯誤の落とし子、建築士と建築構造計算捏造問題、責任の所在は?

世の中は、あの建築構造計算偽造問題で揺れています。
建築確認検査機関の問題もあるし姉歯氏は一級建築士でした。

一級建築士として、誇りを持って仕事をされてこられた方々も心を痛めているご様子。
また、建築が大好きで、一級建築士受験勉強に励んでいる方々の気持ちにも水を差す事件でした。
そんなことから、つらつらとこんなことを考えています。

医師・弁護士・建築家
というのは、欧米では最高水準の倫理感や能力を有する者が従事する
特別なステータスのある職業と見なされているそうな。
欧米に限らず、日本でも、憧れの職業ではあるのだろう。

(ただし、昨今、米国では弁護士は訴訟屋とも言われ、必ずしも尊敬されていない方々もいるらしい。)

これらは、なるのが難しい職業なのか、それとも、まっとうするのが難しい職業なのか?
ただ、基本的には、欧米では伝統的には、建築家というのは
少なくとも、医師・弁護士に較べて、なるのがむづかしい仕事だとは思われない。
どちらかと言うと、まっとうすること、認められられることが難しい職業じゃないかと思う。
その意味では、芸術家の部類である訳だ。
しかし、何故、画家、彫刻家、作曲家達と離されて
医師・弁護士と並びたてられるようになってしまうのか。今回はその疑問は保留しておく。

さて、日本において建築士というのは、そもそもなんなのだろう。
先の意味で建築士=建築家では、とうていなさそうだ。

この日本における建築士なるものの、得体のなさを考察するに、まず
医師・弁護士・日本の建築士を並べて違いを検討してみる。
この考察の興味は、はたして建築士が医師・弁護士と並び称される職業なのかという問いでもある。
そうでないとすれば、建築家と建築士の距離は非常に大きい。

特徴しては、建築士というのは1級、2級がある。
2級医師、2級弁護士というのは聞いたことがない。ナースには似たような制度があるのだろうか?

建築士の特徴には、建築確認申請制度というものとの関わりがある。
つまり、建築士は設計した建物が建設されるにあたって
個別案件1つ1つに、作成した設計図書のお上の確認検査が必要とされる
正確には建築確認申請を要求されるのは、建築士ではなくて建築主ではあるようだが。
しかし実質上は、建築士の仕事、案件ごとに、作成した設計図書のお上の確認検査が必要とされると言って良いだろう。

弁護士がクライアントの弁護活動を行うにあたって、
個々の案件について、お上に弁護活動(計画)確認申請書が必要だったら笑ってしまう
弁護活動中間検査なんて受けていたら笑ってしまう。

医師が患者さんに、治療を処置するにあたって
個々の案件についてお上に治療行為(計画)確認申請書が必要だったら笑ってしまう
治療行為中間検査なんて受けていたら笑ってしまう。

ようするに、建築士という資格、建築士の仕事は、医者や弁護士の仕事や資格と違って信用のできないものだと
国からお墨付きを貰っているのである
。その資格を与えている、資格を得るように強要しているのは国家なのにである。

今、一連の事件で世間で話題になっているのは、建築の認定民間確認検査機関である。
それまでは、この手の業務は所轄行政の建築指導課等、建築主事が行っていた。
いづれにしても、こうした機関が必要(強制)であるなら、建築士制度は必要ないし
建築士制度が必要なら、こうした確認検査機関は必要ないのである
。少なくとも両方の制度があること自体が無意味なのである。
あるいは、両方の制度とも無意味なのかも知れない。
建築設計、施工監理を必要とする社会のニーズに何の貢献もしていないのである。無駄な雇用創出、集金制度なのである
職業の為の職業なのである。所轄官庁がなにかやっているふりする、天下り先をつくる為だけの、何の役にも立っていない制度なのである。
一生懸命仕事をして、稼いだお金で、住宅やビルを建てたいと思い、優れた設計を欲しがる人から
意味のない手数料を搾取する無駄な雇用を生み出す制度なのである。
この得体の知れない構図こそが、建築士制度、建築確認検査制度なのである。

