2009年6月 4日 (木)

一生懸命

一生懸命って大切だと思う。

一生懸命であることを、評価・称賛・敬愛し、場合によっては、その前提で、人にそれを期待することも、よろしいかなと思う。

ただ、一生懸命の型というのは人によって、違っているんだと思う。

だから、型まで含んで、特に自分固有の型で、人に一生懸命であれとさとすのは、よろしくない。

人から、特定の型で、一生懸命であれと、圧力をかけられて悩んでいる状態から、場合によっては、人目を気にせず、早く自分の型を見出して、一生懸命になれることが肝要である。

何故、一生懸命になれるのか、それは自分の納得の為であり、人に納得してもらう第一歩である。納得は知りたがることでもある。知りたがることなくして、自他を欺いて、一生懸命はない。

感じることは知ることである。感じないで知ることに価値はない。

人からの評価を得るのに急ぐな。それは死んでからっだって、とわの先だって良い。自分の納得が大切である。

一生懸命である人々が集って、何事かを成すこと、美しくも素晴らしい事である。

板の上や、映像で、演劇活動にかかわっている方々、

ウェブ上で、オープンソース、フリィーウエア、API、クラスの開発に参加している方々、

ブロガーたらんとしている方々

うらやましくもある。

営み、事業とは、そうでありたいものである。

人づきあいが苦手であっても、どこかで、つながって、一生懸命が生きる通路は必ずある。

経済、金融、投資はインフラでもあり、重要でもあるが、二の次で良い。株・投機 そこにどんな自分の納得があるのだろうか?

貯えることに納得を見出すのは、否定しない。

人生には限りがある、背負って生まれてきたものを生かし克服し、同類を勇気づけられる、進化の可能性を示唆できる、美しいアンガジェマンで終わりたい。道半ばも立派なアンガジェの有終である。

どういう気持ちで、闘病するか、キーパンチするか、どぶすさらいするか、官僚するか、育児するか、政治家するか、かしづくか、軍人するか、ベッドメーキングするか、・・・すべて一生懸命に足る重要なアンガジェである。

知りたいことに、一生懸命であれ。一生懸命が、感じるに値すること、知るに値することを生みだす。

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2009年4月26日 (日)

草なぎ剛さん お酒の失敗?3

当初、朝日新聞、読売新聞が大きく、とりあげ過ぎじゃないかと、言ったが

矛盾するが、マスコミ・芸能界が逆に無理な収拾、無責任な黙殺に舵を切ったことに不信感がつのる。ことなかれ主義に不信感がつのる。

まず、草なぎさんの自宅、家宅捜査への違法性の可能性である。草彅剛さん自身や、顧問弁護士が抗議しないのは、まあ別に良いのである。ただでさえ大手新聞社や、あの大臣やCMスポンサーからの過剰社会制裁受けているのだがら、早くほとぼりを冷ましてあげたいというファンとしての気持ちもある。

しかし、こうした草なぎさん側、ファンの気持ちに便乗して、違う反省をうやむやにする警察、さらに自らしたことをスカット忘れて、いまさら嘘みえみえの草なぎさんファンのふりをする業界も許せない。そんな嘘より明日にでも草なぎさんと新しい仕事の契約をする、仕事の継続を確認するなどの態度で示して欲しい。

弁護士会として、果たして放置して良いものだろうか? 私個人は草なぎさんやl顧問弁護士を疑うわけではないが、自分達は大丈夫だけど、他の芸能人は、どうも怪しい、仲間の為にも官憲とケンカしないほうが良いと判断したと疑われる可能性もある。

サラリーマンの一部が泥酔して、ブタ箱で一泊するするなど日常茶飯事である。それで、麻薬所持者と疑われ家宅捜査を受けていたら、いくら麻薬を撲滅したいと願うにしても、これは、人権無視・恐怖政治・恐怖官憲の国家で民主人権法治崩壊である。芸能界、芸能人は司法のルールを無視して、基本的な人権を官憲に踏みにじられてもしょうがないということを放置しても良いのだろうか。これに世論の賛同がわけもなく得られるとしたら、芸能界には組織暴力団と同様に、基本的人権を斟酌するなということになってしまう。(組織暴力団は世論に反して、警察機構の一部や福利行政の一部から、その過剰人権を秘密裡に守ってもらっているのである。)芸能界=組織暴力団で芸能界が良しとするのなら、芸能界は自浄力の放棄を宣言したに等しい。 芸能界にあこがれなさい、あなたもスターが、ヤクザになれという勧誘に等くなってしまうではないか。

芸能界は、弁護士会は強く警察に抗議・釈明を求めるべきである。あの大臣の発言と撤回も、納得のいく反省の態度が見られるまで、草なぎさんファンの反感を大いに、あおるように執拗に何度でも流すべきである。

草なぎさんのCMのスポンサーにも、本来なら無期中止だが、警察の家宅捜査への不信感、大臣の発言の不適切の相殺によって、CM契約を続行履行させてもらうとして欲しい。

不審と言えば薬物に関しては、草なぎさんは血液検査をされているのだから家宅捜査は必要ないハズで、家宅捜査の目的が、地デジ関係のCM営業で、郵政関係との過剰飲食等の証拠がないかの調査だったら面白い。こういう事実が見つかっても、草なぎさんの立場では、普通おとがめがないのが社会の良識である。強いて言うと、あるとすれば、接待される関係者の家人に草なぎさんの大ファンがいるので、男芸者をさせれた程度で、これを咎められたら芸能界は成り立たない、あくまでも悪は席などをだんどった関係者と出席に応じた関係者である。

大臣の発言からして、大臣と草なぎさんが同席したことがあることはないだろう。(もしからしたら草なぎさんが、くってかかったことがあるのかも知れないが)

地デジ関連のCMと関連して言えば、今回のことは、かつての年金キャンペーンと較べても、大臣が芸能人に対して、カンカンになるほどのことでもない。あれは、あの大臣の根っからの芸能人蔑視観そのものの尊大傲慢さであり、放送事業、映像演劇界の大敵である。

石原さんが大切な弟さんを預けていた業界、小泉さんが大切な息子さんを預けている業界である。あの大臣あれですませるわけにはいかんだろう。

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草彅 剛さん お酒の失敗2

穂影が思うことは、世間の少なくない人が思うところと一緒だったようだ。

不祥事は起こしてはならないものだから、そんなものに本来は手本などはないが、少なくとも、これまで、もっとひどい不祥事を重ねてきた、政財界官僚著名人とその仲間は、反省の姿として、記者会見での草彅さんを敬って欲しい。

覆水盆に返らずという言葉があるが、今回その言葉に近いのは、草彅さんより、マスコミであるし、あの大臣の発言撤回は、反省すべきことを反省している姿勢とはほど遠い。あれで少しは盆に返せたつもりなら、どういう神経だろうか。人間の本質とは、とりつくろえないものだと思う。

草なぎ剛さんが、SMAPの面々との電話の内容に応えたとき、許しを請うたに先立って、仲間が体を心配してくれた、日頃からお酒のことを心配して忠告してくれていたと話すのを聞いて、芸能界の中にも、こうした会見ができる人がいるのだとつくづく思った。いや芸能界の中にもというより、草なぎさん、SAMAPにしかいまい。その他、立派な女優さんもいるが、そもそも不祥事を起こすことが考えにくい貴女(ひと)でもある。

警察が、草なぎ剛さんの自宅を家宅捜査したこと。昨今の芸能界、スポーツ界のことを思えば、無理からぬことかとも思う。警察関係の人達は、我々のようには芸能界のこと知らないかと思う。ミソクソ一緒である。しかし、結果的に、無罪だったので、捜査手続き上、重大な過失である。本来、草なぎさん側が寛容でなれば大変なことなのである。今後、進展上も何かあったら、警察側のねつ造が疑われしまう世論ではないだろうか。その世論をなだめるのも、草なぎさん側の度量にある状況かと思われる。

今後、郵政関係、広告関係で、あの大臣の足元で何かあったら、(日本のビジネス習慣上も、無理に?さがせば必ず何かでてくるのではないか?)そのときSMAP、草なぎさんファンは微塵も大目に見ることはないだろう。SMAP、草なぎさんらに対する、横暴への恨みは、食い物の恨みより恐いのである。それはファンは逆に横暴、慢心しない真摯なSAMAPや草なぎさんの人間性を、大臣などよりも信じているからである。

ジャナーリズムも、草なぎさんの心情から、何かスクープのネタを探るようような、インタービューを恥じて欲しい。官憲の権力を恐れず、自分達の正義感と取材力で真実を暴いて欲しい。ファンが草なぎさんに求めているのは、そんなことへの協力ではないし、草なぎさんもそれをわかってくれていて、歯をくいしばってがまんしているかも知れないのである。

ファンとしては、真のジャーナリズムと司直に、マスコミに、今回の報道に反省があるのなら、必要以上に草なぎさんを傷つけたことの仇をどこかで取って、名誉挽回して欲しいと思う。

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2009年4月24日 (金)

くさなぎさんのお酒の失敗?

2009年4月24日読売朝刊・朝日朝刊を見て、草なぎさんが泥酔して失敗されたことが報道されていた。びっくりしたのは、報道が大きいこと。記事を読んだ印象として、この時点なら普通は小さい記事で済ませるところだろう。

朝日朝刊も読売朝刊も、芸能週刊誌じゃあるまいしと、正直思う。

政財界官僚の不祥事など、重要な報道は山積みである。草薙さんをスケープゴードにする狙いでもあるのだろうか?

そこそこ酒を楽しむ穂影なども、少なからず、酒での失敗はある。新聞社の人間だって、そういう人間は少なくないはずだ。

ふだんは、気取っている管理職の会社人間の中にも、酒で品格に欠ける人間ははいて捨てるほどいて、二日酔いの後、ケッロとして、いいきなもんである。

とりあえず、草薙さんの場合は、飲酒運転や暴力、薬物に関連がないようなので、この点に関しては、なによりであった。

日本は飲酒の間違いに対する自己責任追及が、つい最近まで恐ろしいほど甘い国であった。死刑になるべきところを、飲酒が免罪布になってしまっていたのである。飲酒運転への規制もやっと最近になって厳しくなったのである。

草薙さんは、お酒がお好きということをバラエティ番組でも、ある程度ウリにされているようだった。これまで、お酒で回りに迷惑をかけているという話は我々の耳には入っていなかった。お酒に強いと、飲んでも間違いが少ないということはある。草薙さんが、もし世間に知られていないお酒の間違いが多かったとしたら、周りの人々の責任は重い。

今回は、普段身近な人たちにとっても、あの草薙さんがとビックリなら、草薙さんの抱えていた心のストレスは何なんだろうかと思わずにはいられない。しかし、そうした心配も、まづは、普段身近な人達が持つべきものであって、報道の役割でないし、報道から守るのが筋かと思う。

草薙さんの品格というより、これに関連して新聞社等の品格のなりゆきを注視する穂影である。

追記)無責任な勝手な妄想だが、草薙さんの心のストレスが、地デジ移行のCMのお仕事を通じて、広告代理店などCM受注を通じて、多額のリベートが例えば郵政関係の公職の人間に渡っていることを、たまたま知ってしまった、そんな正義感の葛藤だったらなぁーと妄想してしまう。仮に、そうでなくても、そんな気配を知っているなら、草薙さんが反省とは別に、逆襲してくれれば面白いと思ってしまうのである。あるいは、CMのギャラがもとをただせば税金であることの自責葛藤だったにしてしまうとかである。もっともファンとしては、そんな葛藤や悩みは吹き飛ばして、今後も良いお仕事を続けて、私たちに心の糧を与え続けて欲しいと思う。そんな正義感はジャーナリズムや司直の責務であって、我々ファンが草薙さんに求めているのは芸能人としての、感動や面白さを伝える力である。ストレスを乗り越えるように応援したい。

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2008年8月 2日 (土)

反射光:自殺のすすめ:甘やかされてきたやから

①これは、②SAGAさんの「自殺のすすめ」という記事を読んでの、私の触発の続きである。①と同様の私の先の記事、③「反射光:自殺のすすめ:社会の狂気とは?」に④SAGAさんにコメントして頂いたのだが、その返答になるかは判らない。判らないと言うのは、私にとってはそれはまだ難しいからでもある。良く考えたい問題でもある。

私が②に触発されたのは、そこにジャーナリズム、社会心理学のおえらい先生方の、「問題のすりかえ」への指摘を感じたからでもある。ここにフォーカスしてしまうことは、②の趣旨には、はずれては、いるかもしれない。

②では全く言及していないが、A:朝日新聞的と言っていいのか、社会心理学のおえらい先生方は、ワーキングプアとか非正社員制度、派遣社員制度とかの、「社会が悪い、社会を変えないと」に持って行こうとする傾向が目につく。あんな、とんでもない凶行に及んだ犯人はそんな可哀想な境遇にいたんだという感じである。昔は、そんな社会じゃなかった、だから今になって、あんな犯罪がおきるのだということになる。

これには、B:反論があるだろう。むしろ昔の方が、餓死を意識しなけらばないほどのワーキングプアが、多くの国民にとって身近な存在だった。そんな時代に、あんな犯罪はなかったという反論である。

今のワーキングプアは本当のワーキングプアではない、とかの議論にもなってくる。こんな議論をしていると、何か「小人閑居して不善を成す」という言葉も思い出してきてしまう。そんな、こんなで、うっかり、A:朝日新聞的とでも言うのか、社会心理学のおえらい先生方はの意見は「問題のすりかえ」ではないかと指摘しているうちに、すりかえ先の反発から、別の「問題のすりかえ」の論陣を張ってしまう穴に落ちる危険も感じる。

「物事の背景に正しく言及」するということは大切である。これが正しければ「問題のすりかえ」ではない。「問題のすりかえ」は基本的には、忌わしき悪徳である。Aへの反発から正しい「物事の背景に正しく言及」に行き着くこともあるかも知れない。B的に言えば「甘やかし体質こそ問題である、分相応に勤労に満足しないことそ問題である」なども正しい背景分析の候補ではあろう。

Aの相反としてBの論陣を仮定しているのだが、A、Bの共通点はある。すなわち昔だったらなかったという姿勢である。果たしてそうか?いつまでも、この疑問を抱いていると、A,B双方から文句を言われかねない。

昔だってあったという説明に成功しつつ、AやBを否定しないことも可能かも知れない。なるほど、昔もAが指摘するような背景があって、悲惨なことがおきていた。なるほど、昔もBが指摘するような背景があって、悲惨なことがおきていたなどである。

絶対とは言わないが、比較的相反しているA、Bについて上のようなことが同時に言えてしまうと、もともとAもBも、論考の対象となっていたことの背景としては、あまり関係がないということにもなってしまうのである。

④で「旗本侍の横暴とかもちゃんとした動機がある暴力です」という意見も頂いて、動機の問題は重大として残るものの、一部の旗本侍は、町人、農民と較べて、甘やかされていたから、昔からこうしたやからは、現代からすれば、とんでもない凶行を平気でやっていたという論考もありえるのである。そして何故、現代は町人、農民の系譜から、こんな甘やかされた、やからが出てくるのかという問題にもなって来る。

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2008年8月 1日 (金)

反射光:自殺のすすめ:社会の狂気とは?

