2009年10月 9日 (金)

Jrubyの勉強3

「JRuby Java3D」でググってみて、http://karetta.jp/book-node/jruby-cg-program/031388のサンプルスプリクトをコピーして、NetBeansで実行したらうまくいってめでたしだった。

RubyとJRuby、どちらが良いかはいちがいには言えないと思うが、Rubyで既存のC系ライブラリを活用するより、JRubyでJava系既存ライブラリを活用する方が、プログラミング作業的には有利そうではあるようだ。既存Javaライブラリを活用しないで、JRubyの為に新しくJavaライブラリを作るのならば、JRubyでライブラリを作った方が良いとは思うが、引数の個数が同じでも、引数のクラス型が異なればメソッドをオーバロードできるJavaはそれなりに魅力がある。やはり自分で作ったJavaライブラリパッケージをJrubyで使ってみたくなるかも知れない。Javaプログラミングは、Eclipseを使ってやりはじめていたのだが、NetBeansでやり直す準備をした。使っていたEclipseは古いのかも知れないが、オンラインマニュアル・ヘルプはNetBeansの方が判りやすい気もする。Javaは、変数を使う前にクラス型宣言が必要な、まぎれもないコンパイラ言語かと思う。この煩わしさがない動的インタープリター言語であるRubyはやはり、楽しいプログラミングになりそうだ。Mathematicaもインタープリター系かと思う。誰かが、Ruby用のMathmaticaのようなノートブックを作ってくれたらMathematicaやMathLabの大きな脅威となるような気がするし、いつか、そうなるような気もする。

JRubyのgemで管理できるライブラリがRubyと遜色ないかはこれからの勉強だが、少なくともRubyに関する限り、数学系のフリーウェア・ライブラリでも便利で使い手がありそうだ。Javaでは、ライブラリを探すことからして面倒で意欲がなえた。

Javaでライブラリを書いてみるかもしれないが、作ったアプリのスタート(起動)クラスがJavaであることは、私の場合は、もう想定できない。やはり(J)Rubyスクリプトであろう。

変数名などプグラミング予約語以外で、日本語、漢字熟語が使えないのは、とても残念である。プログラミングにおいて、漢字熟語が使えると、日本人、中国人にとって有利でもある。漢字熟語はとてもコンパクトでプログラミングの可読性が良いのである。英字予約語とプログラマー定義漢字熟語の組み合わせは、見た目とても判りやすいプログミングになると思う。

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2009年10月 8日 (木)

Rubyのまつもとさんと湯川秀樹博士

Rubyの存在は、大型書店のコンピュター言語棚に関連本が増えてきていたので知っていた。プログラミングを職業とすることはなかったが1958年生まれで、一応理科系の穂影としては、グリーンディスプレイのPCで1と0のコードを本からコピーすることから始まって、初期のインタープリターのBasicから、カード穿孔機でのフォートランプログラミング、Lisip,C言語などを、少しさわってきていた。その後、Mathematica4.0を使い始めてから、言語に触れることはなくなっていた。Mathematica7.0にJlinkがついたので、割と最近になってJavaをやってみようかなと動きはじめていた。

Rubyに興味を持ったのは、GoogleSketchupnがきっかけである。

Rubyが、まつもとゆきひろさんという、日本人の手によって、オープンソース環境で開発されたというのは、ごく最近知った。しかも、それが世界で認知されている、というより、日本より世界で、しかもグーグルやサンマイクロのような世界の大企業がそれを認めているというので驚いた。すばらしい日本人がいたものだと驚いた。

私はトロンの坂村健氏のことは良く知らない。ただ朝日新聞や読売新聞などでも、少しは昔から紹介されていたのは知っている。また私の知人などでは、坂村氏はすごい人だという人も少なくなかった。しかし、結果的には、日本人による世界のディファクトスタンダードの道という結果を考えると、結果、ものすごく、かっこ悪い、古い人という印象を持ってしまう。それに較べて、私にとって、まつもとひろゆきさんは、湯川秀樹博士クラスの尊敬の対象かも知れない。外国の人から見れば、理論物理学オタクでなければ、アイシュタインはともかく湯川博士の名を知っている人は少ないだろう。理論物理学オタクよりプログラマーの方が多いので、外国人でまつもとひろゆきさんの名を知っている外国人の方が、はるかに多そうである。その意味では頭脳知性で勝負する人としては湯川秀樹博士より、まつもとゆきひろさんの方が凄い日本人だという気がする。

これまでの自分のことを棚に上げて、コンピュターにあまり興味がない日本人にも、もっと、まつもとゆきひろさんのことを知って欲しい気がする。朝日新聞や読売新聞も、まつもとさんを紹介したことはあるようだが、かつて坂村健氏を紹介した百倍、二百倍ぐらい、日本人に紹介しても良さそうに思う。

まつもとゆきひろさんが、ネット上やコンピュターサイエンス界以外、すなわち読売新聞や朝日新聞とかで、どのくらい紹介されているのかググってみた。2006年ぐらいからあるようなのだが、その時は私はその凄さを見逃していた可能性がある。

参考にしたのは

http://www.netlab.jp/media

である。

また以下のネット掲載されている梅田望夫氏とゆきひろ氏の対談に興味を持った。

http://www.netlab.jp/media/2007/12/03/2007123-itprobp/

まつもとゆきひろさんの>僕の場合はプログラマ限定なんですけど,プログラマというのは抑圧されていて(笑),上から押し付けられたツールを,こんなものを使いたくないと思いながら仕事をしていることが多いんです。もっと自由にツールや言語を使ってハッピーになろうよ,可能性を発揮しようよというのが僕の言いたかったことです

という言葉がすごくカッコイイのである。プログラマに限らず、すべての職業で、本来は、上から押し付けられたツールを,こんなものを使いたくないと思うべきところを、それを我慢していることがプロだと勘違いしている、それを既得権、保身の源泉としている人が多くないだろうか。旧態とした法文などをよりどころにしている官僚や法曹界の人間などその象徴だし、その他多くのビジネスマン、技術者、職人に似たようなところがあるような気がする。

蛇足だが、坂村健氏について、こんなネット掲載を見つけてしまった。http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Sakamura.html

どうも、坂村氏の罪というわけではなく、こんなカッコワルさを感じてしまう時代なのかもしれないが、必ずも悪いパラダイムの予感というわけではないようにも思える。

まつもとゆきひろさんへの尊敬を、自分なりにRuby、JRubyに触れてみる、それを役立てることができないだろうだかと、ささやかに苦心することで表してみたい。

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2009年6月 4日 (木)

一生懸命

一生懸命って大切だと思う。

一生懸命であることを、評価・称賛・敬愛し、場合によっては、その前提で、人にそれを期待することも、よろしいかなと思う。

ただ、一生懸命の型というのは人によって、違っているんだと思う。

だから、型まで含んで、特に自分固有の型で、人に一生懸命であれとさとすのは、よろしくない。

人から、特定の型で、一生懸命であれと、圧力をかけられて悩んでいる状態から、場合によっては、人目を気にせず、早く自分の型を見出して、一生懸命になれることが肝要である。

何故、一生懸命になれるのか、それは自分の納得の為であり、人に納得してもらう第一歩である。納得は知りたがることでもある。知りたがることなくして、自他を欺いて、一生懸命はない。

感じることは知ることである。感じないで知ることに価値はない。

人からの評価を得るのに急ぐな。それは死んでからっだって、とわの先だって良い。自分の納得が大切である。

一生懸命である人々が集って、何事かを成すこと、美しくも素晴らしい事である。

板の上や、映像で、演劇活動にかかわっている方々、

ウェブ上で、オープンソース、フリィーウエア、API、クラスの開発に参加している方々、

ブロガーたらんとしている方々

うらやましくもある。

営み、事業とは、そうでありたいものである。

人づきあいが苦手であっても、どこかで、つながって、一生懸命が生きる通路は必ずある。

経済、金融、投資はインフラでもあり、重要でもあるが、二の次で良い。株・投機 そこにどんな自分の納得があるのだろうか?