私は、民間確認検査機関で良いと思う。そして建築士制度はいらないと思う。
建築士制度はあっても良いかも知れないが、
建築主は建築士を頼らないで建築設計してもらい、建設してもらえるようであって良いと思う。
建築士であるかどうかは、建築主が誰に建築設計を頼むかの参考程度のもので良いだろう。
建築士に相当する民間資格が存在するようになって、国家資格である建築士より、建築主らの評価が高くなっても良いと思う。

法治国家である以上、建築基準法等条例等に違反する建築物は存在してはならない
違反する建物は原則、すみやかに完全適合にするか建物自体の撤去である。行政は、いかなる情状も斟酌することは許されない
行政は原則、設計図通りに、建築されているか、なんらかの方法で確認できうるべきだ。だからと言って設計図が合法であるかの責任を負う必要はない。
建物が出来てしまってから、好きなだけゆくっり図面をチェックして、設計図が違法であったら、撤去命令とかを出しても良いのである。出さなくてはならないのである。
さて、そうなった場合の損害を誰が被るのか。勿論、是正、撤去を命じる行政(血税)がそれを被る必要はない。
それは、原則、建築の保有者であり、建築主である。そして彼らがその責任を誰に肩代わりしてもらうかは純粋に民事契約上の問題
である。

②さらに建築基準法等違反の他、建築主、建築所有者が、自からその建築で生命が脅かされるたりするのは、基本的には建築所有者の自己責任である。
③建築主、建築所有者が、その建築を他人に利用させて、その人の生命が脅かされれば、それはその建築主、建築所有者の責任である。
ただし、事前に例えば、建築設計者や建設業者が文書をもって、それらの責任を替わってとる契約になっているのなら、その契約は有効でなければならない。それ無しに、建築士法に記載されているような、自動的になんらかの責任があるような文学的な文章ははなはだあいまいで、誤解を生む以上の意味をなしていない保証賠償として機能するのは個別の民事契約内容だけなのである。これは今回の事件でも明かであろう

①をクリアしていることが、②③の場合の免責になるとは限らない。実際の裁判になれば、免責を得やすいとは思うが。
また血税を使うことになる行政は②③に介入する権利はないことにした方が良いだろう。血税を使うしかない行政のお墨付きや保証は結局無責任なのだから。

(①)建築主、建築所有者は、まず設計が違法建築になってしまっていて建設して撤去など余儀なくされるリスクに備えるべきだろう。そうなった場合に備え信頼に足る損害保険会社と契約すべきである。あるいは設計者、建設会社等が損害を肩代わりするという契約を提示した場合でも、彼らが破産倒産した場合に、信頼に足る(資本力がある)損害保険会社が保証人的についているか確認すべきであろう。この場合、設計者、建設業者と保険会社はお互いの免責事項について綿密な取り決めが要求されるだろう。そして保険会社はリスクを限りなくゼロにする為に、信頼に足る民間確認検査機関を利用することができるだろう。信頼の源泉は民間確認検査機関の資本力ではなくて、ちゃんと検査確認業務をやっているかどうかである。ここに国や行政が足しになる余地はないし、余地があるべきでもない。

(②③)これは建物免震システムなど特別な設計をし建設した建物の、地震保険料等にかかわることでもある。免震等でも普通よりさほどの耐震性しかない場合もある得るとの関心も必要だ。免震だから柱を細く、梁を少なくできる等の興味で設計をする技術者も少なくない。結局これは地震のとき他の免震でない建物と同じように損傷すれば良いという免震の設計思想である。もちろんそうでない免震設計こそが普通だろう。