SAGAさんが、「自殺のすすめ」というのを書いています。読んでいて自殺以外の点で思ったことがあるので、つらつらと書いてみます。自殺については機会があれば、自分の考えをまとめてみたい。

ジャーナリズムの歴史というのは良く判らない。風評というのも世論を形成するものと1つと考えれば、ジャーナリズムというのは、江戸時代以前にも、それなりにあったという言い方もできるのかも知れない。

起源はともかくとして、将来的にも、ある意味、ジャーナリズムは、いい加減な面もあると言わざるを得ないような気もする。ジャーナリズムの宿命、普遍性の一成分と言ってもよい。

「ジャーナリズムは死んだ」なんて言い方も聞くけど、そんなもの、はじめから生き死に言うほどのものではない気もする。

職業的学識者というのも、ジャーナリズムの協力者、その一部であることも多々あるような気がする。変な犯罪があると、社会が悪い、社会を変えないと発言するような社会心理学のおえらい先生とかがそうである。日頃の勉強・研究がジャーナリズム同様のいい加減さでもある。

ジャーナリズムなんて、所詮エンタメなんだから、いてもいいし頑張ってもいいのかとも思う、同様に、そんな社会心理学のおえらい先生もいていいのかもしれない。

そもそも、昔と較べて世の中が変だという、ジャーナリズムお得意の、判断、思い込みが怪しい。

私がそう思うのは、「統計という名のウソ」「データの罠 世論はこうしてつくられる」「その数学が戦略を決める」と言った本を好んで読むせいでもあろう。ニュース便乗型の学識者の言動は、ジャーナリスト同様、あまり信じられない点は多々ありそうだ。

社会が悪い、社会を変えないという点から言うと、制度設計、教育、モラルとかの他に、人種改良・品種改良というのも視野に入れざるを得ない。

やっていいかは別として、私は日本人の平均身長を伸ばすとか、平均百メートル走のタイムを短くするとかの、人種改良はできると思う。繁殖、生殖行為を自由にさせないことで、ある程度時間をかければ可能である。

ただ、日本人の頭を良くするという人種改良は、とても難しいだろう。まず頭が良いという定義・定量が困難である。それと、例えて言えば、身長とか百メートル走とかは、より脳幹に近い部分のことで、DNA的にも安定していて、品種改良しやすいのだが、頭の良さ的な大脳皮質よりのことは、偶発的、不安定で品種改良しにくいんじゃないかと想像される。

サラブレットって、人間によくなつくし、従順だから、一見賢そうだが、はたして馬なりの知能が高いといえるのだろうか。野生に離たれて、生活判断力がなくて死んでしまうのなら、野生馬より知能が低いとも言える。

たぶん、大脳皮質よりのことは、自然界(神?)は、進化・品種改良的に興味・関心の埒外かと思う。きわめて付帯的なことだ。自然界(神?)から見れば身長1cmの違いは非常に大きいが、東大に入れるかどうか、ノーベルー賞がとれるかどうかの頭の良し悪しの違いなど、誤差ほどにも興味がないことで、その発現のゆらぎを抑えたいほどのことでもない。紙一重とは良くいったものである。

現在、世界で体格や肌の色など、人種での差は大きい。でも先天的な大脳皮質的な頭の出来の差はほとんどないと思う。そんなもの、差というほどのものではないのだ。

人為的な品種改良の最大の問題点。DNAの多様性を枯渇させることの問題点。人工的に品種改良された人種は滅亡する確率が高い。変な病気がはやると一発で滅びる。生き残れる例外がいないのだ。

大脳皮質などの活動の活性は、個体のDNAでの伝承を期待しても、あまり意味はない。それは文字や文化などで伝承されるべきものだろう。ミームである。この点、DNAに期待されるのは将来の発現のゆらぎである。

私はまだ実存が好きだしこだわりがある。自分の実存をミームに託して継承して欲しい。大々的に知らしめなくても良い。スモールワールドで継承するだけでも良い。たいそうな実存でなくても良い。きっとそれには意味があるのだ。甥っ子、姪っ子の子孫、友達の娘、息子の子孫に、影響を及ぼすことだってあるのだ。ネット上のゴーストとして継承され、どこかの時空で再結晶、再結像化されるのだ。実用的に社会に役に立っているかどうかだけで判断した実存なんて、つまらない。伝承して未来の勇気につながる実存であって欲しい。苦しみのない未来なんて、ありえない。

狂気、狂気と騒ぐが、昔はなかったという根拠は一体、何なのか? 東大出身の医学部の教授が、エイズ菌、B型肝炎菌をばらまく。自分は権威のソファーにふんぞりかえって、多くの人間が病苦でのたうちまわるの想像して楽しんでいたのだ。歴代の米国の大統領、日本の総理大臣にも、これに似たりよったりの者がいたとも想像される。

日本には戦国武将英雄のファンも多い。戦争という殺人の狂気は強いて言わないとしても、戦国武将英雄の中に悪趣味の狂気を持っていた人間がいなかったと言い切れるのか? 行政の治世の為の弾圧とは別に、町娘、農家の娘を、猟奇的に虐待して、娯楽として楽しんでいた奴がいなかったと言い切れるのか。武士が辻きり、お手打ちを楽しんでいなかったと言い切れるのか?

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2008年1月20日 (日)

飽食の角界・偽装品格

朝青龍 内館牧子 女禁制 の続きになる。

TVでヒールというのを論じていた。朝青龍や沢尻エリカさんをヒールにして、賑わいをつくり、金儲けなんかしている風潮への批判でもある。

私は、朝青龍に相撲をとらせてやってんだから、相撲の偽装品格に頭をたれろと言う角界のあの態度、横綱審議会のあの態度、納得いかない。朝青龍がはいそうですかとしたらモンゴル人から見たら朝青龍は売国奴になってしまう。

日本人の札束で相手の頬を打つような、あの態度、なんらかの反省はないものだろうか?

角界の関係者、かつては現役の人も少なくないはないが、今現在、飯を食わせてもらっているのは、実際に相撲をとっている朝青龍ら現役力士のおかげであろう。

1年を3日で暮らすいい男だったはずの力士達を、地方巡業、ファンサービスとこき使って伝統や品格を無視しているのは、一体どこの誰れなんだ。

戦後まもないまでの、昔の日本は、腹いっぱい食えることが当たり前ではなかった、今のモンゴルには、そのころの日本のようなマンホールチルドレンが大勢いる。朝青龍はそれを良くしっている、相撲ドリームを勝ち取ったモンゴルの英雄である。今の角界の役員は、相撲部屋に入って腹いっぱい食えることの有り難さをどの程度知っているというのか。品格というのを反省すべきは角界の方である。

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2007年4月25日 (水)

廃棄物処理の暗闇と暴力

25日朝日朝刊。長崎市長銃撃の惨事を受けての、栃木鹿沼市の環境対策本部職員廃棄物処理をめぐって、逆恨みした処理業者の依頼を受けた暴力団によって殺された事件の反省記事である。

地球温暖化、京都議定書などを受けて、省エネ、温暖化ガス排出抑制が脚光を浴びている様相がある。度が過ぎてお祭り気分かとすら思ってしまう。必ず、無責任な商機狙いの便乗、バラマキ行政につながるだろう。

しかし、今の日本にとっては、廃棄物処理問題も大きな課題なのだ。これを闇の世界にゆだねてきた行政と産業界に猛省が求められる。犠牲となった少佐守さんは、行政と産業界に殺されたようなものでもある。

地方分権論議がさかんである。しかし、このような廃棄物処理問題を地方行政に丸投げするには無理があるように思う。国が十分に警察力と協力して、闇と闘う必要がある。産業界も資金的にこれを十分に支援する必要があるだろう。そうでなければ第二第三の少佐守さんのような犠牲が生まれてしまうか、日本の国土が産廃に犯され腐り果ててしまうかだろう。

朝日新聞が暴力にひるまず勇気を持って、こうした問題を追及・告発していくなら、惜しみないエールと尊敬を送りたい。

それ以上に環境行政と警察力が活躍してくれるなら、これも賞賛すべきだろう

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2007年4月24日 (火)

弔い合戦選挙軽率は反美徳なり

24日読売朝刊。長崎市長選で、亡くなれた前市長の名前を書いた大量の無効票が出たとの記事。

弔い合戦的な人情に左右されない、冷静な投票行動も評価されてしかるべきだとは思う。一方で、ただただ暴力・テロへの反感で、投票することも悪いことではないだろう。しかし、その意志も、考えが足りない無知では意味はない。軽率は反美徳なんだろうと思う。無効票を出した人達は大いに恥じ反省すべきだろう。注意を促さない候補者もまた軽率ではある。

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2007年4月22日 (日)

従軍慰安婦問題。必要な共通の価値観とは何か

22日朝日朝刊従軍慰安婦問題に関する安部首相の立場の分析。若宮朝日新聞論説主幹とカーティス日本政治学コロンビア大学教授の対談。

少なくない日本人が受け入れやすい見解としては、若宮氏の

米国が反共の為に、民主化の徹底より、過去のけじめをあいまいにして、戦後、継続的に日本との同盟関係強化を重視した。それが今日の安部首相にも継続されているということだ。

加えていえば、これはどちらかというと朝日新聞より読売新聞等が鋭く批判する傾向があると思うのだが、やはり米国は終戦の日本を発展途上国として見下していて、自分達のような高尚な民主主義、自由経済は無理で、変な話だが、反共の米国管理の官僚社会主義を日本にとらせたということである。現在の韓国にも似たようなところがあるのではないかと思える。

日本の官僚の中には、昔から身の程知らずで、この米国支配を嫌う、右翼勢力が、小さくない力を持っているようにも思える。ただ、生かすも殺すも米国次第だという現実も知らないわけではない。この屈折した心情中国につけ込まれる訳である。それでチャイナスクールというものが存在する。日本財界は、これに近いことに比例して、守銭奴、売国奴的であるとも言える。中国は自由経済にも傾いており、ある意味、日本型官僚社会主義はうらやましい、ちょうど良いお手本なのかもしれない。日本官僚はここに身の程知らずのうぬぼれがあるのだろう。この官僚に従っている限り、日本国民がより幸せになれるポテンシャルは中国とともに、米国からは遠いだろう。

朝日新聞の論調は、このチャイナスクール的官僚に近い傾向があるようだ。反米、親中という点で左翼的だが、同時に右翼的でもあるのだ。そして日本財界的でもある。一種の東大妄想系なのかも知れない。朝日新聞の中の、自分はバリバリの左翼として活躍しているなどと自負している人間がいたとしたら、おめでたい、知らずに手のひらで踊っている、しょうもない小物という気もしてしまう。知っていて左翼ぶっているのなら、最低の言論人である。

米国の共和党は、日本が米国流の幸福を追求するのを放棄して、中国に下ることに危機感を持っているのだが、米国民主党共和党との独自性重視の為にこれに無頓着である。米国民主党は中国との関係懐柔で自国利益に一息つけたいと狙っているが、それは日本を見捨てる、日本はしょせん有色人種なのだから、中国程度の幸福で我慢しろということなのだ。これはSAGAさんが看破していることでもありそうだ。しかし米国民主党は愚かである。中国に手玉にとられる可能性が高い。ただし、いつかは気付くであろう。これが米国のポピュリズムの欠点ではあるのだ。

日本はより高い幸福を目指すなら、米国民と価値観を共有することが現実的、良策であろう。米国民が民主党を選ぶなそれなりに、共和党を選ぶならそれなりにである。

SAGAさんが指摘するように、その意味では安部首相は、日本人の為に良くやっているとも言えよう。米国が、改革を恐れる日本官僚社会主義の官僚と、それに操縦される議員や財界は危険だと判断したら、その官僚体制を解体する必要がある。言いかえれば、米国民が受け入れ難い国体をもつ中国がそれだけ台頭してきたということである。

このような観点からも、朝日新聞の従軍慰安婦問題の論調を読みとく必要があるかも知れない。

中国は中国なりに、韓国は韓国になりに、政府は国民の水準に合わせてガキ的である必要もあろう。それはお互いさまであって、日本も米国も一緒である。

国家が天使の集合体であることは、ありえないのだから、大人として、うまくやっていくしか、平和は維持できないだろう。しかし、国の発展段階に応じた国情において、望ましくない、残しておきたくない、許せない存在というのは、国民の為にも厳としてあると思う。

朝日新聞も他紙との独自性とも言っていられない。社内で排除すべきものは排除するべきである。例えば、他紙に較べてエセ同和勢力に毅然としていられない体質など抱えていないだろうか?