貯えることに納得を見出すのは、否定しない。

人生には限りがある、背負って生まれてきたものを生かし克服し、同類を勇気づけられる、進化の可能性を示唆できる、美しいアンガジェマンで終わりたい。道半ばも立派なアンガジェの有終である。

どういう気持ちで、闘病するか、キーパンチするか、どぶすさらいするか、官僚するか、育児するか、政治家するか、かしづくか、軍人するか、ベッドメーキングするか、・・・すべて一生懸命に足る重要なアンガジェである。

知りたいことに、一生懸命であれ。一生懸命が、感じるに値すること、知るに値することを生みだす。

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2009年5月29日 (金)

09.04.30朝日ジャーナル・鶴見俊輔氏

2009年4月30日号・週刊朝日緊急増刊・朝日ジャーナル
の鶴見俊輔氏の論文を読んでいて。

氏いわく、
大学出で「首席だ」「一番だ」と言って、官界、財界のトップに君臨する人たちが、国民に意見を譲るだけで、大きく物事をつかむ力もないのに、政治の中枢に座り、世論をリードする地位について、日本を悪くしていると言う。

その悪さは、日露戦争のポーツマス条約を不服とする、国民の意見に譲りはじめたころから、現在まで連綿と、続いているという。

昭和の初めには、国民に意見を譲らない政治家や知識人はバタバタと殺されていったとも言う。

この点はどうなんだろうか? 昭和初期に政治家や知識人が殺されていった背景は、太平洋戦争突入もつながるが、果たしてこの背景は農家の母達などの草の根の国民の意見の結果だったろうか? ここで、国民の意見を、この背景に無批判だった、当時の都会のサラリーマン男子達のこととして言うなら、確かに、昭和初期の政治家や知識人は国民の意見で殺されていったのかもしれない。鶴見氏にとっては、農家の母達は、国民の意見には、入らないのかもしれない。

ただ確かに、昭和初期の政治家や知識人が殺されていった状況を静観していたのは、当時の、大学出で「首席だ」「一番だ」と言って、官界、財界のトップに君臨する者たちであり、当時の都会のサラリーマン男子達ではあったかも知れない。そこには、維新の獅子達のように世論を飛び越えて大きく物事をつかむ力を持つ者が、不在であったかも知れない。

鶴見氏の、今だ、日本の大学出が世の中を悪くしてきたから、日本の大学出が嫌いだという気持ちもわかるような気がする。

私も今の日本の、大学規模至上主義、大学進学市場至上主義、大学教職員就業市場を聖域化すること、文部科学省大学部局規模至上主義は、大変おかしいと思う。

鶴見氏は、大学を出ていない賢人の例を現代も含めて、いく人か上げている。

まして、IT、ネット時代である。これからも、各方面で大学を出ていない偉人が多く出てくる必要があろう。

既に大学を出た人たち、これから大学を出ようとする人たちが問われるべきこと。社会に出て、大学を出てなくても教養学問をつんだ、あるいは地頭と経験が素晴らしい人と対峙して、自らのキャリアを辱められたら、どうするつもりなのか? にたような大卒の同僚とつるんで、見苦しい光景を展開するのみであろうか? 当面、最近に限らず、日本の大卒者は、そのことをもって、十分に自虐的であるのが、とりあえず望ましいところであろう。

そうでなくて、鶴見俊輔氏に嫌われるような大卒者にだけはなるべきではない。

そのような卒業者が多くなりがちな大学にも行くべきでもない。そのような大学の教授や職員にもなるべきではない。

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2008年3月20日 (木)

統計 絶対計算 フェルミ推定 サイコロの傷

最近、書籍活字に親しむペースが落ちている。特に文芸系である。

最近読んで、印象に残っているのは3冊で、合わせワザである。

①:「統計という名のウソ 数字の正体、データのたくらみ」 ジョエル・ベスト 著:林大 訳

②:「その数学が戦略を決める」イアン・エアーズ 著:山形浩生 訳

③:「地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」」 細谷 功 著

である。

①と②は、私の中では、背反でもなくて、相補的でもある。

②の言う、テラ規模、天文学的数字規模の絶対計算統計は、脅威でもある。それが秘密裏に行われ、公知として活かされない恐さ。その成果を偽る恐さ。それに振り回せられる恐さ。

統計の真価、危うさは、精密さ厳密にも係わる。統計は確率論でもあるから、精密さは、統計の場合は規模でもある。

絶対計算は思考を拒否するようにも思えるし、思考(思い込み・現象無視)に反省を促すようにも思える。絶対計算は絶対計算にしか評価されえないのか?

③のフェルミ推定にはホットする。定量的であることは、やはり判断基準として大切である。しかし精密であるばかりが能ではない。論理判断に基づいた大局もまた大切なのである。絶対計算は大資本である。あまねく人間個人のものではない。フェルミ推定の資質は1個人で持つことが可能だ。そして素早い。

新聞などを読むとき、これらの書籍から感じ取ったものからすれば、思考停止で書かれた惰性判断が記事にあふれかえっていることが判る。

どちらかというと自然科学の法則・構造に比べれば、人間社会の構造は比較的容易に変化し得える。絶対計算といえども、社会科学、経済学的現象において、絶対計算の限界というのものはありそうだ。ただ、今は絶対計算に分があるというのは言えることが多いだろう。

絶対計算は後だしジャンケンでもある。あたる間は絶対計算である。統計予測は思考のいらない構造分析そのものなのだ。構造の変化をどれだけ予測できるかが絶対計算の問題点でもある。絶対計算は振っているサイコロの性質をサイコロを見なくても明かにする。しかし、そのサイコロが突如、欠けてしまって、性質が変わることまでは予測し難い。確かにサイコロが欠ける兆候は感知するかも知れないが、その兆候の評価は、それまでの実績ほどの精度は望むべくもない。サイコロが欠けそうなこと、欠けてしまっていることを直接、見ることも大切なのである。

そして何より大切なこと、我々の一人一人が、後に続く者がいる、サイコロが欠けたり割れたりする、きかっけになる最初の傷をサイコロにつけることができるのである。

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2007年4月26日 (木)

学力テストとか3

25日読売朝刊。「塾の活用」という記事での鹿児島のご家庭での体験談。これは私の「学力テストとか」の記事とも内容が共通していて好感してしまった。あるいは「全国学習塾協会の講師資格制度」で述べたように、良い塾とは何かに呼応してくれる記事とも感じた。

ここのお嬢さんは、無理して遠くの上位塾本校に行くこともなく、地元の塾に通いながら、模試を活用して、自分で難問題集を消化して難関校に合格したのである。しかも結局、地元中学を選んだのである。本人が選んだのも、それを支援したお母様も偉いと思う。おそらくは、この方法に自信をもったから、高校受験、大学受験も大丈夫だと考えられたのかと思う。これは正しいと思う。私は個人的に非常に好感するのである。