④建築基準法、政府刊行物、建築士試験の内容では推し量れない高度の水準の設計ができる設計士は、クライアントや保険会社に、自分の能力を自由にアッピールすべきだろう。自分も世間も信頼している、建築家、学者、技術者の著作物、論文等を明示して、この水準で私は設計しますと言っても良い。卒業した教育機関の水準に見合った仕事をしますでも良い。嘘を言ってないなら、裁判でも本当にその水準の理解力で仕事をしていたかは検証できるはずなのである。裁判官は良識をもってそれが現実的な人智の範囲であったか判断できるだろう。誇大広告は裁かれ処罰されるべきである
今の建築士の立場が、行政がおこなった誇大広告の産物のようにも思われる。国家資格取得者は責任をとらずに、責任能力がないのに既得権意識が勝りすぎているかも知れない。まるで社会主義国家の中で、党員になれたかのような振る舞いに近い。自分では実務をせずに管理者気取りではないのか。
有資格者(党員)に任せかせましたは、免責にはならないのである。これをあいまいに許すから、責任の所在が途絶える。有資格者に責任能力の根拠はないのである。

(②③)建築は消防法を順守すべきことは勿論だが、保険会社独自の保険料を決める価値判断はあっても良い。
消防庁は消防隊員がより低いリスクで消火、救助活動できるか個別の建物の情報に関心を持つべきだろう。活動を躊躇したくなるなるような建物の情報を把握しておくべきで、それを建築主、保険会社等に勧告しておくことも良いと思われる。実際に活動を躊躇したとしても、必要以上にとがめられる必要はないだろう。建物の使用者、利用者は、そうした情報を知りえるべきである
建物によっては、最上階等に建築主、建築所有者で私設消防隊を常駐させるような考え方も必要かも知れない。

建築を愛して仕事をしている方々、そうした仕事を目指している方々、建築士の勉強は何だったのか、何を勉強しているのか
疑問に思うことも大切かなと思う。建築を愛するがゆえ、そうした疑問が将来役に立つことがあると思う。
建築士になる為、受験予備校で、本来じっくり考えるべきプラニングをさっさとやるテクニックを教えてもらい
製図試験で、図面の植栽に鉛筆の点々で影をつけたりして、私は受験予備校に授業料払っていましたということを
採点者にアッピールする。こんなことで合格した資格で本当に良いのか。もっと現代的な設計現場が要求する能力を問う試験であるべきように思う。
そもそも製図試験の採点者とは何者なのか、受験予備校の関係者とどのような情報交換をしているのか。

④のような設計活動を促すような制度であっても良い。このようなスタンス、能力のバックグラウンドで私は開業しますという、届出制にすることも可能かも知れない。クライアントは届出内容を知ることが出来なければならない。届出内容に虚偽があってはならない。無届開業は許されない。

多くの人に、建築家、設計士として、良い仕事ができるように、自己責任で研鑚に励んで頂きたいものである。
女優菅野美穂さんのように、いつもいつも、人の幸福の為の自分の役割を愛し、果すことを熱心に考えているようになりたいものであります。

ちなみに、私は建築士に関して、その取得者第1号は、土建金権国家中興の祖でもある故、田中角栄元総理とも聞いたことがあるんですが、本当なのかなぁ。

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2005年10月23日 (日)

反射光「奇蹟系」映画は観たくない

菅野探偵事務所のSAGAさんのご感想
私も、そう思います。

あまり良い傾向でないなと思われるのは2つでしょうか。
1つは奇蹟系で良いのか
2つめは同じ夢でも過去ではなく未来に向かう夢を見せて欲しい
両方がどう融合しうるのかは、まだちょっと良く判りません。

私の場合、宣伝で、そんなお話だと思っているから
それらの作品、観てない弱みはあります。
「黄泉がえり」なんかがそうです。

「世界の中心で愛を叫ぶ」は連ドラなら、再放送でかなりのスキップ再生でおおよそは把握しました。
スキップ鑑賞だったということは、私の好きなタイプの物語でなかった見たいです。
勿論、原作にしろ、映画ドラマにしろ、これを良かった、感動したと言う方々がおかしいという気持ちはありません。
そんなには、私なりの解釈の「奇蹟系」という印象ではなかったです。