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児童虐待防止法

22日朝日朝刊社説。超党派の議員でまとめた児童虐待防止法

相談所が素早く動いて子供を救うには、職員を増やし専門性を高める必要があると指摘している。記事の題名は「自治体の責任が重くなる」である。

人材の充実に異論はない。しかしお役所のマンパーワーと言うのは、縁故とかで入所して、朝からのんびり新聞などを読んでいて、働らかないことも多い。国の管理・監視の必要性もある。

金のかけ方という面では、ハコモノなんかより、このような方面が重要ではある。職員の充実には庁舎の拡充が必要だとかになりがちである。しかし実働部隊にはデスクはいらないはずである。在宅のIT技術を活用すべきであろう。報告や状況把握のデスクワークは県庁でも霞ヶ関でもできるはずである。実働職員は地元が望ましいが、質に問題があれば、中央が干渉したり、人材をあっせんすることも必要ではないかと思う。警察OBなんかにも協力してもらうのはどうだろうか? その意味では警察や税務署等は他官庁にくらべて採用にゆとりがあっても良いように思える。比較的OBが頼りになるポテンシャルが高いからである。マル防など刑事経験者は心強い。

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2007年4月16日 (月)

学力テストとか

うろ覚がえだが、最近でもときどき、中高などで全国学力テスト県内学力テスト実施の是非なんか新聞記事になるようだ。

私は受験で、大学入試では浪人したこともあって予備校にはいったが、基本的には塾とかの世話にはならなかった。ただ、大学受験はもちろんのこと中学受験、高校受験では模試というのは活用した。中高に関してはそれで公立で良いやという結論にした。経済的には無理すれば私立一貫校にいけたようだったが、大学受験を経験した方が自分の為になると判断したし、同時に当時の灘・開成なんてのは、とても自分の世界ではないとも実感した。目指したら自分が壊れると思った。まちがいなくこれは正解だったと思う。私はそれで壊れた人間を身近に少なからず知っている。こういう判断ができるのも、世に模試というのがあって、それを活用できる見込みがあったからこそだったと思う。

私はたとえ中学生であっても、親に言われるまでもく、自分の学力の位置づけを知りたいというのは、ある程度、当然のことだと思う。人生というほど大げさなものではないが、中学生でもそれなりの、その時なりの自身の戦略というのはあってしかるべきだと思う。自分のことは親でも教師でもなく、自身が知るべきなのである。私は親や教師への情報ではなく、私自身が知りたいから模試とかに向かった。そうであるべきだと思う。自分は例えば1日2時間、4時間、独学したらどこまでの水準なるとか知ることは大切だと思う。それは適性を知ることなのだ。小難しい小説を読むとか、アインシュタインの仕事を知るのは大学生になってからでいいやといわずに、今読まずいられない中学生とかでも、それでも押さえておきたい情報はあるべきなのである。そのためには、とりあえずこの辺で手をうっておくという自分なりの規定学力ポジションの把握・維持、自分のなりの適切な規定学業の手抜きどころを常に正確に押さえておく必要があるのだ。そうしたクールさのない、がむしゃらになんでもかんでも勉強しなくちゃではダメなのである。豊かな精神生活を送るための生涯の適切な戦略を持ちたい。

模試だって、塾や予備校に行くほどじゃないしても、金はかかる。生活に困っている家庭だとその出費が出せないかも知れない。各人の母校というのは学力にバラツキがあって、学内の成績だけでは戦略がたてられないのが現実である。学業に良い資質があるのに、その子が不利になるのは日本にとって、小さくない損失だと思う。

位置づけなど気にせず、行きたい学校にいけば良いじゃないか、受けたい学校を受ければ良いじゃないかというのは無責任だと思う。自分なりにどこまで努力すれば、とりあえずどこに落ち着けそうかというのは大切な情報である、正確でなくてはならない。その戦略にもとづいて、彼女彼氏とデートしていられるか、クラブ活動をいつごろ引退するかとかを決めなけらばならない。デートもクラブ活動も大切なのである。小・中・高とそれぞれに人生に1回きりしかない大切な時期なのである。後で体験し直せるようなものではないのだ。中学でアインシュタインの世界を知ったというのは、後では体験できないのだ。それは大人になって知ったということでしかない。各人にあった合理的な過ごし方をしなけらばならない。必要に応じて頑張る、必要以上に頑張らない戦略が必要である。学業・学問というのは人生の後半に向かってこそ頑張りを強化すべきものなのだから。

学力テスト等に関して学校関係者は、まったく、生徒の立場を考えていないように感じるとき、強い憤りを感じるのである。正直、担任教師の中途半端な分析より、業者が中央ではじいたコンピュータの分析結果の方が大切である。

はっきりいって、学生にとって現実、必要なのは学力模試ではなくて、実質、入試模試である。家庭の経済事情で、情報戦に不公平があるのは、どんな素質・資質にどんな学業環境を与えるかということにおいて、日本の競争力強化上喜ばしいことではないのだ。

施設(昔なら孤児院)にいるような子でも、あるいはどんな辺境で育った子でも、入試模試等の成績が抜群なら、私に将来経済余力があるなら、支援したいと思うのである。必ずしも努力自体を評価するのではない。あくまでも持続性のある良い結果を生む可能性を評価するのだ。能力のゆとりと言っても良いかもしれない。無論、生涯を通じて、ここでやめるとか言わない努力持続力の資質も買いである。ただ人生の初期に極端な無理があった者は投資対象として私は疑問である。そう正確に言うなら支援というより投資である。正確な情報は大切だし、それは機会(チャンス)でもあるのだ。こうした子達にも積極的に参加してもらって、難関校をより難関校にすること、必ずしも将来の日本にとってマイナスになるわけではないと思う。

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2007年4月15日 (日)

全国学習塾協会の講師資格制度

4月15日の朝日朝刊の小さな記事。全国学習塾協会で塾講師の能力検定制度を実施するそうな。

私は、協会の制度で、官製資格でないので、良いかなとも思った。

官製資格というのは、その資格者が提供するサービスを享受するものの利益を忘れて、省益に走り、利用者不在で、すぐに、ミスマッチな制度を放置して世の中に、無責任な迷惑をかけるからである。制度の為の制度にしかならいからである。制度維持者、得体のしれない時代ミスマッチの試験官らの怠惰な都合の制度にしかならないからだ。

前にも言ったが、コンピュータ関係でも、官製資格の存在意義は、はなはなだ疑問である。マイクロソフト社、Java関係などでもサン・マイクロ社、IBM系のベンダー系資格じゃないと意味がないように思う。そもそもプログラマー系などは資格などに頼らなくても、その力量を示すのは歴然と判りやすい。

官製資格などは、いい加減な経営者がクライアントからボッタクルぐらいの目的としか思えない。

同様に建築士制度も、現状では、日本の建築の品質向上、世界の手本になるような志向とはほど遠いと思われる。

ただ、この塾教師の業界資格、塾生や保護者に対する振る舞い方や、身だしなみ、などを学ばさすそうな。

塾に子供を行かせたいという思う親は、心の中では、その成果で、あわよくば、その子を東大や慶応なんかに行かせたいと、思っていることも、少なくないかと想像する。

そのような可能性のある子供に対しては、そのような成功体験がある講師の方が良さそうに思うのは、自然でもある。いきおい東大や慶応の学生や卒業生の講師賃金の相場が相対的に高くなる。

 もっとも東大や慶応で高度な勉強ができるような学生が、入学するに独学でなくて、塾や家庭教師のせわになったからというのは、疑問ではある。受験するに、戦略的に自分の位置づけを知るに全国模試等を受けるのは、当然と言えば当然ではあるが。その結果をフィードバックして、自らの独学方針を立てられてこそ、東大や慶応で学ぶ資質にふさわしいと考えるのが自然かと思う。社会に出ても、期待されるのは、たぶんに、この能力の延長上かと思う。そして少ない労力でそれを成しえたからこそ、使える人間ということになるのも、事実なのである。実社会で無理をすれば、過労死になるだけである。官庁というのは、過労死を防ぐ、鉄の相互扶助体制があるようだ。だからあの連中は、あの時にしか努力しないのである。天下りで、こうした人材を押し付けられる民間はたまったものではない。それを補う社会のムダな代償は小さくはない。

学習塾業界も少子化で、今後経営も厳しくなるだろう。労働賃金相場を低く抑えたいところである。何か父兄にとって、生徒達にとって、詐欺的な事情も、うかがってしまう、この制度かなと思ってしまうのである。

いくら安くても、ムダなこと、まして全国学習塾協会などにだまされて、高値でつかむのは、消費者が気の毒でもあり、日本の貴重な労働力配分上も、国際競争力を損なうと危惧する。

日本の就学受験生を持つ親などに、忠告しておきたい気がする。

そう言えば、私が敬愛してやまない、女優、菅野美穂さんは、高校後の進路に関することで、恩人として、世話になった塾の先生だかを紹介されたことがあったように思う。こうした、全国学習塾協会等の都合とは、遠い話だと思うのである。

運が良ければ、学校や大手塾から正しくスピンアウトしたような人が、教壇に立っているような塾で、思いがけない出会いがあるかも知れない。ただ結局は、その子次第でしかないとも思うのである。

我々が、本当に必要としているのは、正しく「世界を変えられる」制度なのである。真に必要な制度というのは、全くもって、多くはないのであろう。

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2007年3月21日 (水)

母と私の従軍慰安婦問題意識

先日、1925年(大正14年)生まれ81歳で、意気盛んな母の従軍慰安婦問題の感想を聞く機会があった。

私は、昔から照れくさいから、母とは生活上以外の話題は話し合ったことはない、だから、人様に恥ずかしいとかの、しつけ、礼儀作法は別としても、政治、宗教、思想上の影響をお互いに受けたりはしていないと思う。

母は、信頼にたる知人からの加害者側の告白を聞いていておおむね、日本軍の従軍慰安婦的な問題はあったと確信している。ただそれは日本の兵士の特質ではないと断言している。世界中、男なんて、兵士なんて、昔から、そんなもんだとキッパリ断言している。だから、そういうことを無視する朝日新聞の論調も批判しているし、読売新聞でさえ核心にはせまらないと言っていた。米国に、中国に韓国に、それを無視して、日本人だけ色きちがい、凶暴な民族と言わせて平気なのはおかしいと言っている。動物というのは、セックスしたがるものだ。アダムとイブが楽園を追われたことに象徴されるように、とりわけ人間のオスは、動物界の中でも、固体差が小さい、あまねく際立った異常性癖の動物である。

これが、極右、極左でない限り大多数の日本人の意見なんじゃないかと思う。どういう事情か、新聞とかマスメディアは、こうした誰でも知っている意見をうまく、すくい上げられない構造になっている。

どこの国でも、軍隊を持っている以上、兵士をもっている以上、国民がひたかくしにしている真実である。潔癖な男だけで、命がけになる兵士など、まともな数で集められるわけはないのである。使い捨ての兵士、軍人から前線になるのである。戦争を起こすということは、男、オスの持っている、凶暴性を敵地で開放する機会を増やすことであることを避けることはできないのだ。性的なことは、別にしてなんてナンセンスである。

特段、高尚な学問を修めたわけでもない、私の母達は、これを良く知っているのである。

自分の息子、だんなに、戦時下で愛のないセックスするなと願うなら、勝てそうになる戦争を起こさないことしかない。(兵士は別としても、一時的にせよ勝てそうに思えることになりそうもない戦争を起こす為政者はありうる)防戦一方の聖戦というのはあるかもしれないが。しかし防戦に成功した国が返す刀で敵地に入れば同じである。敵に女兵士がいれば犯さない管理は難しい。

でも、平和時に自国の政治家が、他国に、あんたの国の兵士もそうなんだよと、当たり前の事を言っても始まらない他国が一方的に、お前の国だけがそうだと、ふざけた、いいがかりを言っても、馬耳東風無視するしかない。

人間の醜さを直視したら、まっとうな人間なら、世界で言い伝えられて来た戦争というものの最低限の歴史教養があるのなら、それは必ず国民、兵士の厭戦感に育つ。そういう事実があるから、真に人間個体としての当事者以外が、具体的には、真に犯されたものが、真に犯した人間を責め詫びさせる以外の、ごく限られた特定の国の戦時歴史を特定するのみで、観念的に、あわびとか遺憾とかに、させるさせないで、かかわる第三者の言動は、吐き気がする。こうした母達の感覚は極めて正常な感覚だと思う。

例えば、朝日新聞の記者だって、きっと、このような感覚はあると思う。韓国や中国の記者だってである。ただ、現場の技術者がなんとかしたいと思っても、公害を垂れ流し続ける工場があるように、朝日新聞等もあのような論調を書き続けていた。

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2007年1月28日 (日)

男よ、すべからく、誇り高きリア王たれ。老いて荒野に死せ

1月28日朝日朝刊少子化対策の記事。安部首相は施政方針演説で対策の重要性を訴えた。税収や労働力に跳ね返る考えだ。児童手当、育児協業給付など中心から転換する。仕事と生活の調和ワーク・ライフ・バランスを重視。地域と社会を挙げて取り組む。地域・家族の再生、点検・評価など議論。子育てしながらの労働環境づくりを提唱、若者の自立支援策を示す。母子家庭を地域で支える。これまでは総花的で社会のグランドデザインがなっかたとの批判がある。会議を新設する。

私は、「税収や労働力に跳ね返る」というのが、本音と言えば本音だが、これが嫌いである。この思いが少子化の元凶であることも知らなければならない。また少子化をダシにする商売も、元凶の1つであることも知るべきだ。

子育てのモチベーションを回帰に求めているだけはダメだと思う。日本は先進国として、少子化という発展段階にあるんだという仮説の検証も必要である。少子化を防ぐだけが対応ではない

親も子供も、現在も未来も楽しく、考えられる社会とはどんな姿か、これを探求すべきだろう。子育ての楽しさとは何か、老後を子供にみとってもらうことなのか、家族がいて寂しくないことなのか。ちがうだろう、子育てから開放された自立の楽しみもある。娘から育児押し付けられないで、無責任に孫の可愛い顔を見るだけの、おいしいところだけで、老後を自由に遊んで暮らす楽しみもあるべきだ。子離れ、孫離れ、親ばなれ推進にも、解決策のポテンシャルはある。このポテンシャルを無視するから、子育てが憂鬱になるのではないか。

子供がいると、あんな目にあう、子供がいてもあんなだ。昔の人はそれをがまんしていた。昔に戻ろう。これが大変おかしいのである。昔に戻ると得なのは主として男である。政治家、識者はこれが判っていないんだと思う。これが子供にとっても憂鬱なのである。女は母は本能的にこれを知っているはずなのである。そして、子供の憂鬱を癒してくれるのも、また女性、母でしかない

育児、家事をする進歩的な男性だって、育てた子供が老後の自分を寂しがらせないと思ってる打算があるなら、決して進歩的ではない。

昔から、正しい女性は、子供に対してそんな打算はない。大きくなったら自由に羽ばたいて欲しいと思っている。無償の愛である。こんな風になれなかった母は、家長である男に虐げられて、洗脳され頭がおかしくなっていただけである。本来の女性、母の持つ資質が、せこい男どもによって封殺されていたのである。男はまだ本質的にダメである。

だから、ジャーナリズム、識者の少子化論議はいつも滑稽なのである。女がそこに混じっていても、洗脳され女か、おとこ女なのである。

男よ、すべからく、誇り高きリア王たれ。老いて荒野に死せ

母の姿を、まぶたに、荒野を放浪せよ。ぬくもりをもとめるな。母子のぬくもりを守れ

子供に頼らない老後を還りみずに、子供に過剰投資するな。するなら、何も求めるな。結果が悲惨なら子供が孫を育てる憂鬱になる。子供は勝手に育つという実績を子供に見せろ。果実は子供のものである

子育で、搾取されるな

私が過去に書いていたこと 少子化

あと、「06年10月1日朝日朝刊から」でこんなことを

■働く女性多い県は出生率も高い 政府調査会

①出生率が高い自治体は仕事と子育てが両立しやすい環境

②出生率と女性の有業率に正の相関関係があることは国際比較でも確認

基本的に結果に疑問はない。でもだからどうなんだってのはある。

農業従事者、家業従事の主婦が有業率に含まれているかどうかが、不明確。

含まれているとしたら、子供ふやすなら、女性は都会でOLとかしないで、田舎で農家に行けとかになっちゃう。出生率は子沢山かどうかも係わるかな。田舎って女性、未婚でいること、肩身せまそう、みんな都会に行きたがるのでは? 田舎って子沢山プレッシャー大きいかな。男子産ませようとするから。