この模試を活用した意義とかを良く考えてみて欲しい。それを全国学力テストの子供達本位の活用の仕方に結びつけて考えて欲しいのである。学校同士を教師達を競い合わせる以外の大切な意義がありえるのだ。教育は機会において平等であるべきだとすれば、全国学力テストを公費で実施することが悪いとは思えない。公が民業を圧迫することは良くないことも多々ある。しかし例外もあって良いだろう。民間業者テストの存在に気を使いすぎるのもどうかなと思うのである。ただ、民間業者テストが値段的にも格安になってどこでも受験できるようになる、業者自身の努力を否定するものではない。

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2007年4月25日 (水)

学力テストとか2

25日朝日朝刊社説全国学力調査に関して。

読売新聞もそうなのかもしれないが、やはり腑に落ちない。どう利用されるかについて、学生、子供の立場がない。何故、子供、学生自身の知りたい意欲を無視するのか。試験で貴重な時間を取られるのは彼らなのだ。各、教科の全国での偏差値など知りたいのは、子供達自身であることだってあるだろう。私がそうだった。難関私立の中高の入試試験と、この学力テストは傾向が違うかもしれないが、偏差値などに全く相関がないとするのも変である。私は学校や教育委員会や文部科省が知るより、親が知るより、子供本人に全国での偏差値を教えてあげたい

面白いことに、紙面広告で、四○大○進学教室の全国テストの広告があった。前にも言ったが、私も小中で受けていた。結局受験は大学しかしなかったが。皮肉ではないか。

社説で、前から、15万人を抽出して行う学力テストがあるとされるが、もしその受験生徒だけに情報が与えられたらそれこそ不公平だし、そうでないなら、受験生は時間を取られて不公平になる。おかしいではないか。

私は米国等の事情は知らない。しかし私は全国テストは公費であっても良いと思う。その利用の仕方の是非観が硬直的で、はなはなだオバカとしか言いようがない。

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2007年4月22日 (日)

大学の国際化

22日朝日朝刊。米テンプル大学日本校が日本の学校として大学を設置するとのこと。

私は米国の大学事情を知らない。米国でも昔とは変わっていることもあるかもしれない。必ずしも進歩とは言えない変化もあるかも知れない。

望ましいのは、例えば、テンプル大学に在籍していても、学生が教授をしたって望めば、ハーバードやMIT、バークレー校などに、比較的、自由に転入できることである。逆も勿論である。日本研究の場として、テンプル日本校に転入したがる学生がいても良いわけだ。他校の教授に認められる根拠としてテンプル大学の看板で、学生自らの力量をアッピールできる環境であるべきだろう。本当は日本の大学もこうした環境であるべきだが、テンプル大学等が刺激になってくれればとも思う。私は、日本での学位が習得できることもさることながら、こうしたことが重要だと思うのである。

逆に、日本の大学が、もっと米国での開校に積極的であるべきかなとも思う。それには、例えば、早稲田米国校などが、日本の京大、慶応に転入しやすい窓口でもあるべきなんだろうと思う。

日本国内の大学のあり方の、改革が必要ではないかと思う。

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2007年4月17日 (火)

箱モノ行政のていたらく

17日の朝日朝刊。「ハートピアきつれ川」の記事。補助金を流用した全家連幹部の体質も問題があるが、そもそもの原因は旧厚生省にあったとしている。厚労省は補助金回収のために財産を差し押さえて全家連を解散するか、補助金免除で税金の無駄遣いを認めるか、自らの失策を認めざるをえない立場にあると結んでいる。

私も、記事を読む限りそうだなと思う。同じ厚労省関係でもグリーンピアもそうだし、いわいる箱物で、他省庁でも似たりよったりのことが、あまりにも多そうである。

別に根拠があるわけじゃないが、こういう立地に意味のないのところで事業が推進されるのは、土建業と代議士なんかも、からんでくるのだろうと思う。

そして、日本のどかかで、今でも、懲りずに似たことが進行しているに違いないのである。

私は、車に幼児を置いて、買い物をしたり、パチンコに興じている親が、あとをたたなく、幼児を死なせる事故を聞くたびに思う。新聞とかニュースとか、生まれてこの方、見聞きしたことないのか。そんな連中としか、交友がなかったのか。

同じように、これからも。「ハートピアきつれ川」のような記事を読まなければならないのら、有権者というのも、幼児を車の中で死なせてしまう保護者と、なんら変わらないのだと思う。

もし建築家を夢見る人がいたら、いな建築士でも、自分は建物を設計するだけで、きた仕事は糧のためには受けるというだけでなく、このような仕事に関わるのは恥として欲しい。施工監理技士だってそうである。そうでなけば残して誇りになるような仕事ではないだろう。仕事の背景を多いに詮索すべきである。でなければ、他の仕事に較べて、知的理性的でもなんでもないのだ。人に信頼される職業にはなりえない。

漫画「お味しんぼ」だったか。料亭も経営する料理人、魯山人は、食材を探求することにおいて、環境問題とかその背景も真剣に洞察していたそうな。衣食足りて礼節というが、足りていても、自分にすら嘘をつくという、心がいやしいことを嫌ったのである。真の芸術家と職人魂は、ここで最大の共通点を見出すのだと思う。科学者の真髄も同じである。

官庁の連中、群がってくる、土建屋、代議士を見下しているのだろう。しかし、そんな連中を毅然と一喝するのでなければ、かれらの数倍もいやしい人間でしかないのだ。大学教授とかもそうだが、東大とかは、いやしい人間の製造工場かとも言いたくなってしまうではないか。

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2007年4月16日 (月)

学力テストとか

うろ覚がえだが、最近でもときどき、中高などで全国学力テスト県内学力テスト実施の是非なんか新聞記事になるようだ。

私は受験で、大学入試では浪人したこともあって予備校にはいったが、基本的には塾とかの世話にはならなかった。ただ、大学受験はもちろんのこと中学受験、高校受験では模試というのは活用した。中高に関してはそれで公立で良いやという結論にした。経済的には無理すれば私立一貫校にいけたようだったが、大学受験を経験した方が自分の為になると判断したし、同時に当時の灘・開成なんてのは、とても自分の世界ではないとも実感した。目指したら自分が壊れると思った。まちがいなくこれは正解だったと思う。私はそれで壊れた人間を身近に少なからず知っている。こういう判断ができるのも、世に模試というのがあって、それを活用できる見込みがあったからこそだったと思う。

私はたとえ中学生であっても、親に言われるまでもく、自分の学力の位置づけを知りたいというのは、ある程度、当然のことだと思う。人生というほど大げさなものではないが、中学生でもそれなりの、その時なりの自身の戦略というのはあってしかるべきだと思う。自分のことは親でも教師でもなく、自身が知るべきなのである。私は親や教師への情報ではなく、私自身が知りたいから模試とかに向かった。そうであるべきだと思う。自分は例えば1日2時間、4時間、独学したらどこまでの水準なるとか知ることは大切だと思う。それは適性を知ることなのだ。小難しい小説を読むとか、アインシュタインの仕事を知るのは大学生になってからでいいやといわずに、今読まずいられない中学生とかでも、それでも押さえておきたい情報はあるべきなのである。そのためには、とりあえずこの辺で手をうっておくという自分なりの規定学力ポジションの把握・維持、自分のなりの適切な規定学業の手抜きどころを常に正確に押さえておく必要があるのだ。そうしたクールさのない、がむしゃらになんでもかんでも勉強しなくちゃではダメなのである。豊かな精神生活を送るための生涯の適切な戦略を持ちたい。