「奇蹟系」としてSAGAさんは連ドラ「雨と夢の後で」は揚げておられません。
観てらっしゃらないからかも知れないかとも思ったし、あるはこれはそうではないと思われたのかな?
私はこのドラマ、雨のお父さんが、事故で幽体離脱して娘のところに来たけど
いづれ、体に戻って、救出されるのではないかとも思って観ていました。
いづれにしても、「奇蹟系」としての批判としては、正直、微妙なところです。
ただ、「奥様は魔女」「ロッカーの花子さん」的エンタメとして面白かったし、
血の繋がりの有る無し、親子のきづな、未練の克服という意味でジーンとくるものはありました。
後向きの、過去振り返り系ではなかったと思います。
そういえば、私「居酒屋ゆうれい」が大好きなんですが、
不覚にも?(笑い)「雨と夢の後で」はジーンとくるものが多かったかな。

「いま会いにゆきます」も連ドラの方は、かなりのスキップ再生でおおよそは把握しました。
やはり、「雨と夢の後で」と同じ手法と感じましたが、
「奥様は魔女」「ロッカーの花子さん」的エンタメ性が感じられなかったので
穂影としては、大きな減点対象でした。
また、乗り越える為の過去振り返り手法が「奇蹟」系の印象とあいまって
凄く安直かなという印象が強かったです。
これに関しては、映画、連ドラとも、
菅野美穂さんのシンパであろう岡田恵和さんが、
原作を取り上げ、関わっているのを寂しく感じます。

亡き人の影が、枕元に立ち、何かの啓示を与える。
私はこれは、あっても良いと思う。
結局はそれも、本人の意志なんだけど、
自分の中以外のものから由来しているという体験感覚は
錯覚に過ぎないなんだとか
そんな風に考えることは、その人の勝手ではある。
一方で私は、こうことは、世界に漂う霊的なものリンクが
本当にあるからなんだと、思ってもいます。
潜在意識的な偶然に頼らず、つとめて意識的に、こうしたリンクに対する、
アンテナを働かせようというのは悪いことではないと思っています。
「すべてのことは~♪メッセーェ~ジ」なんてね(笑い)

>現実と未来への期待が薄く、昔を懐かしみあのころに戻りたいというような気持ちばかりが
確かに問題ですね。大人の志向がそればかりでは。社会傾向として恐いですね。
この間、たまたまアニメの「雪の女王」観てたら
お母さんに死なれてしまった、ちっちゃな女の子が、魔法?の力で、夢でお母さんに会っていました。
勿論?私はジーンときました(笑い)
これを、大人の身の上にして、いつまでも感動の種にしちゃいかんですね。
それじゃ、子供達を守る立場として子供達にあわせる顔がない。

                  毎度、とりとめもなく。

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2005年10月22日 (土)

反射散乱光 マイナスをエネルギーに! 

菅野探偵事務所のSAGAさんが、お体の変調に関してレポートされています。
まづ、おからだおだいじに、です。
SAGAさんのネガティブなシチュエーションにあってポジティブなご姿勢には励まさられます。

私自身は、不精で病院のお世話になることはめったにはありませんが
潜在的には少なくとも生活習慣病のオンパレードに近い身体になってしまっているようです。
わかっていながら、根源的なことを明らかにしようとしないで、問題に正面から向き合おうとしない
私のような人間は、世の中ものすごく多いんじゃないかと思う。

会社の健康診断程度で、深刻な傾向が指摘されれたときは、物凄い後悔の種だろうし
近い将来、そうなる確率はすごく高そうです。
そのときにしか、自分の体の限界、運命を思い知ることしかできないんでしょう。
自分の身体の見栄が良くないこと、運動神経もいまいち、脳細胞のパフォーマンスにも見るべきものがない
というのは、早くから自覚させられてはいましたが。
そのこととは、折り合いをつけて、何とかこの歳まで、この世に居座り続けているんですけどね。

創作活動って、体なんかのシチュエーションがなんらかの形で、結果の個性になってるって多いと思うんですよ。
そして、個性は創作活動の命ですよね。
なかでも、作家が身体の限界、運命とどう対峙していかという意識のあり方の影響は
作品が深くなるかどうかという意味でも大きいんじゃないかと思う。
SAGAさんの独白。我々にとって、リエゾンマンになっていただけるような気がする。
是非是非、頑張って下さい。私もいつかなんらかの形で、SAGAさんに続きたいです。