田舎で所帯持ってるのが、女性として勝ち組というのは、説得力ないよね。

いかに、都会で女性が仕事と子育てを両立しやすいかということこそ、大切なのかと思う。

何故、子育てが出来た方が良いのか。幸せにそれができなきゃ、子供も迷惑千番。お国の為、肩身の為なんて、とんでもない。子供と一緒にいて、ラブラブ・ハッピーであることこそ大切だよね。

たぶん、率じゃなくて、絶対数でも傾向はそうなんだとは思う。でも率だと極端になっちゃう。神奈川県、埼玉県なんかは、専業主婦率高いかもしれないけど、子供の絶対数は多いと想像する。専業主婦の子育て環境は重要でないというのもおかしい。神奈川県、埼玉県は所帯男性の所得が高いというのもあるかもね。

そもそも、人口減ってなにが悪いの? 日本の人口密度が豪州、並みになってから心配しはじめたっていいじゃないか。自分達の老後、子供たちにつけ送るなちゅうの。

自分(自分の息子、孫)をまつり上げてくれる若者の数が少なくなる、という心配だけをする、ロートルになるくらいなら、安楽死を選びたいものです。これからの若者には、そんなロートルになる考えを継承しないで済む、指導をしてあげたい。指導になる見本になりたい。これからの男は、とりまきなんかいなくても、一騎当千、拝一刀(子連れ狼)でなくちゃね。

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2007年1月27日 (土)

男こころ 「らしさ」

1月27日読売朝刊。このところ『男こころ 「らしさ」を超えて』といのを組んでいる。「らしさ」を超えてと言いながら「男」で始まるので重層的に変というか面白い。私は

男は、女子供の為にあれ。しかも社会的に。

女は子供、男の為にあれ。個体的にでも許す。

男は男の為にあってはならない。

何故か女は女の為にもあっていい。逆にそれを嫌っても良い。

らしさは、日々探求するもので、過去に規範を求めない。

つうか「らしさ」は、「自分らしさ」だけで良い。

今のところ、そんなところです。

女も男も子供も実存なのだ。アンアガジェマンなのだ。なんてね。

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2007年1月13日 (土)

逆境に人の真価あり

1月13日読売朝刊。半身不随の事故から復帰して、ドラマなどの活動を開始された21歳の柳浩太郎さんの談話。医師から一生寝たきりと宣告された。変わり果てた自分に絶望し自殺を考える。ままならぬリハビリに絶望するとき、ファンの手紙で、同情ではなくて思ってくれる人がいることを知る。気持ちは吹っ切れたが、元の夢に戻れないことに涙する。しかし大きな夢の前にうつうつとするより、小さな夢を一づつかなえていく方が達成感がある自分を好きになろうよと呼びかける。

自殺する、若者、子供達に呼びかける記事の1つなんだと思う。でも、そういう目的がなくても、こういう記事はありがたい。強者の生き方が、弱者の心に届くかは、正直わからない。しかし、私達のような凡人を勇気づけてくれることは確かだ

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2007年1月 8日 (月)

よく考えよう読売新聞、子供の徳目

1月8日読売朝刊。ドナルド・キーンさんの日本人観にちなんだ、日本人の道徳に関する記事の中。寺や神社にまで及ぶ落書き。  安部政権で教育の目標は個人尊重から公共の精神尊重へと転換された。教育再生会議担当室長ヤンキー先生こと義家弘介氏(35)は戦前の修身をアレンジした「子ども徳目」の義務教育導入を提唱している。

私は童心のころ、いじめはしなかったものの、相当なイタズラ好きな困ったガキだった。しかし、寺や神社にまで及ぶ落書きまではしなかった。何故だったと考えた。私の脳みそがまだ小さくて皺も少なかったころに、近くに寺、神社がなかったからかもしれないが、きっとそんなことしたら、誰か大人につかまって、母が呼び出され、母はきっと泣いて土下座させられると判っていたのだろう。その後、家で激しく叩かれたかもしれないが、それが恐かったのではない。母がそんな目にあうのは絶対にやだと言う、経験があったからだろう。当事、おきうるこうした事件は、学校や教師の範囲外であった。 学校で修身なんかあったとしても無意味であったと確信する。  問題は、ガキをとっ捕まえる大人と、土下座して謝る親がいないということだ。

振り込め詐欺や、悪徳リフォームなどに従事しているような親では、土下座して謝るなんてしそうもない。金融マン、官僚、政治家なんかやっている親もそうかもしてない。いや、全ての日本の親がそうなのか?

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2006年12月26日 (火)

昨今の教育関連新聞報道のていたらく

 「いじめ」や「自殺」も、新聞はだいぶ下火になってしまったように思う。しかし、本当に書き切ったのだろうか? 今ままで新聞が書いていたことで、読者は納得できただろうか。なにか違和感が残る。結局、朝日も読売も、極めて保守的でしかなかった。各方面に変に気を使うだけで、思考と言えるものはなかったと思う。役割を果たした言えそうな、執筆ではなかったと思う。

 いじめで苦しむ、子供達に、著名人が呼びかける形の連載。あんなものに、どれだけの価値があるのか。便乗で紙面を埋めるだけの手抜きではないのか。購読料を払うに十分とは言えなかったと思う。なにか全ての記事において、記者魂というのが感じられないのである。「新聞は、記者は死んだ」とも言いたくなる。

 いじめから、自殺。これは、ケース・バイ・ケースだと思う。

SAGAさんも、「いじめられている側の問題をなぜ指摘しないのか?」

という記事を書いていて、これも見過ごせない側面であろう。

[子供の頃に弱き心をそのまま放置しておく、弱いものをただ守るだけで強くしようとしない、そういう過保護な姿勢にあると思う。]

記者は子供を失った両親に気遣うあまり、この可能性の検定を放棄した。怠慢かと思う。

勿論、他のケースもある。私は仮説検定として、いじめ自殺を生む学級と、学級崩壊の関連も知りたかった。

ネットで"学級崩壊"を検索すると、今の新聞より情報の質は高い。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説も、今の新聞が扱うより水準は高いと思う。

何故、この仮説検定に興味があるかと言うと、私が子供のころにも、いじめはあったけど、学級崩壊というのは、なかったからである。自殺も、闇に葬られたものはあったかも知れないが、目だってなかったのは確かだ。我々が子供のころは、なかった、この2つを結びつける可能性を仮定することは自然でもある。記者の怠慢を感じる。

『ウィキペディア(Wikipedia)』でも、学級崩壊の記述の中に

近年「教師が自分の指導が通りにくい子を軽度発達障害児扱いしているのではないか」という説が一部に存在している。 しかしこういった説を唱える者は、学級崩壊といった今の教育現場を知らない、社会学などの学者である場合が多い 教育現場にいる者及び教育分野に取り組む医者の間では「軽度発達障害が学級崩壊の一つの要因になりうる」というのは一定の支持を受けている。

とある。今回も、新聞は「いじめ」「自殺」でもまた、社会学などの学者、あるいは社会学者風の教育関係者の意見などを多用するばかりで、この愚を再犯してたと思うし、反省が見られなかった記者が本当に自分の足で個別に十分にあたった痕跡はなかった。怠慢・無能である

『ウィキペディア(Wikipedia)』とか様々な見解や報告を、自分でネット調べないで、新聞ばかり読んでいると馬鹿になる。そんな気がする、昨今の教育関連の新聞報道であった。

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2006年11月 3日 (金)

反射光:必要なことだけ教えることの愚

SAGAさんが、高校の必修科目履修漏問題について、「必要なことだけ教えることの愚」という記事を掲載されています。

 学校関係者の「必要なことだけを教えればいい」という態度、完全に狂っていると思う。

そもそも学業、学問、知性、理性に「必要なことだけ」なんてものは存在しませんよね。

教育というのは、「いかに、必要なものを、少しでも多く、知ってもらうか」ということ。

校長や教師がこれに、背いたことを、絶対に許してはいけないと思う。

 履修してない生徒に甘い処置、仕方がないにしても、その代償は大きくとるべき。

例えば、もっと生徒に厳しい態度で臨めるのなら、関係校長らは、停職、降格、減俸、再教育で済んだところを、生徒の負担を軽くする為に、校長は懲戒免職の道を選ばざるを得なかったぐらいの結果は必要だと思う。私は、こうして、さらに将来を悲観して自殺する校長が出てきてもやむ無しだと思う。生徒達の方が、自分達のことを思ってくれた校長が懲戒免職では可哀相そうだから、100時間でも70時間でも補修履修しますという動きが出てくるなら、素晴らしいことでもある。

 私はというと、私がもし当事受験生だとして、たぶん、再履修負担減嘆願の犠牲になった校長に同情せんと思う。もともとが自分達の為にしてくれたとは思わん。学校の実績優先の自己保身動機の仕業としか思わない。たぶんそんな性格の学生だったと思う。

 そうでなければ、ただ甘い処理ですんだ結果を享受した、生徒達にとって、はなはなだ教育的でない結果を、教育関係者が教えただけのことになってしまう。こうして、得をした生徒も損?をした生徒も、「実社会をナメ、ますますズルガシコイ悪人になっていく」「社会を諦観し軽蔑し、良い子がグレ子になる」傾向を必ず助長すると思う。

 企業なんかも、問題高校の履歴のリストを持って、その高校出身の入社希望者が来たら、面接で、「君はどういう考えで、どうそれをあがなったか、当時の校長らをどう思うか」問うべきだろう。企業の経営陣は会社の宣伝の為にそれを表明し、次の経営陣にも、申し送るとした方が良い。

私、「06年10月1日朝日朝刊から

という記事の最後の方で、「教壇の授業は、あるていど遅れている子ベースが教育の基本です。そのかわり、秀才の子が授業中に、勉強の内職しているの、とがめるのは良くない。」と書いたのは、勉強が他のクラスメートより進んでいる生徒は、数学の授業で数学の内職をして良いという主張。補修履修で、違う大学受験科目の内職は許されない。世界史の補修授業で、大学院レベルの世界史の論文読んでいるのは許せる。

私、自分が受けた、教育制度で心が痛むことがある。当時、学区制度がある公立の志望高校に行くの、下町の中学でレベルが低かったので内申書が楽勝で、一発試験の点数あまり 必要なかったんです。高校入学して、山の手出身のクラスメートには、入試の自己採点結果は秘密でした(笑い)あの中学で文系の学力落ちてしまった(汗)。中学受験に失敗したけど、歴史、地理、生物の知識はあの時の受験勉強が基礎になってる気がする。大学受験は一浪したけど、結構沢山受験して、結果は友達から奇跡、フロックと言われたし、自分でもそう思う。ただ、今思うと、本気で受験勉強しなかった3年間は、なにものにも代えがたい時間だった。大学入試の一発試験の準備なんて、記憶力の悪い私には1年以上は長すぎたんです(笑い)。大学での感想。エレベータで来たやつら、学力、低い方に偏ってつくづくピンキリだと思った。

 高校での勉強、はやくから理系志望だったけど、歴史とか嫌いだったわけじゃない。中学のときからなんだけど、幾分意地もあって、歴史の中間、期末試験とか、年号とか覚えなかったし、たまたま知っていても、わざと年号の問題には解答しなかった。そんなゆとりもあった。

効率的すぎるのは、私も寂しい。酒飲んで、学生時代の話をするとき、「普段、読書とかしてないくせに、(遊び、部活に夢中、趣味に没頭)中間、期末試験がせまって、勉強しなきゃならないときに限って、何故か小説・新書・ブルーバックスとか読み始めちゃう」てな話題になって意気投合、それを聞いて「フン」なんて態度の秀才君とは、仲良くなれませんね(笑い)

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2006年4月 5日 (水)

反射光:低気圧がまた来る

SAGAさんが「安楽死機関」を提案されています。

洞察に大変興味があるのは、「回復の見込みがない病魔・老衰の苦痛から解放される権利」

「人間としての尊厳死」という、世間でも比較的、論議が認知されているところから数歩踏み込んだ、考え方を示されているところです。

私は、「回復の見込みがない病魔の苦痛から解放される権利」「人間としての尊厳死」については、正直、悩んでいますが、認めるべきだに近いと考えています。

SAGAさんも、基本的には、「回復の見込みがない病魔の苦痛から解放される権利」「人間としての尊厳死」を認めるべき、行使できるとのスタンスと察しますが、SAGAさんの踏み込んだ考え方は、むしろ、私の考え方の彼方にあることの、別の難しさに気づかせてもらえるものでもあると思いました。(今回まだ、結論できない)

>本当は、ゴキブリほどに生きる価値のない自分だとわかっていても、自殺となればどのような手段を選ぶとしても苦痛が先に思い浮かんで死にきれない。そうだこうだと悶々としているうちにおかしくなって暴れたくなる

私も、これに関しては、SAGAさんと同じく、遠い、遠いが何となく理解できる派でもある。

何か、小説のカフカの不条理、アランドロン主演の映画の不条理から学習できるかも知れない世界でもある。

たぶん、この議論を真剣に受け止める人間がいるとして(私もその一人であると考えてくださいね)もっとも多くの反論があるとすれば、1つには、結局、おかしくなって暴れたくなる素質を持った人間が、本当に「安楽死機関」があれば、それを利用するか、それに救いを求めるかという疑問になるでしょう。

仮に、そのような人間いたとして、「安楽死機関」(医療機関もその候補)がそれを受け入れることの是非という問題があります。受け入れ反対派への反論としては、「じゃあそいつの希望がかなえられるのは、そいつが殺人を犯して、死刑になるときだけかよ。誰か罪もない人間が犠牲になるまで、リスクを申告してきたやつの善意?を生かすすべはないのか」ということになります。

「そうだこうだと悶々としているうちにおかしくなって暴れたくなる」なる素質の人間が持つ、苦しみ、苦痛が、「回復の見込みがない病魔の苦痛から解放される権利」「人間としての尊厳死」に該当するような、苦しみ、苦痛であるかないかの判断が必要になるということでもあるのでしょう。

答えにはなっていませんが、私は、そのような「苦しみ」は、苦しみ自体に、かなり価値があるのだと思いたいところもあります。不治であるにしても、苦しみ甲斐のあることなんだと思いたいところがあります。本当に苦しんでいる方々とすれば、無責任にしか聞こえない意見なのかもしれませんが。