模試だって、塾や予備校に行くほどじゃないしても、金はかかる。生活に困っている家庭だとその出費が出せないかも知れない。各人の母校というのは学力にバラツキがあって、学内の成績だけでは戦略がたてられないのが現実である。学業に良い資質があるのに、その子が不利になるのは日本にとって、小さくない損失だと思う。

位置づけなど気にせず、行きたい学校にいけば良いじゃないか、受けたい学校を受ければ良いじゃないかというのは無責任だと思う。自分なりにどこまで努力すれば、とりあえずどこに落ち着けそうかというのは大切な情報である、正確でなくてはならない。その戦略にもとづいて、彼女彼氏とデートしていられるか、クラブ活動をいつごろ引退するかとかを決めなけらばならない。デートもクラブ活動も大切なのである。小・中・高とそれぞれに人生に1回きりしかない大切な時期なのである。後で体験し直せるようなものではないのだ。中学でアインシュタインの世界を知ったというのは、後では体験できないのだ。それは大人になって知ったということでしかない。各人にあった合理的な過ごし方をしなけらばならない。必要に応じて頑張る、必要以上に頑張らない戦略が必要である。学業・学問というのは人生の後半に向かってこそ頑張りを強化すべきものなのだから。

学力テスト等に関して学校関係者は、まったく、生徒の立場を考えていないように感じるとき、強い憤りを感じるのである。正直、担任教師の中途半端な分析より、業者が中央ではじいたコンピュータの分析結果の方が大切である。

はっきりいって、学生にとって現実、必要なのは学力模試ではなくて、実質、入試模試である。家庭の経済事情で、情報戦に不公平があるのは、どんな素質・資質にどんな学業環境を与えるかということにおいて、日本の競争力強化上喜ばしいことではないのだ。

施設(昔なら孤児院)にいるような子でも、あるいはどんな辺境で育った子でも、入試模試等の成績が抜群なら、私に将来経済余力があるなら、支援したいと思うのである。必ずしも努力自体を評価するのではない。あくまでも持続性のある良い結果を生む可能性を評価するのだ。能力のゆとりと言っても良いかもしれない。無論、生涯を通じて、ここでやめるとか言わない努力持続力の資質も買いである。ただ人生の初期に極端な無理があった者は投資対象として私は疑問である。そう正確に言うなら支援というより投資である。正確な情報は大切だし、それは機会(チャンス)でもあるのだ。こうした子達にも積極的に参加してもらって、難関校をより難関校にすること、必ずしも将来の日本にとってマイナスになるわけではないと思う。

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2007年4月15日 (日)

全国学習塾協会の講師資格制度

4月15日の朝日朝刊の小さな記事。全国学習塾協会で塾講師の能力検定制度を実施するそうな。

私は、協会の制度で、官製資格でないので、良いかなとも思った。

官製資格というのは、その資格者が提供するサービスを享受するものの利益を忘れて、省益に走り、利用者不在で、すぐに、ミスマッチな制度を放置して世の中に、無責任な迷惑をかけるからである。制度の為の制度にしかならいからである。制度維持者、得体のしれない時代ミスマッチの試験官らの怠惰な都合の制度にしかならないからだ。

前にも言ったが、コンピュータ関係でも、官製資格の存在意義は、はなはなだ疑問である。マイクロソフト社、Java関係などでもサン・マイクロ社、IBM系のベンダー系資格じゃないと意味がないように思う。そもそもプログラマー系などは資格などに頼らなくても、その力量を示すのは歴然と判りやすい。

官製資格などは、いい加減な経営者がクライアントからボッタクルぐらいの目的としか思えない。

同様に建築士制度も、現状では、日本の建築の品質向上、世界の手本になるような志向とはほど遠いと思われる。

ただ、この塾教師の業界資格、塾生や保護者に対する振る舞い方や、身だしなみ、などを学ばさすそうな。

塾に子供を行かせたいという思う親は、心の中では、その成果で、あわよくば、その子を東大や慶応なんかに行かせたいと、思っていることも、少なくないかと想像する。

そのような可能性のある子供に対しては、そのような成功体験がある講師の方が良さそうに思うのは、自然でもある。いきおい東大や慶応の学生や卒業生の講師賃金の相場が相対的に高くなる。

 もっとも東大や慶応で高度な勉強ができるような学生が、入学するに独学でなくて、塾や家庭教師のせわになったからというのは、疑問ではある。受験するに、戦略的に自分の位置づけを知るに全国模試等を受けるのは、当然と言えば当然ではあるが。その結果をフィードバックして、自らの独学方針を立てられてこそ、東大や慶応で学ぶ資質にふさわしいと考えるのが自然かと思う。社会に出ても、期待されるのは、たぶんに、この能力の延長上かと思う。そして少ない労力でそれを成しえたからこそ、使える人間ということになるのも、事実なのである。実社会で無理をすれば、過労死になるだけである。官庁というのは、過労死を防ぐ、鉄の相互扶助体制があるようだ。だからあの連中は、あの時にしか努力しないのである。天下りで、こうした人材を押し付けられる民間はたまったものではない。それを補う社会のムダな代償は小さくはない。

学習塾業界も少子化で、今後経営も厳しくなるだろう。労働賃金相場を低く抑えたいところである。何か父兄にとって、生徒達にとって、詐欺的な事情も、うかがってしまう、この制度かなと思ってしまうのである。

いくら安くても、ムダなこと、まして全国学習塾協会などにだまされて、高値でつかむのは、消費者が気の毒でもあり、日本の貴重な労働力配分上も、国際競争力を損なうと危惧する。

日本の就学受験生を持つ親などに、忠告しておきたい気がする。

そう言えば、私が敬愛してやまない、女優、菅野美穂さんは、高校後の進路に関することで、恩人として、世話になった塾の先生だかを紹介されたことがあったように思う。こうした、全国学習塾協会等の都合とは、遠い話だと思うのである。

運が良ければ、学校や大手塾から正しくスピンアウトしたような人が、教壇に立っているような塾で、思いがけない出会いがあるかも知れない。ただ結局は、その子次第でしかないとも思うのである。

我々が、本当に必要としているのは、正しく「世界を変えられる」制度なのである。真に必要な制度というのは、全くもって、多くはないのであろう。

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2007年2月24日 (土)

くだらん亡国、教育再生

私も、子供のころは、いろんなものに、あこがれた。電車の運転手とかおまわりさんとか、大工さんとか。ヒーローにもあこがれた。

本とか読めるようになると、伝記を結構読んだじゃないかと思う。結果的には、ナポレオンとか戦国武将より、学者、芸術家のそれを、沢山読んだ。学者は科学者が多かった。また科学史、芸術史も結構、読んできたと思う。

ミケランジェロ、ダビンチ、ゴッホ、北斎、ベートベン、ライト、コルビジェ、アアルト、グロピウス・・・・

野口秀雄、湯川秀樹、アインシュタイン、ガロア、・・・

 国づくりには、教育が重要だと言う。異論はない。国から偉大な人材を出したいと思う。しかしである、私が伝記を読んできた感触すると、偉大な人間にとって、教育は重要でないということである。

 はっきりいって、小中学校の教師が、得に恩人という偉人は、まず、いない。大切なことは、いかに早く、あるいは、くだらない先入観無しに、その才能を見出す環境が、あるかということだろう。偉人は自ら、社会と闘っているし、彼らの恩人は、彼らを、場合によってはしぶしぶ、仕方なく見出した数少ない先人である。

 小中学校程度で、良い子と言われるような子から、こんな偉人は今後もでそうもない。こうした偉人がでるかどうか、小学校、中学校の教師の能力は全く関係ないだろうと思う。頼ること自体が才能がないという証なのだろう。素質のある子にとって、教師を頼らずに、教師に邪魔されずに、独学できる環境を整えることが重要である。