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2005年7月 2日 (土)

時空を超える四次元の旅人、万年寝太郎さん

万年寝太郎さんは30才とのことで、お若いのです。(穂影は47歳)
でも寝太郎さんは落語、時代劇をはじめとして、古典に実にお詳しいのです。
邦画にも詳しく、近代史に対するご見識も抜群とお見受けします。
お若いのに、実に頼もしいと思うと同時に、
同じ日本人として、わが身に恥ずかしさを禁じえません。

最初、大人童子さんとして、ネット上でお目にかかったばかりのときは
何か、ご隠居さんのように感じて、大先輩のネットサファーさんだと誤解してました。
ある意味、カッコイイ方だなとの誤解だったんですが
お若いと判って、さらにカッコイイと思いました。
万年寝太郎さんとしては、大層、心外(笑い)だったようで失礼してしまいました。

温故知新と言えば月並みですが、昔のものを知り味わうということは
人間として、とても大切なことなんだと、反省させれます。特に過去の事件、イベントとしての知識としてだけではなくて、人々の気持ち、感情、希望、熱意、情熱、夢、情念、魂としての歴史ですね。
地球上の生き物の中で、しっかりした記憶、伝承、歴史を持つのは人間だけです。
現在だけにしか興味がないのは、獣、家畜に近いかなという気がします。
せっかく人間として生まれたんですもんね。万年寝太郎さんのように楽しまなっくちゃいけない。

現代とか今のことにしか興味がない生き方は、水面の水すましのような生き方です。
平面(現代、瞬間、刹那)の中だけで生きているようなもの。世界が狭い。
水の中(古典、歴史、過去)を泳ぐ魚は、立体的に生きている。
そしてですよ、水すましは、水面の下にも上の空中(未来)にも出ることができないけど、
魚は水の中(いろんな時代の過去、歴史)にいるからこそ、空中(未来)に跳びはね出ることが出来るんです。

万年寝太郎さんは、現在を超えて、時空を超えて四次元に生きていてカッコイイんです。
私も、自分の脳みそ中に、万年寝太郎さんのように
豊かな四次元空間を構築して、人間であることをおおいに楽しめたらなと思うのです。
内なる旅行、探検、インナートリップが楽しめたらなと思うのです。

そんな、寝太郎さん(大人童子さん)が、菅野美穂さんの大ファンであることがうれしい。

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2005年6月26日 (日)

落語

 「タイガー&ドラゴン」面白かったですね。
万年寝太郎さんには、是非、踏み込んだ解説をして欲しかったんですが流石です。
ヤクザと落語家ねぇ。宮藤官九郎さんの発想のソースも近いんじゃないしょうか?
宮藤官九郎さんはドラゴンの噺ネタどうやって選んだんでしょうかね?
もともと落語にお詳しいのか、一発奮起で一気に勉強なさったんですかね。
私は寝太郎さんより、本来シブクなくちゃいけない、若い人に日本の伝統教えなきゃいけない歳なのに
落語、苦手科目で恥ずかしいです。たぶん、これまでのイケイケドンドンの悪い日本の悪い影響そのままで
どうもセッカチでいけねや。(笑えません?汗 失礼)

官九郎さんの作品って少ししか知らないけど、微妙にシュールですよね。
落語も江戸時代なんかの話でありながら、世相そのものからは微妙にシュールなのかな。
実際、人情味あふれた時代だったんだろうけど、あの時代なりの憧れの面もあったかな。
だって、せちがらいご時世で、ってのも定番なんでしょ。
心意気、精神は不滅なんですよね。

タイムマシンで200年近くも昔に行っちゃうと、同じ日本でも、実際には凄く恐いことなんだろうけど
落語聞いていると、なんか馴染めそうな気しちゃいますね。
「けったいな格好して、あんたどこからきたのさ、さッさ、まあまあ、そこに座りなさいな」
なんてね。人だかりのしている、大家さん、ご隠居さまの家でね。
逆だったら、大変でしょうね、向こう三軒両隣の無い現代じゃ。
「なんだよ、人情のかけらもねぇじゃないか、こんなとこ人間の住むとこじゃねぇな。
人間様がこうじゃ、地獄の方がまだマシだな」なんてね。