正直、日和見主義的ですが、個人的には暫定的ですが、現時点では私は少なくとも、なんとか「尊厳死」と「自殺幇助忌避」を同時に成立させる、考えを模索したいと考えています。ただし、これが達成できたとしても、「尊厳死」は基本的には本人の問題(周囲の問題としても大変、重要ですが)「(消極的含む)自殺幇助忌避」は基本的には周りの人間の(無責任の可能性を含めて)問題かなと予想しています。私の場合は「(消極的含む)自殺幇助忌避」に関しては、確信的に周りの人間の無責任を擁護する可能性が高くなります。ゆえに、少なくとも「積極的自殺幇助」が取り締まりの対象になるのは、民主主義的に多数意見(なら)(として)肯定ということになりそうです。(たとえ悪法、納得のいかない法でも、その時点では守る必要)

私はSAGAさんが「安楽死機関」を提案されていることは、私と同様に、現時点では、消極的も含めて「自殺幇助」には(やむなくの可能性も含めて)否定的であると考えています。

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2005年12月31日 (土)

肺ガンと地震

私はヘビースモーカーである。
科学的に考えて、自分の命を大切にするという意味では大変、愚かである
弱い、自殺願望があるのではないかと思う。

酒も結構飲む。まあタバコと違い自然に休間日を取れる体質ではあるのだが。
休間日をとれないで飲酒をする人も、弱い、自殺願望があるのではないかと思う。

私は飲酒運転に対しては、もともと人一倍、神経質なほうである。
転技量にうぬぼれはまったくないし、なにより自動車保険会社の免責事項になるのを恐れているからだ。

この辺の、ここ最近の世の中の科学知識の提供ぶりは、個人的には決して脅迫的ではないと思っている。
たぶん、自分の場合は、長生きできない理由としては、別の因子が強いだろうと
勝手に解釈して、満足快楽と心配を秤りにかけての結果、トレードオフとしてスモ-カーを選んでいるわけだ。
ただし、こんなクールな(つもりの)言い方でカッコつけても、内実は、私の心の欲望に負ける弱さ、逃げでしかない訳だ。

この辺の事情については、医学会等の発言と産業界の力関係は、ここ最近はおおむね良好ではないかと思う。
私が、喫煙のせいで肺ガンになったとしても、
公的に責任のある立場なのに私に間違ったことを教えた、そうした商売を放置したと文句を言えるようにはなっていない
つい最近までは、専売公社系や農林水産省系は、商売の邪魔になると、こういう啓蒙に逆らっていたわけである。

基本的に医学系の人々は、人の健康や人体の安全に対するプロである、
タバコ、酒を造り、販売する側の陣営は、そのことに関してはプロではありえないのだ。

たとえその医学者が愛煙家、酒好きであったとしても、プロとしての見解はそれに左右されてはならない。
プロとはそういうものである。ある意味、プロというのは、そのことに関しては慎重、臆病であるべきものなのである。

大地震で命を落としたり、怪我をすることの警告は、非常に難しい問題があると思う。
現代人は、家に住まないわけにはいかないから、喫煙のようには、自己責任で、トレードオフの判断は容易にできないわけである。
ただ、それを気にしすぎたくない、それを忘れて、日々楽しく過ごしたいという
誘惑が多くの人の心の中に、ありそうだとは思う。私も庭にテントで暮らしているわけじゃないので、そうなのである。
私も大地震がきたら、かなりヤバそうな環境で暮らしているのである。
私は、日本人の平均よりは、そして建築士なんかの平均よりは大地震がきたとき建造物に何が起きるかの、
想像力に、ある程度の自信があるのだが、
なかなか便利なところに、コストパフォーマンスの良い、利便性、快適性のある物件がないので、妥協しているのである。
例としては、直方体の12本の稜線に相当する部材がしっかりとしていて、それを平らな地面のごろんと置いたような
家屋が一番良いのだろうと思う。四角が構成要素でなくて三角形が構成要素だとなお良い。
全体の大きな稜線ががっちりとしていことが重要なのである。稜線から基礎、杭とか足のようなものが出て、
地面の上に立っているのはよろしくないのである。水平を保つためのアジャスタは必要かも知れないけど。

例えば、5千万円以上もする車を買って、まるまる、それに保険をかける人はなかなかいないと思う。
あるていどの修理代の足しになるぐらいの保険料を払いう人はいても。つうか、5千万円以上もする車なんて、普通の人は買わない。
ポンと、こんな車を買う人は、どこか、明日にでも事故を起こして大破しても、まっいいかという感覚がある人なんじゃないと思う。

心配しすぎる人は、夢を手に入れることが難しくなるのは事実だと思う。
見晴らしの良い、広いマンションに住みたいという夢を持っていても、
明日にでも、大地震がくると思って、躊躇している人は、いくら金を持っていても
その夢を達成することはできないのだ。
新しいマンションに家族で引っ越してくる喜びは、人生最大級の喜び、幸せであるかも知れない。
それを、日々労苦の生活の目標とすることは、なんら恥ずかしいことではないと思う。
それに水を差すようなことを言う人間は悪魔かも知れない

震度6の地震だって、もしかしたら東京には後200年たってもこないかも知れないのである。
震度5の地震だって、100年たってもこないかも知れないのである。
(きたときの性状も予想通りとは限らないが、後遺症も含めて想像以上にひどい確率も小さくはない)
こればかりは、せいぜい確率論的な話で、結果は神のみぞ知るである。
かもしれないは、個人の責任であって、国庫でそのリスクを特別に低減してもらうことは公平、公正上許されない
(将来、喫煙者は肺がん治療を保険医療では受けれなくなっても仕方がないかも知れない。その前に毒物・麻薬扱いして欲しい気もするが)

ただ私は断言する。マンションで、タバコの問題における医学者系のプロはいない
日本の建築士、構造エンジニア、国交省は、そのプロではない
プロであることを問われたことはない

米国映画の「ディープインパクト」を観た。
たかだか、直径4、5キロメータの隕石で、米国は世界は壊滅してしまうのだ。
地球の重力で遠方から加速され続ける運動エネルギーを考えれば
それを大地震のエネルギー>ハリケーン>水爆のエネルギーと比較するればそんなものかも知れない。

それほどの隕石じゃないものが、ニューヨクと東京の近くに落ちたことを比較すると
東京の方が被害は極小かもしれない。日本は地震国だから。
マンハッタンだったらビルの中にいた人間は、ほぼ全員即死に近いかもしれない。
危険確率と、欲望怠惰のトレードオフの問題である。

タバコに関しては、それまで、専売公社系や農林水産省系、財務省(税金)は悪の陣営にいたと言って良いだろうと思える。
ただし医学系も保険点数の稼ぎ方、医薬品認可等では悪の陣営にいると言って良いだろう。
善悪は相対的な問題である。

建築行政に関しても、ローンとかでマンションを購入した方々、
あるいはもしかしたら、試験料や資格受験産業に受講料を払った建築士らは被害者なのかも知れない。
悪の陣営は、国交省、建築学会、建築士会、資格受験産業界、建設不動産業界、住宅金融業界、一般金融業界であろう

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2005年12月29日 (木)

反射光・猫が見ている

SAGAさんが猫との付き合いについて触れています

私も、もう大分、昔のことになるが、深夜、たぶん20匹以上の猫の集会に出あったことがある。
その前に、劇団四季のミュージカル「キャッツ」を舞台で観ていたので
本当に猫の集会ってあるんだという驚きを交えた、感動を覚えた。
そのころは、比較的大規模な分譲マンションの一室に間借りしていて
駐車場に囲まれた玄関を出たすぐのところで、猫が集会をしていたのである。
まだ、畑なども残っているような地域ではあったが、その点に関しては、いくぶん
舞台「キャッツ」のような都会的な雰囲気でもあったのだ。

私は、数が数なので、ちょっと恐いとも思ったし、
何より、深夜なので、不用意に近づいて、猫達が騒ぐと近所迷惑かなとも思い
その集会を横目に、煙草を買う為に、ちょっと離れたコンビニに行こうとした。
すると、真っ白な毛足の短い美しい猫が、私に近づいて来て
歩く私の足の間を2、3回すり抜けてくれたのである。
突然でビックリして立ち止まると、ちょこんと座って、私を見上げてくれた。
抱き上げても良いのかなぁと、思っているうちに、立ち去ってしまったのである。
一生忘れない、私にとっては、ちょっと感動的な貴重な体験だった。

私が思うに、あの猫は集会に参加していた、どこかの飼い猫だったんだろう
仲間と集会しているうちに、あきて、ふと人恋しくなったのかもしれない。
そんな時に、たまたま、私が通りかかったのかも知れない。

これは、比較的最近なのだが、朝自転車で走っていると、
前方にやはり真っ白な毛足の短い猫が、たたずんでいて、よけてくれる気配がない。
その猫のそばで停車すると、ジーンズのすそに体をすり寄せてくれた。
首輪と鈴がついていた。きっとこの猫は、体がかゆくなったので、
ジーンズをはいた人間が通るの待っていたのかも知れない。
こういう猫は、人間にやたら触れらることが好きではないのだけれども
人間の方は、自分が触ってあげることを必ず喜ぶと信じて疑っていないに違いない。
ゆとりのある、売れっ子ホステスのような猫達である(笑)
美しい恋人と、一緒に生活するのは、家に猫ちゃん飼っているようなもんである(笑い)

昔、農家でたくさんネズミを獲る成績の良い猫は、
囲炉裏端であぐらをかく、家長のひざの上に鎮座して居心地よくすごす権利があったのだろう。

私は猫のいない街には住みたくない
それは稲作文化、魚食いである、日本人の私のDNAのせいなのかも知れない。
ネコを好きになれない人は、アクセクしすぎる文明病に犯されて過ぎているかも知れない。

私は地上で、命あるものに、結構、差別主義である。
人間>猫=犬>金魚>鯉>馬>牛>豚>羊>>>>野生動物
まあ、人間である私が人間は別格筆頭にあげるのは当然として
親しいのはやはり犬猫である、人間との付き合いの歴史が長い
馬もそうなんだが、いかせん、あまり日常的にはお付き合いがない。

もし天国なんかで、彼らが他の野生動物から蔑まれていたら、体を張って彼らを擁護したいと思っている。
人間にはその責任ちゅうもんがある。いまさら彼らへの愛情を薄くするような不義理は許されないのだ。
彼らは人間の為に、いくばくかの適応、進化を選んでくれた、選ばされてしまった。人間の大切な仲間なのである。

だから私は、イルカ、クジラや絶滅種の野生動物も嫌いではないし、大切にしたいと思っているが
それを、犬猫より大切だと思う人達、まして人間の中には、イルカ、クジラより劣る者がいるなんて
平気で考えてる人間を基本的には許さないのを信条としている。
私にとって、猫、犬、金魚、馬達を他の野生動物より愛することは、日本人を人類を愛することでもあるのだ。
それから、イルカ、クジラは犬や猫より頭が良いかも知れない、だからより殺すのがより可哀相だと思っている人に言いたい。
もしそうなら、その考え方は非常に恐ろしい、差別意識を生んでいることに気がつくべきだろう。

気立ての良い、犬、猫が少ない、国は衰退してもしかたがなし、衰退すべきだとすら思う。

菜食主義者、動物愛護主義者の方々の一部に想う。
もしかしたら人類は将来それなりの合理的理由で、牛、豚を育ててその肉を食うのをやめるかも知れない。
しかし生物というものが、地上でその数を増やそうとするのならば、
牛、豚がとらされた戦略は無駄骨だった
ことになるのだろうか。
牛、豚を解放することは、その命や繁殖への感謝の気持ちをなくすことでもあるように想う。
もし、牛、豚が地上から姿を消したら、人類はその姿を永遠に祀り敬って欲しいものだと想う。

私は、最近大変不思議に思うのだが、ディズニィーは何故、ミッキーであるねずみを愛したのだろか?
キャラとしてねずみを愛する文化というのは、大変、奇妙だと思うのである。
ちょっと、ディズニィーファンの方々に尋ねてみたい気もする。

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2005年12月18日 (日)

悪代官役人天国、無責任利権官製与信をぶっとばっせ1

私ね
悪代官役人天国、無責任利権官製与信をぶっとばっせ
というテーマでちょと考えていこうと思っているんだけど
そのことのきっかけは、耐震偽装問題から建築士制度問題。
でその他、いろんな国家資格的なもの、資格受験産業なんにも疑義を表明していく予定。
それぞれに共通、固有の変なところが一杯あると思うんですよ。誰の何の為にという点でも。

でも、これって大変、心苦しいとこがある。
というのは、世の中には、これらの習得を目指して頑張っている若者がたくさんいるってこと。
私は、その努力や夢は素晴らしいものだと思う。
ドラマの登場人物でも、そうしたことに向かって頑張るってのは、重要なアイテムだし。
(時々、シナオリオライターって・・・資格、日・・とか資格受験産業とかから袖の下もらってんじゃないかと疑ってしまう)
だからそれを傷つけるってのが目的なんじゃないということは表明しておきたい。
内容がなんであれ、ちょっと難しいハードルに挑戦するってのは良いことでもあるし。
それに、仕事で上司のご機嫌とか人間関係にわづらわされないで、客観的な評価が下される結果でもあるから
良い面も多いにある。

でも、プロの仕事の現場では、それに、こだわらされることが、
実質、仕事の品質の支障、誤魔化しになっていることもありそうなんですよね。
あと資格受験産業への補助金のバラまきになっている場合もあります。
これが全く世の中の役に立っていない。

介護事業を丁寧やっている人なんかは、実は有資格者って
介護対象者から評判が良くなくて、本当は雇いたくないんだけど
開業許可とかあって仕方なく雇っているという話も聞く。
一生懸命ヘルパーやって勉強する時間がない人をよそに
適当にやって、試験受かって、いつのまにか高い給料もらっている人がいるみたいな。
これって、所管官庁と教育機関の利権的でもある。国交省とともに悪名高き厚労省でしょ。
本来、事業者というのは、家庭じゃないから、所管官庁の査察とか受けなきゃいけないんだけど
有資格者の頭数そろえておくと、暗に査察手ごころ見たいのあるんじゃないかな。
だから、よからぬ介護事業者ほど、適当な有資格者ありがたがっちゃう。
この査察こそ、しっかりやってくれないと、介護心配ですよね。
所管官庁って、介護対象者やヘルパーさん達と仲良くなっても甘みがないから、
そういうことに興味ないんですよ。資格制度構築とかにやっき。
ただ、介護関係の資格の良さは、試験問題が全く役に立たないことを問うている訳じゃないとは言えるかな?
現場で経験的に得られること以上のことを、勉強して介護に生かそうとしている方々も、たくさんいると思うし。