各国の数学界、物理学会など、会員費をとらないと、論文とか読めない、出せない。これは各、学会のいやしい、さもしい知的弱者の都合なんだろうと思う。学会、文部科学省などはインキュベータというより、無能者同士の相互扶助たかりでしかない。

天才というのは、ほとんどの鈍才の学者が生涯、一日20時間研究していることより、20代に、一日15分くらい、過去の先人の成果に目をちらっと通すだけで、その先が判ってしまうものなのだろう。幼少の頃からの訓練も必要としない。いきなり才能が発現することもあるようだ。

教育再生会議。いったいなにがしたいのか。くだらん。小中学校の教師なんか、犯罪者でない限り、ほっといたって良いじゃないか。ごくまれにいる天才の子が、くだらん凡庸な子弟のひがみで、邪魔されないように唯我独尊でいられるように監視するのが必要最小限の勤めである。現代的な意味で、国の学術出版的な水準が衰えないことこそに、最新の注意を払って欲しい。それが日本人にとって豚に真珠、猫に小判、外国の秀才の利にしかならなくたって、仕方あるまい。

何かに、才能がある子を、同じく素質のある子達と遭遇させて、互いに磋琢磨させること、我々が天才と見込んだ子でも天才に会って、そうでないことを知ること。そのような機会を与えるに、小中学校の教師、教育委員会の印象が良いなどに影響されては、害毒極まりない。

今の中国には、教育で致命的な欠点があるかと想像する。だから発展は限定的だろう。小中学校程度で早期に選別しすぎるのである。あの状態では、中国から第二のアインシュタイン、ガロアを輩出するのは難しい。日本、韓国等も同様である。

天才は国の宝である。我々、凡人が支える国の発展に時間を節約してくれるのだ。天才がどの親の遺伝子から生まれるか?だぶん、誰にも理解できない。神様があまり関心を持たなかったこと想定外のことなんだろう、自然界で優性遺伝の範疇ではないのだろう。

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2007年2月23日 (金)

出典とウィキペディア

米国の大学で、大勢の学生がレポートで引用した「ウィキペディア」の内容が間違っていたという、新聞記事がある。

私は「ウィキペディア」初心者で、これから大いに活用したいとも思っていたので、ちょっと痛い。

ただ、思う。こうした事態にあって、大学教授がなすべきことは、「ウィキペディア」を学生が活用?したことが、みえみえであっても、利用したことの是非を問う前に、その間違った内容を、ボコボコにして学生を大いに恥じ入らせることが必要であろう。

「ウィキペディア」のことは、まだ良く知らないが、執筆者は匿名なのだろうか?。(そのように感じる)

私は、匿名であることに、問題はないと思うが、その知識の出典は明らかにして欲しいなと思う。「○○年にアインシュタインが唱えた」というのも出典なしに言えることではないはずだ。

私は論文やレポート、あるいは、このブログのようなものでも、少なくとも記憶のあるに内に、影響を受けた活字にもとづく内容なら、出典は明きらかにしたいと思う。「ウィキペディア」が出典でも良い。仮に「ウィキペディア」に出典○○とあっても、読んでもないのに、自分のレポートにそれを出典にしてはいけない。これがルールだと思う。私はあまり水準の高くない工学系の学術学会の論文を読んだりする機会があるのだけれども、ええカッコしいの、見せ掛け出典記述が横行している。(出典の出典を出典にする)。出典が多ければ自分が読書家とアッピールできるかと思っているのだろうか?なげかわしいことである。自らのレポートとの対応関係を明確にして必要十分な出典に絞りきれていないことこそ恥ずかしい。経験上、内容が素晴らしい書籍、論文は、これがしかっりしている。読んで時間の無駄だったと感じる書籍はここがダメなのである。

「ウィキペディア」は痛快でもある。これがどんな既存の紙媒体の辞典より水準が高くなり、記述内容のレベルも、三流教授の三流講義内容よりも高度であると実に楽しい。勉強することの目的の1つが、「ウィキペディア」の内容がスラスラと吸収できて、自分の頭の中の体系にカッチと納まることであっても良いだろう。

国民が高度に「ウィキペディア」のようなものを活用できること、国力の1つかと思う。

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2007年1月27日 (土)

教育幻想と大学の淘汰

安部政権も教育再生を目玉にしているし、ジャーナリズムも当然取り上げている。また教育関係の不祥事も多い。国として教育が大事もわかる。

例えば、大学教育と初等教育の両端、それぞれに考えるべきことだろう。

昨今の論調をみるに、ジャーナリズムにしても、政治にしても、本質をつくという意味では、大勢の国民の心情を配慮せざるを得ないという意味で、おのずから限界はある。これは世間では、社交辞令的な会話では、はばかれるものの、結構みんなも、判っていることだろう。新聞がつまらなくなっているのは、大衆的であるのは結構なものの、これに気付かない、知的弱者が主たる読者になっているせいとも感じる。週刊朝日、サンデー毎日かなんの大学入試偏差値特集や東大進学高校ランキングなんか読んで、ヤンキーなパパママに優越感を感じても、所詮は大衆オバカな父兄だと思う。

まんず、初等教育は大事なのだが、それが大学を目指すということに、間違って悪い影響を受けていること。その目指すべき大学が、なんかおかしいということである。

この、現況の1つは、大学というのが供給者論理でしか動いていないこと。そして世間が教育幻想から目覚めていないことである。そもそも、大学生、大卒の高卒生にたいするパーセンテージは大学の教授の講義、授業を受けて意味のある学生のパーセンテージをとうに超えていると思う。このあるべき大卒のパーセンテージが上昇にするには日本人の生物学的な進化が必要なのだが、50年、数百年でそれはない。これを知らないのが教育幻想の1つでもある。そして、今後、そのパーセンテージの絶対数はどんどん減少していく。だから大学の数とか、教授とか大学関係者の数は、いらなくなってくるわけだが、今の日本は、供給者論理でそれを欺いて無駄をしているわけである。このままでいくと、卒業証書を持っていても、趣味、てなぐさみ以上の価値はない大学があふれるという現実を直視してない。あるいは、まじめにやったとしても、高校の中学の補修で終わってしまう大学も出てくる。こんな大卒を、年齢くっているからというだけで、昔の高卒の初任給より高い賃金で入社させるわけにはいかない。むしろ能力が低い分、昔の高卒中卒の同年齢と較べても賃金が割高になる。

東大だって、卒業生の数を絞らなくては、昔の東大卒より、期待値は下がっているのが理なのだ。人口と進学率の関係で、どこに能力期待値のピークがあったのだろうか?バブル前に定年退職したあたりの世代だろうか?今のテレビタレントの中には、その生きた証のような者もいるようだ。

大学で学ぶことの意義というのは、昔から一意ではないだろう。しかし大事なそれというのは、その時代なりにある。また現代では意味のないものもある。専門書籍というのが、まだ一般でなく、高価な時代だったときの大学の講義の価値と、今のそれとでは違うだろう。現代は、くだらない授業をし続け、蛸壺学会にくだらない論文を出す、あるいは連名で学生で書かせるしか能のない、まともな書籍を世に出せない、ろくでもない大学教授があふれかえっている。教授にして、そうなのだから、学位など言うに及ばずである。