「タイガー&ドラゴン」若い人達だけでなく、穂影の年代の人間にも大いに影響与えたかな。
4字熟語、故事成語、(苦手 汗)知ってるだけじゃなくて、落語知ってるとカッコイイってなると良いかもしれない。
それじゃ「饅頭こわい」みたいな話だなんて会話できるとね。

落語って考えてみると凄い技なんですよね。一人芝居ですよ。進んでますよ。
しかも、小道具は扇子一本、羽織1枚。しかもなんと座ったまんま。凄い。
菅野美穂さん、いつか椅子に座ったまんま、一人芝居に挑戦したりして。

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2005年6月11日 (土)

美食の悲しみ

SAGAさんが食べ物について語っていられます。

私は、ついつい食べ過ぎてしまって、肥満が悩みの種なんですね。
惰性で食物を口にするのって、良くないことだと、つくづく思う。
空腹感というより欲求不満、満たされない思いの代償として口にするのかと思うと悲しい。

3度3度、きちんと適量、食事するのが良いんでしょうね。
でも、私の理想は、野生のライオン見たいに、満腹なら目の前に獲物があっても、寝そべっていて
空腹になったら、ギラギラとした目で獲物を追って、ありつく、という形かな。(これが出来ない 汗)

こういのを、理想とするのって、農耕民族的よりは狩猟民族的なのかなって。(関係ないか 笑い)

空を飛ぶ鳥さんって、飛行の邪魔になるから、食いダメが出来ないタイプ見たいですね。
胃が小さいんだろうな。代謝が激しそうだから、しょっちゅう少しづつ食べてる。
鳥さんは、羽毛で着膨れしているけど、かなりやせっぽちなんですよね。
着膨れ菅野美穂さん見たいで可愛いですね。

食べものに関しては、不思議に思うこと、わからないことがある。
美味さにこだわる、ことの人間性としての良し悪しについてです。

ひとつには、腕を磨いて、一生懸命、料理をつくってくれた人がいるなら
そうした人の成果に、拍手を送れるようでありたいなと思うことがあります。
服、物品、文学、音楽、絵画、演劇、思想、哲学、科学・・・などなどと同じですよね。
良いものにこだわって、それが判るなら、それにこしたことはない。
人間的にも心的にも豊かになれるのかなぁ~って

でも、食べ物は、それとは本質的に違った面がありますよね。
文学、音楽などは、日々どうしても必要ってもんじゃないですもん。
日々、三度三度、食事を提供をしてくれる人への感謝の気持ちを
美味さにこだわることによって、ないがしろにして良いものかと思うことがある。
美味さへのこだわりって、心豊かな、ことなのかしらん。
(文学、音楽、絵画、演劇、思想、哲学、科学・・・もそうかもしれない)

料理店の提供するもんなかは、こだわって良いと思うんですよね。
向こうはプロなんだから、それでお金稼ぐのが目的なんだから。
でもお母さんなんかが作ってくれたもの(慈善で提供されているもの?)の美味さに、
必要以上の要求をするのはどうかなと。
私の父は封建的な人で、子供のころ、食卓が父の美味さへのこだわりのせいで楽しくなくなったことが多々あったんです。

晩年、母が父に問うたことがあります。
何でも良いコンデションで美味しく頂けることと
本当のこだわりの美味しさが判ることと、人生どっちが得なんでしょうかと。
父は、「う~ん」と考えこんだ末、「それは人生最大の大問題で、わからん」と言いました。

母さんが、手のこんだ料理をつくってくれても、(お母さんはもう食事終わっているから)一人で食べるよりは
どんなに素朴でも、例えコンビニ弁当でも、あるいは外食でも
お父さん、お母さんと家族で(あるいは友達どうしで)一緒に食事するほうが良いようにも思える。

服なんかもそうかな。セータ、手袋、マフラー・・。寒くないようにと、作ってくれている、買ってきてくれている。
ブランド、デザインばかりに、こだわるのもいかがなものかと。