その点、建築士ってのは、現代的にそうとうヒドイと思う。現場、時代のニーズとかけ離れている。
試験制度の為の試験って色彩が強そう。だって、T定規に鉛筆で製図試験ですよ。採点も何でやってんだか良くわからない。
しかもこれは、一応意匠?の能力を見ることになっていて、鉄筋とか鉄骨は書かなくていいんです。
(今どき、日本でそれを手書きするのもおかしいけど。)でも建築構造エンジニアもこの試験を受かる練習をしなくちゃならない。
でないとね、お前の設計部は建築士が少ないじゃないかって言われちゃうんですよ。
現代的に建築のプロに必要な知識って、最低限でもそれなりに高度だし、膨大な範囲になっちゃう。
でもね、たぶん、素人が建築士の試験問題見ると、大変だな~と思うかもしれないけど
最低70%ぐらい本質的に狭い範囲の過去問題の繰り返しだから、まる暗記的な準備で事足りるみたいです。
そうでないと、物凄く低い点数でしか合格者出せなくなっちゃうんです。世間にカッコがつかないんですよね。
そんな訳で、ちゃんとした建物をつくる、あるいは説明責任を果すという目的の為としては、
この試験制度に膨大なマンパワーと時間が無駄に浪費さてれいるんです。

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住人批難はやめよう。耐震偽装問題

2005年12月18日(日)読売朝刊に
耐震偽装問題で被害にあわれた住人の方々が
国庫負担(税金)、で救済を求めている?公的支援を求めていることで、誹謗中傷の標的にされていると報道されていた。
特にネットでそんなこと騒いでいるそうな。

こんなことをしている人間が、いるとするならば、即刻やめて欲しい。
批難されるべきのは、もっと大きな敵である。
ただ国庫をやたら毀損して欲しくないことは、私は国民としての健全な良識だと思う。
だって個人資産の形成に関わることなんだから。

まあ、当座の仮設住宅提供、賃貸住宅を世話する程度の行政救済ぐらいは仕方がないと思う。
あと、関係業者が怪しげな倒産手続きをしているが、債務回収は行政命令で凍結して欲しい気もする。
こうした企業に金を貸した金融機関も回収はあきらめて、少しでも被害者救済へ金銭を回して欲しいものである。
また、被害者へのローンも考慮して欲しいものだ。これなら国庫と関係はない。
こうしたことが、相次いで、経営がおかしくなる金融機関が出ても、もう国庫による救済はやめて欲しい。
かつてバブル崩壊で国が救済した金融機関の行員のその後の年収やボーナスの金額を聞くと頭にくる。
まだまだ給料削って特別に高い金利で国に金かえせ!!!

石投げてやるとは言わないけど、「子供、孫の代まで・・・」と念じたくはなる。
反省しないで、口惜しかったら行員になってみろと、高笑いしている関係者には、たぶんその念は通じるだろう。
この辺のことの、大新聞等の問題提起は、はなはなだ弱腰である。

一方で、徹底捜査には、大いに経費を惜しまないで欲しい。この件に限らず、違法建築全般。
ヤラズボッタクリ確認検査機関をである。民間に託す前だって徹底調査して欲しい。

分譲マンションでローン組むときのアドバイス。購入物件がどうゆう担保評価されているかに注目して下さい。
根掘り葉掘り聞いて、契約文書で虫眼鏡で確認して下さい。それと借用書というのは、売買されて一人歩きします。
取立ては契約した銀行とは限りません。住宅ローン(特にマンション)というのは無担保的であるほど、
有り難いものではなくて危険なものです。
でもこの興味、相談にのってくれる専門家は、日本には存在しないと思います。
このことに、マンション購入者が目覚めれば、直接損保会社の力を借りなくて済むかも知れないんですけどね。
担保評価の確認は今からでも遅くはないかも知れませんよ。

大被災して、国が金融機関援助してマンションローンチャラにしてたら、国がおかしくなる。
軍国警察国家にして国民封じ込めなきゃ暴動革命が起きちゃう。
ローンで買った人は、住めないマンションの残りのローンと、日頃バカにしてた賃貸住人の倍働いて、復興に参加するしかない。

うちは分譲マンションローンやってませんって銀行ないかな。そこに預金したい。
マンション販売が冷えこんじゃうの、日本にとって転ばぬ先の杖なんじゃないかしらん。
労働過疎のニッポン。そんなに集まって高いところに登ってどこにいく?
おじいちゃんおばあちゃんの残してくれた大地に根を降ろして暮らせばいいじゃない。
平らなところはいっぱい残ってるって。
IT駆使すれば、仙人が住むような所でも一流の稼ぎができるでしょ。

記事で社会学者の加藤さんは、戸締りが悪くて、泥棒に入られても、警察が税金を使って捜査して
それをとがめる国民はいないって言ってるとあるけど、
それとこれとは違う。我々は盗まれたものを税金で買って与えるなと言っているのである。
こんな、ことしたら、泥棒は少ない呵責で稼業にはげめるじゃないか。(笑い)
学者として加藤さんが怪しいのか、記事書いた人間の質が悪いのか?

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2005年10月23日 (日)

反射光「奇蹟系」映画は観たくない

菅野探偵事務所のSAGAさんのご感想
私も、そう思います。

あまり良い傾向でないなと思われるのは2つでしょうか。
1つは奇蹟系で良いのか
2つめは同じ夢でも過去ではなく未来に向かう夢を見せて欲しい
両方がどう融合しうるのかは、まだちょっと良く判りません。

私の場合、宣伝で、そんなお話だと思っているから
それらの作品、観てない弱みはあります。
「黄泉がえり」なんかがそうです。

「世界の中心で愛を叫ぶ」は連ドラなら、再放送でかなりのスキップ再生でおおよそは把握しました。
スキップ鑑賞だったということは、私の好きなタイプの物語でなかった見たいです。
勿論、原作にしろ、映画ドラマにしろ、これを良かった、感動したと言う方々がおかしいという気持ちはありません。
そんなには、私なりの解釈の「奇蹟系」という印象ではなかったです。

「奇蹟系」としてSAGAさんは連ドラ「雨と夢の後で」は揚げておられません。
観てらっしゃらないからかも知れないかとも思ったし、あるはこれはそうではないと思われたのかな?
私はこのドラマ、雨のお父さんが、事故で幽体離脱して娘のところに来たけど
いづれ、体に戻って、救出されるのではないかとも思って観ていました。
いづれにしても、「奇蹟系」としての批判としては、正直、微妙なところです。
ただ、「奥様は魔女」「ロッカーの花子さん」的エンタメとして面白かったし、
血の繋がりの有る無し、親子のきづな、未練の克服という意味でジーンとくるものはありました。
後向きの、過去振り返り系ではなかったと思います。
そういえば、私「居酒屋ゆうれい」が大好きなんですが、
不覚にも?(笑い)「雨と夢の後で」はジーンとくるものが多かったかな。

「いま会いにゆきます」も連ドラの方は、かなりのスキップ再生でおおよそは把握しました。
やはり、「雨と夢の後で」と同じ手法と感じましたが、
「奥様は魔女」「ロッカーの花子さん」的エンタメ性が感じられなかったので
穂影としては、大きな減点対象でした。
また、乗り越える為の過去振り返り手法が「奇蹟」系の印象とあいまって
凄く安直かなという印象が強かったです。
これに関しては、映画、連ドラとも、
菅野美穂さんのシンパであろう岡田恵和さんが、
原作を取り上げ、関わっているのを寂しく感じます。

亡き人の影が、枕元に立ち、何かの啓示を与える。
私はこれは、あっても良いと思う。
結局はそれも、本人の意志なんだけど、
自分の中以外のものから由来しているという体験感覚は
錯覚に過ぎないなんだとか
そんな風に考えることは、その人の勝手ではある。
一方で私は、こうことは、世界に漂う霊的なものリンクが
本当にあるからなんだと、思ってもいます。
潜在意識的な偶然に頼らず、つとめて意識的に、こうしたリンクに対する、
アンテナを働かせようというのは悪いことではないと思っています。
「すべてのことは~♪メッセーェ~ジ」なんてね(笑い)

>現実と未来への期待が薄く、昔を懐かしみあのころに戻りたいというような気持ちばかりが
確かに問題ですね。大人の志向がそればかりでは。社会傾向として恐いですね。
この間、たまたまアニメの「雪の女王」観てたら
お母さんに死なれてしまった、ちっちゃな女の子が、魔法?の力で、夢でお母さんに会っていました。
勿論?私はジーンときました(笑い)
これを、大人の身の上にして、いつまでも感動の種にしちゃいかんですね。
それじゃ、子供達を守る立場として子供達にあわせる顔がない。

                  毎度、とりとめもなく。

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2005年10月22日 (土)

反射散乱光 マイナスをエネルギーに! 

菅野探偵事務所のSAGAさんが、お体の変調に関してレポートされています。
まづ、おからだおだいじに、です。
SAGAさんのネガティブなシチュエーションにあってポジティブなご姿勢には励まさられます。

私自身は、不精で病院のお世話になることはめったにはありませんが
潜在的には少なくとも生活習慣病のオンパレードに近い身体になってしまっているようです。
わかっていながら、根源的なことを明らかにしようとしないで、問題に正面から向き合おうとしない
私のような人間は、世の中ものすごく多いんじゃないかと思う。

会社の健康診断程度で、深刻な傾向が指摘されれたときは、物凄い後悔の種だろうし
近い将来、そうなる確率はすごく高そうです。
そのときにしか、自分の体の限界、運命を思い知ることしかできないんでしょう。
自分の身体の見栄が良くないこと、運動神経もいまいち、脳細胞のパフォーマンスにも見るべきものがない
というのは、早くから自覚させられてはいましたが。
そのこととは、折り合いをつけて、何とかこの歳まで、この世に居座り続けているんですけどね。

創作活動って、体なんかのシチュエーションがなんらかの形で、結果の個性になってるって多いと思うんですよ。
そして、個性は創作活動の命ですよね。
なかでも、作家が身体の限界、運命とどう対峙していかという意識のあり方の影響は
作品が深くなるかどうかという意味でも大きいんじゃないかと思う。
SAGAさんの独白。我々にとって、リエゾンマンになっていただけるような気がする。
是非是非、頑張って下さい。私もいつかなんらかの形で、SAGAさんに続きたいです。

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2005年9月20日 (火)

穂影が思う「女王の教室」最終話

「女王の教室」最終話と先回を観ました。
その他は、当初、真矢の悪魔ぶりではなくて
子供達の一部が悪魔になっちゃうのを観るのがつらくて鑑賞を放棄していました。

最終回では、私の考えとは違った形で、おおむね救いはありました。
私は、真矢が悪魔のまんま、生徒達にボコボコされてまうということを期待していたので
そこは、脚本の遊川さんに一本取られたのかもしれません。

良いドラマだった感動できたとの意見も多いようです。
そういう意見を持つことも、そういう評価を得ることができることも素晴らしいことだと思います。
批判するくらいなら、黙して語らず、他に自分で良い作品だと思ったものに言及する方が有意義です。
感動できたことから得たものの方が有意義だし、それにケチをつけることから得られるものはそれに較べれば貧しいと思う。

このドラマ、とにかく役者さん達は良いお仕事をされたと思うし、
何より、子供達が演技頑張りましたね。私は良いドラマつくるのに子役には高い要求はして欲しくない気持ちもありますが、
出来たことは、誉めてあげなくっちゃね。

ブログでみなさんの意見を読ませて頂いているので、後だしジャンケンみたいな感想になっちゃうかな?
真矢が理想の教師であるかと言うと、私にはまだ判断がつきません。
脚本の遊川さんはどう考えているんでしょう?
判らないけど、こうも言えるかも知れない。
遊川さんは、ある意味、真矢は理想の教師ではあるが
そうであるためには、真矢のように超人的に一人一人の子供達を親以上に心底守れるように完璧でなければならない。
現実、そんなことが出来ますか?できないなら、都合の良いところだけ(子供達に対して強権、権威として振舞う)
中途半端に真矢の真似をするんじゃない。
遊川さんは、そんなことを教育界に訴えているのかもしれないとも思うんですがいかがでしょうか?

私だってこの最後の2話でも感動できました。それは、1つの完璧な理想の教師の姿に感動した訳で
みなさんの感動と同じだと思う。
と同時に、一見、生徒に対して悪魔のように振舞えるのは、完璧な非現実的な理想の教師としての
影の努力があってこそのことであって、そんなことできないのに、ちょっとでも教室で真矢的であるのはおかしい
と遊川さんは訴えているのではないでしょうか。

だから天童先生が真矢の真似しているのが恐いかも知れません。真矢は悪魔じゃなかったけど
天童先生は、ホンとの悪魔教師になっちゃうかもしれない。遊川さんの痛烈な批判、置き土産?。

私てきには、このドラマも悪くはないのかも知れないけど、難しい感動できる理想としては
「二十四の瞳」なんかの感動の方が好きかもしれない。

私ね、最後の2話で感動というか、感心したところはですね、真矢の言葉なんですが
学校で必ずしも楽しくはない、勉強、学習することの意義ですね。
正直、これは小学生には難しいかなと思うけど、実は大学生とか社会人にとって
本当に大事なことなんだと思う。この本質的に大事な連鎖を我々は忘れていますよね。
(遊川さん達は小学生達にこのドラマを見せたかったじゃないんだと思う。)
「ドラゴン桜」でも、同じ感じで大切なことを言っていた気がします。

これは、ドラマなんだから、あんまり小難しく感じちゃいけないけど
子供達に、世の中の暗い部分を強調しちゃいけないと思う。
そういうこと知るのは、高校、大学からでも遅くはないと思う。
だって小学生に、やったて無駄なんだと感じさせないで、そういことを突きつけて
勉強を続けさせるのは難しいと思う。子供達には大人達がまだ達成できないことに
大人になって挑戦する為の基礎力を確実に身につけて欲しいと思う。知識も心も。
純真、無垢とは我々が考える以上にパワーだと思う。打算でない原体験が人類を救う発明、思想の芽だったりもする。
世の中の暗い部分を小学生に強調することが、その足しになるとは思えないんだけどな。
(出演した子供達にも高校生以上になるまでは、このドラマの内容振り返って欲しくないかな)

みなさんのご意見、すごく参考にしているんで、ちょっと紹介させて頂きますが
私の寸評なんかで済ませないで全文読んで下さいね。
(紹介の仕方が横着なの大変失礼します、平にご容赦)

それと今回は、やはり反響が大きくて、みなさんのブログ読みきれませんでした。
私のPCがボロでアクセスしにくかったサイトも多々でした。
紹介できなかったブログの作者さんからも、トラックバック、コメント頂けると嬉しいです。

みにぽぽさんも、私と似た(私が同じ)感想をもたれているように思うんですけどね。
●ひとりごと
http://hitorigoto19.dokyun.jp/archive/l-29575.html

k_kyjさんも最終話ではうるっとされたと正直に?(笑 失礼)
不覚にもという感じの感想で、私も「そう、そう」という感じなんだな。
●つれづれなる・・・日記?:『女王の教室』最終話感想
http://blog.goo.ne.jp/k_kyj/e/848882d7519f636d8c0952b88eb501bb