日本の将来に為にも、良い大学のあり方というのを真剣に考えるときなんだろうと思う。それがあるべき初等教育にも、少なからず影響を与えるはずだ。

外国は、こうなのに、日本は・・・という話は良く聞く。私は外国の事情は知らない。また外国も、刻々とよくも悪くも変わっていると思う。正しいことは、自分達で考えることも必要だと思う。

私は、学部、学科にもよると思うが、大学ともなれば、学生一人当たりの教授の数とかは、多ければ良いってものじゃないと思う。正直、少人数教室で変な教授にあたっちまったら被害甚大である。むしろ、時の人である教授の名声で、優秀な学生が大講義室に集まっている大学の方が良い場合もある。自分が目指そうと思っている分野で、自分がチンプンカンプの講義に同年輩の学生が教授とツーカーで論議しているの聞いて挫折するのも良い経験なのだ。そしてその分野をあきらめるべきである。井の中の蛙にならなくて済むのである。

マイナーな大学で、井の中の蛙で天狗になっている学生がいたら、そういう一流の大学に学生を行かせて鼻をへし折るというのも、教授の大切な役割の1つだと思う。今の日本なら鼻をへし折られるのが一流に入学できたと思っている学生の方であっても良い。

日本において、このような状況にしまいというのが、日本の教育界の供給者論理の悪さそのものなのである。

大学よ倒産せよ、キャンバス建設投資をやめよ。海外一流校を誘致せよ。

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2007年1月 8日 (月)

日本学生支援機構の崩壊?

1月8日朝日朝刊。前身が日本育英会だった日本学生支援機構の奨学金未返納の記事。05年は2575億円が返還予定だったが、未返還は2割にのぼった。無利子の場合、月4万~6万円を10年間で毎月7千円~1万8千円で返すことになる。延滞1~2年の理由で無職・失業が20.3%と急増している。失業や病気による返還猶予の手続きなどをしておらず、返す能力があると見られるのに応じないものがいる。

奨学金で、学費のどのくらいの割合になるのか、正確な事を知らないが、金のない優秀な学生に、できるだけ学業に専念できる額を支給して欲しいところである。大学別の状況なども公表すべきかと思う。踏み倒すような卒業生を世に送るために、その大学の関係者が禄を持っているというのでは、おかしいと思うのである。奨学金というのは、本当は学生の為ではない。お国の為の物である。まして大学の経営ためにあるのではない。外国のことは知らないが、そもそも各大学横断で無責任に公平を気にする奨学金制度など、おかしくないだろうか?各大学は淘汰をまぬがるれる聖域では全くないニーズがない、というよりニーズがおかしいものは存在し続ける必要がない日本学生支援機構の崩壊も、あってはいけないとは言えない。意味のない大卒気分、院卒気分の労働力が、日本の質を低める。その気分につじつまを合わせる為の外国人労働力注入を許したくない。過渡的には、同時代で平均大卒の生涯収入を、楽に上回る優秀な高卒、中卒者がもっと多くいて良いだろう。というより、しばらくこれからの日本では、半分以上の大卒は生涯収入が彼らに下まわってこそ自然かとすら思う。輝かしい中学、高校生活の思い出は、くだらない人間との出会いしか待っていない、くだらない大学生生活を補ってあまりあることは保障できる。

あの年齢でまだ学校に行っているなんて、学校に行かしているなんて、道楽、ごくつぶし、だというのも、永遠に普遍的に真実の部分もある。正社員が大卒以上ばかりの企業というのも、おかしいのである。

向上の余地がないロートル勤労者を、しかたなく定年まで限界までこき使うより、若い勤労者から、例えば進学準備とか、芸事の探求とか、自己向上研鑽の余地がないまで、こき使い拘束することは、非常に悪しき事である。若者こそ、オヤジのケチなのみにけーしょんなど振り切って、定時にはさっさと帰宅して、研究、思索し夢を達成されたし。

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2006年12月30日 (土)

構造設計1級建築士。朝日社説

12月29日朝日朝刊。社説。耐震偽装。まだまだ安心できないとのこと。構造設計1級建築士や設備設計1級建築士が設けられたことについて、それなりの効果があるだろうとしている。そうだろうか? 朝日新聞は何を知っているのだろう。何故、何の根拠で前段階の1級建築士の製図試験等が必要だと思っているのか?それだけでは、建築行政への不信感は解消されないとはしているが。

建築士というのは本当にひどい国家資格だと思う。消防士になるには、前もって警察官であることみたいな資格だ。結局、両方とも馬鹿にしている。両方とも馬鹿にしていい仕事だと言っているようなものではないか。

どこまで、行っても、地震国日本でコンクリート建物等を作ることにおいて、従来通りの、無責任を責任所在不明を守りたいという、見上げた執念を貫き通している。

朝日新聞も読売新聞も、それをあたたかく見守っている。そんな構図である。

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2006年12月26日 (火)

昨今の教育関連新聞報道のていたらく

 「いじめ」や「自殺」も、新聞はだいぶ下火になってしまったように思う。しかし、本当に書き切ったのだろうか? 今ままで新聞が書いていたことで、読者は納得できただろうか。なにか違和感が残る。結局、朝日も読売も、極めて保守的でしかなかった。各方面に変に気を使うだけで、思考と言えるものはなかったと思う。役割を果たした言えそうな、執筆ではなかったと思う。

 いじめで苦しむ、子供達に、著名人が呼びかける形の連載。あんなものに、どれだけの価値があるのか。便乗で紙面を埋めるだけの手抜きではないのか。購読料を払うに十分とは言えなかったと思う。なにか全ての記事において、記者魂というのが感じられないのである。「新聞は、記者は死んだ」とも言いたくなる。

 いじめから、自殺。これは、ケース・バイ・ケースだと思う。

SAGAさんも、「いじめられている側の問題をなぜ指摘しないのか?」

という記事を書いていて、これも見過ごせない側面であろう。

[子供の頃に弱き心をそのまま放置しておく、弱いものをただ守るだけで強くしようとしない、そういう過保護な姿勢にあると思う。]

記者は子供を失った両親に気遣うあまり、この可能性の検定を放棄した。怠慢かと思う。

勿論、他のケースもある。私は仮説検定として、いじめ自殺を生む学級と、学級崩壊の関連も知りたかった。

ネットで"学級崩壊"を検索すると、今の新聞より情報の質は高い。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説も、今の新聞が扱うより水準は高いと思う。

何故、この仮説検定に興味があるかと言うと、私が子供のころにも、いじめはあったけど、学級崩壊というのは、なかったからである。自殺も、闇に葬られたものはあったかも知れないが、目だってなかったのは確かだ。我々が子供のころは、なかった、この2つを結びつける可能性を仮定することは自然でもある。記者の怠慢を感じる。

『ウィキペディア(Wikipedia)』でも、学級崩壊の記述の中に

近年「教師が自分の指導が通りにくい子を軽度発達障害児扱いしているのではないか」という説が一部に存在している。 しかしこういった説を唱える者は、学級崩壊といった今の教育現場を知らない、社会学などの学者である場合が多い 教育現場にいる者及び教育分野に取り組む医者の間では「軽度発達障害が学級崩壊の一つの要因になりうる」というのは一定の支持を受けている。

とある。今回も、新聞は「いじめ」「自殺」でもまた、社会学などの学者、あるいは社会学者風の教育関係者の意見などを多用するばかりで、この愚を再犯してたと思うし、反省が見られなかった記者が本当に自分の足で個別に十分にあたった痕跡はなかった。怠慢・無能である

『ウィキペディア(Wikipedia)』とか様々な見解や報告を、自分でネット調べないで、新聞ばかり読んでいると馬鹿になる。そんな気がする、昨今の教育関連の新聞報道であった。