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2005年6月10日 (金)

オーラの泉

SAGAさん、いわく霊的なものと宗教的なものとは違う。
私もそう思う。世間では非科学的(UFO?)なものというカテゴリーもあるらしい。
科学的なものは信じられても、そうでないものは信じないという
立場も考えて見れば、あいまいな話しでもある。
信じる、信じないの本質は、つきつめれば、そんな単純なものではないと思う。
まあ、簡単に言えば、彼女、彼氏を信じるというのは、科学的?ってことでもある。
科学なんかは、信じる信じないというより、
再現性のあることか、ないことかという、(限定的)実利性、効用性、応用性が案外重要なんだけど
これを、みんな結構、忘れていたりする。
(再現性=条件が同じなら、何度、試行しても同じことが起きる)
科学だって、いつも厳密で利用されいるわけじゃない
むしろだいたい条件が同じならだいたい同じ結果になるということが多く利用されいるんだと思う。

そもそも、今日も明日も、だいたい同じ科学法則が通用するなんて保証はないんじゃないかと思う。
それは、限られた経験則、惰性でしかない。
明日は、画期的な科学理論が発見されるということではなくて、
宇宙が世界が突然、絶対に予想不可能な別の法則(法則がないこと、再現性がないことも含めて)
の世界にガッラと変わってしまうかもしれないんですよね。

科学的と思っていても、我々は、漠然とそんなことは生じないと、根拠なく信じているにすぎない。
これを信じているから、みんな上手にお仕事なんかして、キャリアをつんでいるわけです。

古典哲学で唯心論者というのは、こうしたことを十分理解していた人達かも知れない。
自分が生きていて覚醒していてこその世界。死んだ後に、全く別の世界で覚醒したとしても
その可能性を否定できる根拠はあってないようなものという気もする。
(なんか、アニメ、ツバサクロニクルの世界?)

信じるってことを否定する、信じるってことに慎重な立場ってのもあるだろう。
SAGAさんは、こういうタイプかもしれません。
霊的なものを否定する科学的ってものを信じない->霊的なものは存在するかもしれない
->霊的なものの存在を信じたって良いじゃないか。->私には存在する。
という論法は、私には否定することができない。

私は霊的なものの存在を信じたって良いと思う。
ただし、科学を盲信、妄信するのが、いけないように、これも妄信はいけない。
いや妄信は個人の自由だけど、妄信させるのはいけないと感じる。
(だからSAGAさんは、宗教組織を忌避するのかな?私はそう)

かつて、「言葉狩り、服装狩り」で、
人によっては、恵まれた環境でみなから愛されて育った人間ばかりではないからって
指摘された方がいらしゃいましたが
我々や菅野さんに霊的な世界を紹介するのが、美輪さんらのような方だから
信じられるってことは大変重要だと思うのです。
美輪さんらは、霊の格にかなうように
この世においては、相応の法則に従って、
努力、功徳(楽ばかっりしちゃだめ)感謝の気持ちを積みなさいとおしゃっている訳ですね。

霊を信じることの素晴らしさには、事物の理解、人生の理解に時空を越えて、感情、心がこもることがあると思う。
昔の人の人生を、イベント、事実、事象、記録としてとらえるだけでなく
当人の感情、怒り、悲しみ、喜びを、自分の心としてとらえることにあると思う。
心を心に投影することだと思う。今は無き心、魂を救済、再生することだと思う。
菅野美穂さんは素晴らしい役者さんだと思う。
美輪明宏さんは素晴らしい芸術家だと思う。
菅野さん美輪さんは、前世の心、魂だけなく、なにより今の周りの人々(+ワンちゃん、ネコちゃん、イグアナ)の
心、魂を自分の心に投影する力(気配り、優しさ)があるんですよね。

(旧体制に挑戦する? )ホリエモンにも霊から見放されないような、心はちゃんとあると思うんですけどね(笑い)
むしろ、それが枯れているのは別の人達ような(だって人相が 汗)
ヤフーの孫さんはかなり高い徳がありそうな。
(良く知らないから、適当だけど 笑い?)

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