私もじゅんぺさんに負けず、予想ハズれまくりでしたね。
真矢の最後まで貫く「私は間違っていません」という態度と
「どんな教師を素晴らしいと言うのかさえ、まだわかりません」言葉の
矛盾迷い、指摘されますよね。脚本上の矛盾というより、遊川さんとしては
私のように想像することもできるよ、単純ではないよというメッセージなのかな?
●Junpe's Room:真矢のいない卒業式
http://blog.goo.ne.jp/junpe-m_m-830/e/045451df6104e7a34dceb84ad507f7b1

直美さんのように感動、号泣していいんだと思います。
真矢の深いセリフを紹介して下さっています。
●女王の教室最終回|私でもいいですか?
http://ameblo.jp/naomi-0604/entry-10004359170.html

どこまで行けるかさん
>左うちわで仕事をしている文部科学省の官僚の馬鹿どもに見せてやりたいよ。
”いい加減目を覚ましなさい。”というセリフも合わせてのしをつけて送ってやるよ。
<そうそう、こういう感覚我々に呼び覚ますドラマですよね
●ぶっちゃけしんどい 女王の教室で読み取れる教育論
http://135246.moe-nifty.com/katuro/2005/09/post_6780.html

>私はこの回だけを評価したなら間違いなく5つ星を付けるのですが、
前半部分で不快感を感じたことも確かで(このドラマでは必要だったと思ってます)全体評価でいくとどうしてもこうなりました。
<私も相当にそうなんですよ。
●ドラマの森|女王の教室( 11 最終回 )
http://plaza.rakuten.co.jp/trick4jp/diary/200509170000/

>ただ、ちょっと現実離れしているのが気になりました。
実際、ああいう言動の先生がいたら、子どもが本心に気づくことはないでしょうね~
<そうですよね。ちゃんと裏で真矢ほどのことをやってなくちゃいけないんですよね。
●「女王の教室」最終回
http://plaza.rakuten.co.jp/manekikneko/diary/200509180000/

strさんのこの番組の感想は私には共感するところ大です。
●『女王の教室』最終回
http://plaza.rakuten.co.jp/rekishikan/diary/200509170001/

>女王の教室、真矢先生は最後の最後まで自分を出さないクールな
先生をとことん貫きましたね。
<そう、でもだからこそ、真矢が本心、最後の生徒のプレゼントにジュワとなっていると想像できて涙をさそいましたね。
●真矢先生の【笑顔】キラン!★☆
http://plaza.rakuten.co.jp/toysorange/diary/200509170000/

>天海さんが演じた真矢先生は、しばらく頭から離れそうもありません
<そうあそこまで子供達のことを思う姿は理想の教師の感動ではあります。
●女王の教室・最終回
http://plaza.rakuten.co.jp/taikangekijou/diary/200509180000/

>最初からこういう話の脚本だったのか、
否定的な意見が多くてこっちのラインにしたのか、それはわかりません。
<最近のドラマはそういう疑心暗鬼ってのはありますよね。最初からそうだったと思いたいんですけど。
もうひとつのラインとしては、真矢はいいとこなしのサイコな悪魔教師で、
生徒達から改心させられるという意味でもボコボコってのもあるんですかね。
どっちが話しとしては、世の中に与える影響としては、深いのでしょうかね。
●サッチ嬢の小部屋
http://blog.livedoor.jp/tsuru0724/archives/31133662.html

>金八とか生理的に受け付けないので、学園ドラマで泣いたのは初めてだと思う。
<伝統的な熱血先生もので、感動できない感覚というのも大切だと思います。
その意味でも、考えさせられるドラマだったんですね。
ただ最終的には感動の根っ子は一緒だったような気もするので
もうひとつの終わり方の可能性もインパクトがあったかもです。
●|あんぱ的日々放談|∇ ̄●)ο:いざさらば。。。(女王の教室#10) - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/an_punch1028/archives/50083900.html

>もうちょっと毒を含んだ、そういう最終回を期待していましたが、なんか涙に無理矢理持っていった感じ
<そう、もっと毒を含んだ終わり方ってのも良かったのかもしれませんね。
●the prosaic world:女王の教室 最終回
http://blog.livedoor.jp/wildcrow/archives/31134514.html

>「どうせ最後はいい先生になるんだろ?展開バレバレだよ。」
<読みの勘が良いですね。私は違う結末もそれなりにとも思っていたんですが。
でも、問題提起に関しては、大いに評価されているんですね。私もかなりそうです。
●The Natsu Style:「女王の教室」が視聴者に教えたかったことは…? その2【女王の教室最終回】 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/ustan777/archives/50067657.html

>結局、子供も大人もそして教師も手探りで生きている、ということだったのだと思う。
<含蓄ありますね。この御感想。
>「児童たちと真矢の戦い」、結局、勝ったのはどっちだったのだろうか。
<児童たちVS真矢 ではなくて (児童+真矢)VS何か なのかも
●いかがに・ぱれす: 女王の教室、終了 ~結局、真矢は悪魔だったのか~
http://ikagani.s9.xrea.com/main/archives/2005/09/post_94.html

>まぁ、個人的には、あんなに生徒全員が同じ考えになっちゃうのはちょっと気持ち悪いんだけどね。
<私もこの感覚、非常に大切だと思います。
●女編集者ブログ:女王の教室 最終回 ううむ、終わってしまったか
http://blog.livedoor.jp/kyoukn/archives/50067707.html

>生徒を差別するような発言や行動が、実は生徒たちをすごく育てていた。。。
<私は固いこと言うとちょっとね。悪役の悪い例としてそうなら放送問題無しなんですけど、でも・・・
>他のどんな先生よりも、生徒を思いやる先生だった。。。
<ということは確かですからね。でも私には要注意かな。
●So-net blog:G'day mate!:女王の教室
http://blog.so-net.ne.jp/urn1977/2005-09-17-1

>大人がかっこよくないから、子供がぐれるんです。!!
<私もこのセリフには激しく共感です。
●夢子のス・テ・キ!なダイエットライフ:女王の教室 最終回!
http://blog.goo.ne.jp/yumeko3645/e/f36285337bdfe9d08029de89f662e943

>このシーンがやりたいがために教師を続けている人、辛くてもやめずに頑張れる人って多いのではないでしょうか。
<全然、教師の心情に関してうしろめたくない感想ですよ。そうでない方が不純だと思いますね。
「仰げば尊し」って生徒からの先生への優しさ、思いやりだとも思って欲しいです。
生徒の方が大人じゃん、って行きたいかな(笑い)。歌わせる歌わせないって悲しいですよね。
●ふらっとblog:真矢のいない卒業式
http://blog.goo.ne.jp/monkey0127/e/729bea239dd521bc080e82a431cf6481

>中高生なら、これからの人生に影響を与える作品だろうなぁ。
<そうですよね。その感覚でこのドラマを評価したいです。
●日記みたいなもの 女王の教室!!
http://ushint.blog19.fc2.com/blog-entry-32.html

>~仮想阿久津真矢のぼやき~
<お見事!!。納得。天童先生のあやうさ嗅ぎとってらっしゃるのかな?
●ota-broadcast:女王の教室 最終話
http://blog.goo.ne.jp/ota-broadcast/e/727e507a63795a1a0f906e13e5080e10

>小論文書けそう
<そうですよね。私にもまだまだ言い尽くせないことの予感があります。
でも、コンパクトで大変、ためになる記事、御感想だと思います。
私よりドラマ肯定よりの感じもしますが、私はお考えに好感致します。
●cocoa* Blog | 女王の教室 最終回
http://cocoa04.cool.ne.jp/blog/log/eid36.html

<TB頂きました。有難うございます。
>最近のドラマは、伏線というものが非常に少ない。
>連続ドラマであるなら連続していることの意義もっと制作者は頭に叩き込むべきである!!
<これには、私も激しく共感します。!!! 妥協はいかんですよね。
脚本の遊川さんも今回?はブレなかったと思います。
◆ドラマ!テレビ!言いたい放題: 女王の教室 最終回
http://yosukezan.seesaa.net/article/7361996.html

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2005年7月23日 (土)

「女王の教室」見続けること挫折

「女王の教室」見続けること挫折してしまいました。別に番組を批難するとか、まだこれが面白い、これに興味があるという方々を理解できないということではなくて、私個人の好みのキャパシティの限界を超えてしまったようです。私はある程度ホラーも大丈夫なんですが、あまりに凄いスプラッタ、血みどろは苦手なのと一緒ということです。役者さんの苦しみ方の演技があまりにくどくない限りは相当な血みどろスプラッタでも大丈夫なんですが、今日の「女王の教室」は心のスプラッタとして私の中では限界を超えました。本当はもっと観たかったのに残念です。でもまだ世間の評価には興味があります。録画はあるていど残るのでブログなんかでみなさんの文章を介して興味をつないでみたいと思う。進展によっては私でも鑑賞、復帰できるかも知れません。

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2005年7月16日 (土)

視線

SAGAさんが視線について語られています
>なぜ犬や猫、鳥、牛や豚、トカゲまでもがお互いに「目を合わせる」ことになるのだろうか。
何故なんでしょうね、やはり「相手の様子を伺う」「出方を見る」というのが基本にあるんですかね。

>「人の目を見て話しなさい」とよく教えられたように
確かにそうですよね。でも私は早くからそうでないしゃべり方の方がカッコイイって思いはじめたかな?
なんかその方がハードボイルドというか、男ぽっい感じがする。
どうしてなんだろう?。
俺の話、お前なんかに別に聞いて欲しいわけじゃないんだ、
勝手にしゃべるからまあ判るなら参考しろよって感じですかね。
躾られることへの反発もあったかな?

「目は口ほどにものを言う」そうなんですよね。
サングラスって、お手軽にポーカフェースつくる道具ですね。
相手の出方、こっちのコンデイションを探れられない為の武器ですね。
男はサングラス好きだもんな。戦いを有利に運ぼうとする習性ですかね。
だから、女性からは男は嘘つき卑怯、カッコつけで誠意がない思われてしまう(笑い)
(でもね女性を扱い慣れているしたたか者は、誠意がなくても目を見つめて相手を納得させることに習熟しています。
もっと、気持ち見え見えで恥ずかしいと、あなたと視線合わせられない私を可愛いと思って欲しいなぁ(笑い))
(女性はうつむくという視線そらしの術を持っていますね)

女性は視線、自己表現として積極的に使うのかな。私をわかってよ!!てな感じで。

視線のコミニュケーションってのは、より動物的な気もする。
でも人間は、それをかなり高度に発達させてはいると思う。
映像演劇なんかでは、その高度な発達ぶりを披露した方がアドバンテージになりそうです。
菅野美穂さんは、その意味で凄いアドバンテージがありますよね。大竹しのぶさんもそう。

>声帯が退化し視線だけでコミュニケーションをとるような世界が待っているのかもしれない
少なくとも、現代はマン―マシン系では現在熱心に研究されていますね。

私は「視線を気にする」というのは、良くないことだと思う人生スタイルかな。
男として、ひとかどのことを成すには、ある意味、唯我独尊、引きこもりも必要だと思う。
これは、欝(うつ)病なんかに対する予防薬の一つではないかとも思う。
日本は人間関係がゴチャゴチャしすぎ、人の目を気にし過ぎじゃないかと思う。
気配りで知られる素敵な菅野美穂さんが、外国人になりたいって言うのは、彼女の中の反動かしらん。
菅野さんの才能は、素晴らしくユニークですもんね。
周りの凡人に方向付けなんかされたら、もったいない、台無しです。

ITが発達してくると、視線、声色を消去したコミニュケーションが多くなります。
私なんかは、もともと、そうした文字情報の方が好きなところありますね。
冷静に物事を判断、分析するには、視線、声色なんかは邪魔に感じる、知的、理性的でないように感じることがあります。
視線、声色を駆使されて、それを読まれて営業をかけられて、それが判断に影響すると、後で損するんじゃないかと思ったりもする。
出向かれて話聞かされて営業されるの好きじゃない。それより、しっかりしたカタログ、レポート提出しろよタイプですね。
それは、自分が求めるもの、欲しいものは自分から徹底的に調べて研究したいから。(ネットで情報不備なものは購入しない)
大事なことの判断材料としては、演説聞くより、文章読みたいかな。
テレビでも正統アナウンサー的でないキャスターの言動や討論会はできるだけ聞かないようにしています。

検索エンジンで「行動学 視線 発達」とかで調べても膨大なリストになります。一生かかっても読みきれない。
さすがにアカデミックでは、お色気路線で視線誘導ってテーマは、少ないかな?