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2006年12月16日 (土)

笑止・噴飯? 1級建築士専門資格創設法案成立

私が建築士制度について記事を書いたのは9月11日が最後だったが、1214日朝日朝刊に、構造設計1級建築士・設備設計1級建築士の専門2資格を創設する改正建築士法が、13日、衆議院本会議で可決、成立されたとの小さな記事があった。

2年以内に施行されるそうな。具体的な法律の詳細は記載されていない

忙しくて新聞に目を通していなかった時期もあったかと思うが、9月以降、朝日新聞朝刊、読売新聞朝刊で、この問題を取り上げていた記憶がない

ブランクを埋めるためにもネットでちょっと調べてみた。

共同通信では11月30日時点で、建築士の業務の専門分化に対応するため、5年以上の実務経験があり、講習を受けた1級建築士を対象に国が構造設計1級建築士 設備設計1級建築士を新たに認定。高さ20メートルを超える建物などは、原則として認定を受けた建築士が構造設計や設備設計する。と報じていたようだ。

共同通信社10月24日付けで、ネットで以下の情報も流している。

政府は24日の閣議で、高さや床面積が一定以上の建物の構造や設備設計を行う専門の建築士を認定する制度の創設などを盛り込んだ建築士法など3法の改正案を決めた。今国会に提出、成立から2年以内(一部を除く)の施行を目指す。 耐震強度偽装事件の再発防止策で、6月の建築基準法などの改正に続く第2弾。 建築士法改正案では、構造と設備で5年以上の実務経験があり、講習を受けた1級建築士を「構造設計1級建築士」「設備設計1級建築士」として認定。高さ20メートルを超える建物などの構造設計と、3階建て以上で延べ床面積が5000平方メートル以上の設備設計などは専門の建築士が行う。 建築基準法改正案は、建築士が設計した木造2階建て以下の建物について、耐震性などの強度審査を省略できる特例を廃止、建築確認時の審査を義務付ける。

 建設業法改正案では、分譲マンションの工事業務などを一括して下請けに出す「丸投げ」を禁止する。

建通新聞社でも12月1日で報じている。付帯決議には建築設備士の有効活用設計報酬の適切な見直しなどを盛り込んだ。としている。

「構造設計1級建築士」「設備設計1級建築士」1級建築士をベースに構造分野、設備分野の専門性を認定し、一定規模以上の建築物について、資格者による関係規定の適合性チェックを義務付ける

建築士事務所に所属する建築士、構造設計1級建築士、設備設計1級建築士には一定期間ごとの講習受講を義務付ける1129日に開いた衆議院国土交通委員会で国土交通省の榊正剛住宅局長は「定期講習の受講は3年ごとを想定している」と答弁。また定期講習では修了考査を行い、「不合格となった建築士には再受講を求める」との考えを示した。

施行日は原則として公布から2年以内。ただし、建築士法のうち構造設計1級建築士、設備設計1級建築士による適合性確認などは、施行日から6カ月以内に適用開始する。

と報じている。

また、10月24日付けだが、日経住宅サーチというサイトでは、

設備設計3階建て以上・床面積5000平方メートル超の建物について、新資格の建築士による設計か、法に適合しているとの専門家の証明を義務づける。

とも報道している。

この専門家というのが、建築設備士、1級管工事士、関連技術士のことなら、いくぶん建築設備技術者等は救われるが、今のところはっきりしたことは判らない。

結局のところ、建築士制度というのは、もともと、土建国家日本特殊性でおかしなものだったし、大学等の建築技術教育明治維新から、国際的におかしなもので、大学の建築学科改革なんかも手付かずということだと、小手先の改正では、よけい改悪でしかないということだろう。この点は、医療・医学、法学とも事情が異なる。さらに、日本だけの問題だけでなく、国際的にも、現行の建築産業・建築教育等が時代にミスマッチということに対応するにもほど遠い。さらに建築構造技術に関しては日本が有数の地震国であるという特殊事情が重なる。

ネットで調べた手ごたえとして、従来の建築構造技術者、土木構造技術者よりも従来の建築設備技術者からの反発の方が大きいことが上げられる。発端を耐震偽装問題と捕らえると、トバッチリと考えている向きもあろうかと思う。そもそも従来、実力のあるダメ出しを生じない、クライアントに対し説明能力のある建築設備技術者は、建築学科、機械学科、電気学科と出身に関係なく、資格ありなしかかわらず、実務においては実質的には建築士等は眼中になかっただろう。建築士は設備に関してデタラメ、適当、生半可を言う傾向がありそうだ。良くてカタログ・業者営業の受けうりである。

一方で、構造技術者が、今回を自らの地位確立の機会と、十分に反発しなかったのは、能力と責任を建築士の名の下で、あいまいしておいた方が得策と考えたフシも考えられる。

普及し得る耐震技術等で、建設市場を冷え込ませないだけの、信頼根拠がないのだろう。学者レベルからしてそうなのであろう。ようするに、技術者として主体的に責任を負える能力に自信がないのだ。従事している根拠が自らの技術者の資質・見識に基づくものではなく形式的な他力本願なのである。まず地震国日本において、非地震地帯である欧米と遜色なくコンクリート建造物をつくることありきに抵抗する術を持っていない。疑義を感じるほど、本格的な能力を発展させてはいけないが前提だろう。ようするに建築士がオバカでいた上で、世間様には建築士のやっていることに疑問を持つなということなんだろう。建築学科等を支える、ごく一部を除いた、やたら数が多い、決して直接には責任を負わない、無能な学者達クッションとしての制度でもある。

この点も、先端見識を国際動向と見劣りしないように、心がけなけらばならない、医学、(日本ではITが著しく劣ってはいるが)衛生学、法律学、会計学、財政学、検査分野、測定分野等の学問とその関連資格等とは事情が異なる。

私は、もし建築構造設計や建築設備環境の設計者を1級建築士の中から選んだら、水準の低い者から選ぶ、カスの中からカスを選ぶと言ったが、まさにそんな感じにもなりそうだ。

しかも試験でなくて講習でとなれば講習受講料目当て、しょうもない講師の雇用創出天下り先創出と疑われる。しょうもねぁなと、旧1級建築士試験に付き合って着実に構造設計の研鑽に努めたていた方々はやれやれという感じだろう。ちゃんとした構造設計技術者であれば、適性のない他の1級建築士では、太刀打ちできないようなまともな試験を課して欲しいと願う、ところではないだろうか? そうしたちゃんとした構造設計者を雇っている事務所にとっても、講習の時間の経済ロスは大変なものである。

建築士試験と言えば、「日建学院」「総合資格」という2大ガリバー受験産業企業があるそうな。試験会場だろうか? 駅から会場まで、受験生相手にすごい営業活動の列を見たことがある。来年また受験する人とか2次製図試験対策の受講生をつのっているのだろう。特にT定規で鉛筆の2次製図試験受験講座がドル箱なんじゃないだろうか?