女性。胸の谷間とか強調しておきながら、私を違ったふうに判ってよ!!てのは少し矛盾しているように思えます(笑い)

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2005年6月29日 (水)

躁(そう)の報い?欝(うつ)

注意事項:命あってこそなので、抗欝剤は信頼できる医者の言葉に従って、必ず服用してください。

私、自分の欝(うつ)に苦しんでいるときに思ったことがある。
これは自分の躁(そう)の報いではないかと。

自分の心のどこかに、躁(そう)のとき、弱い人、能力の高くない人、元気のない人を、どこか蔑んでいなかったかと。
欝(うつ)のときは、自分でも気づかずに?その牙が自分に向けられられている。
そうだとすれば、これは、報いである、天罰である。因果応報である。
自分の何が間違っていたのか、気づかなかればならない。

躁(そう)ときブルトーザーのように、荒々しく驀進するだけで、
人の注目を集めようとするだけで、人の自分の評判に関心があるだけで、
自分からは人に、細やかな眼差し関心を注いでいなかったのではないか
そつのない感想文を書く為のものとは違った、本当の生きた感受性を働かせることが枯れていたのではないか
欝(うつ)になると、人の無理解(感・観)からの孤独感にさいなまれる。
これは、報いである、天罰である。因果応報である。

欝(うつ)からの解放とは躁(そう)への出口が見つかることを待つことだろうか?
いや、欝(うつ)の中にあって、自分の間違いに気がつかなければ、生きて解放されることはないだろう。

人はロボットではない。聖人君子でもない。感情の起伏はあって当たり前である。
自分という駄馬の手綱さばきこそが大事だと思う。欝(うつ)を脱して生きている時こそ心したい。

人生は紙飛行機にも似ている。急降下した後だから舞い上がれる。
誰もの目からも高みにあると映るわけではないが。

欝(うつ)に縁のない人生を送った全ての人が、輝かしい人生を送ったと言えるのだろうか。
世間の衆目を集めた人生の末期、かけつけた大勢の人脈は、利害、思惑だけで集まっている
本当には、その当人の人生に対する敬意、尊厳の念などこれっぽちのかけらもないのだ。
肉親にしてそうなのである。当人は末期、大勢の人々の中で最大級の欝(うつ)孤独の暗闇にうちひしがれて、この世を去る。
この人生、最後のわずかな瞬間は、この魂にとって無限地獄に位相変換され絶対固定化される。
修羅と地獄を残し見せるための全人生である。
こんな地獄の入り口向かうだけの人生ならホームレス仲間にでも、少しでも暖かく看取られ死んだ方がマシだ。

欝(うつ)は生きている間の警告でもある。地獄を予告してくれている。
道の再選択を促している。じっくり考えて、間違った道を反省したい。
天は判るまで何度も欝(うつ)を与えてくれる。意外に欝(うつ)気質には面倒見が良いのである。

さあ、大声で叫ぼう!!
「気がめいるよな~。気がふさぐよな~。ボルテージ下がりぱなし。やってらんないよ~。
不貞寝だ、不貞寝だ。コタツ虫だ!!。」

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2005年6月19日 (日)

自殺したい人だからこそ死なないでね

私の亡き父方の家系は重度の躁鬱気質である。
実際、父はそれで通院していた。
それでも家の経済が成り立っていたのは、父は職人的な町工場経営者だったから。
他人のできない仕事をやっていたので、殿様商売的でもあった、
一年を三日で暮らすみたいな仕事が出来た。ようするに、躁状態で一年分の仕事を片付ける。
欝状態の時は、朝から晩まで寝込んでいた。いつ自殺するかわからないから家族も目が離せない。
家の中全体がどんよりと重苦しく、じめじめと、暗かった。(当時、家の日当たりが非常に悪かった)
若いころしていたサラリーマンは絶対につとまらなかっただろう。
兄も私以上に父の気質だったので、母の苦労は大変なものだった。
父の躁期は無責任大言壮語に向かわずに、経営者というより職人的な仕事の才能に向かったので
工場も破綻せずに済んだわけである。設計製作、自らの手を動かすことで不可能を可能にしていた。

こういう仕事をしていたので、家族も欝のときに、お父さん頑張ってと言わずに済んだ。
サラリーマンの家族だったら、お父親の仕事の内容がわからないから、こんなことを言って大変なことになっていたかもしれない。
父親を登校拒否児扱いしかねない。

私は高校、大学時代に、本を読み漁って、躁鬱病の勉強をした。自己防衛の為である。
別にそれが役に立ったとは思っていない。多分、私は幾分、母方の血の濃かっただけのことだと思う。
ただ、母の血のように、たくましくもない。だから重いものを背負うことを回避する術は身に付けたんじゃないかと思う。
母方の血には、体面よりも大切なものがあるという理解力を涵養する素地があるように思う。
ボロは着てても心は錦的な家風である、高望みをしない堅実である。
父方には見事にそれがない。ボロを着ててちゃしょうがないタイプ。勲章欲しがる。躁鬱気質との相関はかなりあるらしいし、うちの場合はその典型となる。
私は父とそりが合わなかった。嫌っていた。恐らく父の持つ、設計感覚、造形感覚、立体右脳?感覚をわづかばかり唯一受け継いだ子供ではあるらしいが。
爆発的にもの事に一心不乱にのめり込む資質も受け継いだようだ。
私はサラリーマン的でないのにそれをやっているから不良社員である。会社上司なんかそっちのっけで、意気に感じた顧客だけに、まじめに対応している。
絶対に頭なんかさげてまで会社に残らせてもらうなんて態度はとらないつもりだ。そのための貯えである。
敵がどんな解雇手段をとってくるかも想像して楽しい、アラスカなんかだったら一度社費で行けるだけ、ご馳走様である。
狭い密室でPCも本も持ち込みダメだったら瞑想の限界修業に挑戦させてもらえる。退社後何をするかも練れそうだ。
脅迫的な官製資格受験産業等を潤いさせる気なんて、さらさらない。腕一本の結果で生き抜きたい(カエルの子はカエル?)
ああやっぱ、サラリーマンはこの世の天国に近い。自営業だった父の苦しみは想像を絶する。

若い人達にアドバイス。何で家、マンションでローンなんか組むかな?。金額は家賃だって同じだって?
リスク管理しろよ。会社を信じるなって。ただでさえローンは支払い高、高い(物価上昇折込済み)
のに返済額に値下げ(減価償却も)は絶対にない。売れば絶対赤字。ローン残る。家賃(新ローン)+住んでない家のローンになる。
あれば、退職金と貯金で、定年後に即金で家買えば良いじゃない。
払い終わったときに子供達に(一緒に住む?)家残したいって? その時、年寄りばかり住む街になんかにいたくないって。
大学、社会人ぐらいになれば、独居自炊経験も有意義。
若いうちに自分達の家に住む事楽しみたいって?ローンがあるうちは自分達の家じゃないですよ。
また良い家が勲章なら、若いうちに、立派にもなってないのに、そんなもの手にしないの。
獅子死して、老夫婦悠悠自適の文化的な立派な家残す(社会ストック)、これで良いんです。
若いころから長くその家に住んでたことと、その家の立派さの誉れはリンクしない。借家でも若いときの生活の思い出の方が貴重。
ローン銀行の行員の高給、銀行破たんの回避、塩漬け土地を抱える不動会社の破綻回避、土建王国維持にローン奴隷になって何故協力する?
住宅ローンじゃなくたって、消費者ローンも同じ。あるだけで生活するのが基本。工場、工場の機械のローンと違って、それらは金生まないの。
水飲み百姓の年貢といっしょ。村抜け防止の関所と同じ。死ぬまで解いてくれない。
若いうちに、どうしても自分の家が欲しいなら、ホームページの方が絶対に良いと思うんですけどね。立派な客間もつくれる。

日本で自殺が増えているどうのこうのは、社会問題としては実はほとんど興味がない。どうでも良いことに感じる。
それより、(今後のDNAの発現など自分を含めて)身近に自殺しそうな人がいたらどうしようかという問題が切実である。
私はどうも、それに悩まされる巡り合わせのようだ。社会人になりたてのころ、高校時代からの無二の友人を失った。
思い起こすと、私を叱咤激励ばかりしていたのは、彼の方だった。結果はこうなのである。
かなりの部分、助けようがないというのも実感。DNAの発現と状況環境のクロスポイントの悲劇は運次第でもある。
幸い私自身は今、大層、立派な目的、生きがいがなくても、死にたくないから生きているという、非常に良いコンデイションにある。
嬉々として好奇心に遊ぶこと、倦怠に沈む(白昼夢にボーとしている)、幻想無限の世界に脳内麻薬で浮遊トリップしていることを、
交互に心おきなく楽しんでいる。胎内、園児の時代、オタクの世界、老境の間を自在に行き来している。誰にも邪魔されたくない。

自殺して欲しくないなぁ。何故って。生きる苦労はできるだけ大勢でした方が楽しいから。ただそれだけ。
かっこ悪い仲間は大勢いた方が、私の肩身も広くなろうというものだから、ただそれだけ。

残念ながら不幸な境遇の人達が出てくるのは、未来でも絶対に防げない。
こうなった人間は死ぬしかないんだ、なんて先例、見本、勝手につくるなよ。君ら、彼らを殺すつもり?
次世代の子供達にとって迷惑千判。君らの勝手というわけじゃない。
君らが自殺したという記録、残念ながら完全に抹消すること出来ないんです。(出来ればそうしたい)

不幸な境遇にいた人ほど立派になれる。これは間違いありません。
スナックのママとか、素敵なひとが多そうです。

ああ、早く引退して、小さな小さな家、緑のいっぱいある庭つきで、
PCアトリエに入り浸びたりながら、子供達の良い遊び相手の可愛い柴犬と一緒に過ごしたいたいなぁ。
子育てカップルがたくさんいる街のはずれで、海が近いところが良いなぁ。頑張るゾ。

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2005年6月11日 (土)

オーラの泉(2)

日本で人間のことを霊長類と言う。
この言葉の由来を私は知らない。けど、こんなことを考えて見た。
人間は道具を使う動物、火を扱う動物と言う。言語を操る動物だと言う。
これが、動物として画期的であり霊長類(動物達の長)と言われる由縁と考える人も多いだろう。

しかし、別のことも考えて見たい。
まだ人間の祖先が霊長類としての自覚を持っていなかった時代。
寒い外界で、やっとの思いで小さな収穫を得て洞窟に入ったとしよう。
そこに、腹をすかせ、今にも死にそうな先客(人間の祖先)がいたとする。
死にそうな彼を見て、何故か不思議な気持ちにおそわれる
きっと、こいつは、やがて動かなくなるのだろう、それは何故か。
何かが、こいつの体から出ていくのだろうか?
そんな、姿は、これまでに何度も見てきている。
しかし、今回は違っている、死にいく者の目から水がこぼれている。
彼は不思議な衝動にかられて、少ない収穫の貴重な残りを、彼に差し出す。
相手は反射的にそれを貪り食う。その後、何が起きたのか不思議に思うと同時に
死ぬはずだった者もまた不思議な衝動に襲われる。彼は嗚咽する。二人で嗚咽する。
似たようなことが、あちこちの洞窟で起こる。魂の覚醒である。

それから、何千年、息も絶え絶えな4本脚の動物がいる。
そこに二本脚の動物がやって来て、食べ物を差し出す。
4本脚は蘇生した。だがその場を立ち去る気になれない
この2本脚のそばにいたい。二本脚の空中の前足が体に触れると気持ちが良い。
生まれたばかりのときの感触が蘇ってくる。二本脚は霊長類となった。

霊長類は知っている、世界がメッセージで充満されていることを。
メッセージ同士が必ずどこかでつながっていることを。
ひとたびそのつながりを知れば、その存在が死をこえて時をこえて存続していくことを。

近年、インターネットの発達で、発達したつながりの連鎖の中では
そのつながり同士は、どんなに数が膨大でも、どんなに離れていても
たかだか6段階ていどで、最短コースがあることが判ってきたらしい。

一つの魂の姿の飛び散った断片(メッセージ)も、良く発達した触手をもつ魂のもとで
再結晶、再結像して、その姿が現われるのも、想像するより困難ではないのかも知れない。

まして生命は、進化という過程で、過去の方向に強力、明確な連鎖を持っている。

攻殻機動隊が示唆するようにネット世界では、その姿が様々な場所で再結像しうるゴーストが漂っているだと思える。
なにも、強力なゴーストは、歴史上の著名人と限ったわけではない。その中には思ったより皮相的な力しかない者もいる。
メッセージ、魂、霊のネットワークはインターネット以前に厳然と存在している。

この星が灼熱の天体の周り27回ほど、まわっている間に、
一つの唯一無二の魂が、強烈な引力(感受性)のもと、ひときわ豊かなメッセージの再結晶によって育っていた。
人はそれを菅野美穂と言う。

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2005年6月10日 (金)

オーラの泉

SAGAさん、いわく霊的なものと宗教的なものとは違う。
私もそう思う。世間では非科学的(UFO?)なものというカテゴリーもあるらしい。
科学的なものは信じられても、そうでないものは信じないという
立場も考えて見れば、あいまいな話しでもある。
信じる、信じないの本質は、つきつめれば、そんな単純なものではないと思う。
まあ、簡単に言えば、彼女、彼氏を信じるというのは、科学的?ってことでもある。
科学なんかは、信じる信じないというより、
再現性のあることか、ないことかという、(限定的)実利性、効用性、応用性が案外重要なんだけど
これを、みんな結構、忘れていたりする。
(再現性=条件が同じなら、何度、試行しても同じことが起きる)
科学だって、いつも厳密で利用されいるわけじゃない
むしろだいたい条件が同じならだいたい同じ結果になるということが多く利用されいるんだと思う。

そもそも、今日も明日も、だいたい同じ科学法則が通用するなんて保証はないんじゃないかと思う。
それは、限られた経験則、惰性でしかない。
明日は、画期的な科学理論が発見されるということではなくて、
宇宙が世界が突然、絶対に予想不可能な別の法則(法則がないこと、再現性がないことも含めて)
の世界にガッラと変わってしまうかもしれないんですよね。

科学的と思っていても、我々は、漠然とそんなことは生じないと、根拠なく信じているにすぎない。
これを信じているから、みんな上手にお仕事なんかして、キャリアをつんでいるわけです。

古典哲学で唯心論者というのは、こうしたことを十分理解していた人達かも知れない。
自分が生きていて覚醒していてこその世界。死んだ後に、全く別の世界で覚醒したとしても
その可能性を否定できる根拠はあってないようなものという気もする。
(なんか、アニメ、ツバサクロニクルの世界?)

信じるってことを否定する、信じるってことに慎重な立場ってのもあるだろう。
SAGAさんは、こういうタイプかもしれません。
霊的なものを否定する科学的ってものを信じない->霊的なものは存在するかもしれない
->霊的なものの存在を信じたって良いじゃないか。->私には存在する。
という論法は、私には否定することができない。

私は霊的なものの存在を信じたって良いと思う。
ただし、科学を盲信、妄信するのが、いけないように、これも妄信はいけない。
いや妄信は個人の自由だけど、妄信させるのはいけないと感じる。
(だからSAGAさんは、宗教組織を忌避するのかな?私はそう)

かつて、「言葉狩り、服装狩り」で、
人によっては、恵まれた環境でみなから愛されて育った人間ばかりではないからって
指摘された方がいらしゃいましたが
我々や菅野さんに霊的な世界を紹介するのが、美輪さんらのような方だから
信じられるってことは大変重要だと思うのです。
美輪さんらは、霊の格にかなうように
この世においては、相応の法則に従って、
努力、功徳(楽ばかっりしちゃだめ)感謝の気持ちを積みなさいとおしゃっている訳ですね。

霊を信じることの素晴らしさには、事物の理解、人生の理解に時空を越えて、感情、心がこもることがあると思う。
昔の人の人生を、イベント、事実、事象、記録としてとらえるだけでなく
当人の感情、怒り、悲しみ、喜びを、自分の心としてとらえることにあると思う。
心を心に投影することだと思う。今は無き心、魂を救済、再生することだと思う。
菅野美穂さんは素晴らしい役者さんだと思う。
美輪明宏さんは素晴らしい芸術家だと思う。
菅野さん美輪さんは、前世の心、魂だけなく、なにより今の周りの人々(+ワンちゃん、ネコちゃん、イグアナ)の
心、魂を自分の心に投影する力(気配り、優しさ)があるんですよね。

(旧体制に挑戦する? )ホリエモンにも霊から見放されないような、心はちゃんとあると思うんですけどね(笑い)
むしろ、それが枯れているのは別の人達ような(だって人相が 汗)
ヤフーの孫さんはかなり高い徳がありそうな。
(良く知らないから、適当だけど 笑い?)

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