助成金があるのだろうか?何十万円もする授業料だそうで、大問題でもある。

ネットでは、財団法人日本建築センターというのを問題にしているところもあった。建築技術教育普及センターなどもあり様々な癒着等を想像させる。

今回の圧力団体としては、既得権者である1級建築士らより、これらの団体が凄かったのかも知れない。

設備技術者のお立場から11月6日時点で、以下のような意見が掲載されているブログ(建築設備雑談掲示板)もありました。

大企業では既に一級建築士を持っている人に設備(構造)設計一級建築士を取らせて、名義を使うだけ(今までと一緒)、中小業者にしても、この先団塊の世代が定年を迎え、フリーの建築士が巷に溢れ返ります。そうした人たちを設備(構造)設計一級建築士に仕立て上げ、嘱託扱いの安い給料で雇い入れれば何の問題もありません。

反論もあったようですが、私はそうしても良いし、そうすることが、クライアントの利益になると思われます。今回の専門1級建築士の存在は対価報酬、安心に値するものとは思われません。建築士制度(同時に日本の建築学科等)は(起源・素性が露呈して)そこまで地に落ちて救いがたいものになったとの認識段階かと思うのです。依然、専門であれ、そうでなきにあれ、1級建築士の背後に、ちゃんとした構造設計技師、設備環境技術者等がいないことが心配です

私は、前に述べたけど、視覚芸術の興味の一環として、美術史の1つとして建築、建築家について、少なからず勉強をしたことがあると言いました。と同時に勤労者として一応、現役の技術系だし、さらには自分の分野で、より良い科学技術者でもありたいし、将来、引退、隠遁できたならば、ネットで、良い勝手教育者のまねごともしたいと思っている。その立場からも、この建築士についても、今後も見守っていきたいと思っている。

ただ、これは言えると思う。建築士というのは、今回もダメで、よほど大きく変革しないと、それをもっぱら商売道具にして生きるという意味では、相対的にもっとひどい低額所得者にならざるを得ないだろうということだ。また多くの建築学科、土木学科はどの他学科と較べても数多く、実質閉鎖に追い込まれるだろう。不人気学校ならなおのことである。

私は朝日新聞、読新聞等が関連をあまり取り上げないのは、おおむねそれを予測しているからだと思う。批判すれば、日建学院、総合資格、建築教育普及センター等の営業妨害になり(それは正義かも知れないが)、肯定すれば、大枚をはたいて、時間浪費して資格取得したものの収入にならないという、サギまがいの国家の資格商売に加担したことにもなる。触れるにリスクが大きすぎるという、大局的な見地を持っているのではとも想像してしまうのである。とるに足らぬ些事として無視したいのではとも思うのである。

以下は今回、参考にさせて頂いたサイトです。ありがとうございました。

晴天とら日和:「耐震偽装隠蔽問題」安倍晋三は、そも、なにを考えているのだ?! - livedoor Blog(ブログ)

外郭団体等、天下り先との関係。メディアへの不審。私と想いを同じくすること多々。

10月30日の

人事のブレーン社会保険労務士日記:

建築士の新免許という記事。

医師、弁護士の資格についても触れられています。

再発防止へ改正法案閣議決定 - 不動産で絶対後悔しない!!()エストサービス代表 榎本 正次郎のブログ - 楽天ブログ(Blog

耐震偽装問題は毎日新聞が一番取り上げているそうな。

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2006年12月12日 (火)

教育委員会

12月12日朝日朝刊。「教育委員会」制度の記事。なかなか良いと思う。

ネットなんかでも教育委員会とはなんぞやという情報もあったが、あらためて解説してくれている。すなわち、もとをただせば、戦後連合国軍司令部GHQ主導であるものの、戦前の国家主義的教育の反省から生まれたものであり、分権色の強いものだったが、その後の制度改悪で、形骸化、悪しきものへと変貌していった経緯が示唆されている。当初は「教育の地方分権」と「民意反映」を柱にしていたのに、自民党による55年体制の一環として、委員公選制の廃止、国、都道府県による教育長の任命承認制など、どんどんおかしくなっていった。

自民党が55年体制下で、問題にしたのは、教職組合員が組織票で教育委員になり教委を牛耳っているとの認識だった。いわゆる日教組問題である。

確かに、日教組のピークでは、内部腐敗もあって、悪しき教師も生み出したと思う。だが48歳の私が小中学生だったころはまだ、かつてのGHQ主導とは言え、新しい民主主義の理想に燃えた教師も多かったと思う。私の育った下町の大半の親達は、その教師の理想に従ったのだ。偏屈な頑固親父であるPTA、前近代的な差別観を持ったPTA、やくざまがいのPTAと堂々と闘った。

むしろ、今の団塊の世代の方が、落ち着いた戦後の初等教育には恵まれていなかったかも知れない。三つ子の魂、百までと言うのなら、あまり良い経験をしてない。それは全学連、全共闘という、中途半端なことしかできなかった、精神しか涵養できなかったことに影響しているかも知れない。日教組による堕落も彼ら団塊の世代によって推進されたのだろうし、学級崩壊など現代の問題教師の中核である30歳前後の教員、問題PTAの一部もまた、彼ら団塊の世代の子弟なのである。

PTAと摩擦を起こさないという、ことなかれ主義の蔓延。教育委員会は教師のそれを矯正するというよりは、悪い手本そのもになっていたのだろう。

教育委員会のメンバーが、非民主的な方法で名士化すること。これは非常に良くないことで、それが直せないなら、無実化、無力化する方がマシである。

政府と独立色の強い、司法のような、一部の教師、PTAを弾劾し、従わせるような教育裁判制度を提案したい。

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2006年12月 9日 (土)

私の学校、教育観

教育。私は学校って大切だと思う。文明国つくりの基幹でもある。

私は発想の転換って、ほどじゃないかもだけど、教育は学校の下位でしかない。

教師も、そんなに重要だとは思っていない。

小学生は小学生で、大学生は大学生で学校に集まっていること、これが、なにより重要だと思う。

昨今は、学歴に無関係に、変な親が少なくない。そんな親の子弟には、あなたの親は変です、あなたがそれを手本にするのを、ここ学校では否定します。というのが学校ではないだろうか。同時に変でない親を持つ、子弟に、わざわざ、あなたの親は立派ですねと言う必要もない。学校とはそうあるべきものだ。

親は敬わなくてはならないと思う。学校がそう教えても良い。

だけど、ときと場合にはよっては、学校というのは、生徒に親を否定することを教える場でもあるべきなのだ。子供に箸の持つ方が変だから、直しなさいと言って、子供が自分の親もそうで、親はかまわないと言っていると言っても、それを否定するのが学校でなくてはならない。教師自ら手本であるべきだが、絶対にそうである必要もない。手本になれないときは、教師自ら、生徒の前で、自己否定するべきなのである。「私はダメだけど、君達はできるようになって良かった」と言えるのが教師である。

算数なんかいらない、音楽なんかいらない、と言っている親を、否定するのが学校である。

生徒の、ダメなくせに反省のない親とケンカできて負けないことが、教師の最低条件である。

このケンカに負けない根拠を与えるのが、学校、校長、教育委員会、文部科学省でなければならない。

義務教育を否定する日本人の親は、子供を残させて、国外追放で良いのである。人権を認めなくて良いのだ。怒らせないように、ご機嫌を取る必要はない。

これが、できるとき、学校は、子供達の親からの避難所になる。国づくりの基幹になる。

失敗作からは失敗作しかできない。これを否定するのが学校である。

友達は、友達の親を否定しても良い。親と闘う友達を、みんなで敬愛し守ってあげなくてはならない。

金があるのに、給食費を払わない親の子供である友達に、その子自身が大きくなったらそんな大人になりたくないと友達に誓うのなら、その子を友達同士で敬愛し、応援し、励ますのが学校である。その子が、大人になって人並以上なって、親を打ち捨てるのなら、友達は大いに喝采すべきだろう。

謙虚な親を持つ友達には、その親の期待に応えるられるように、みんなで、応援し合いながら頑張る。それこそが学校の本分である。

まして、高校以上ともなれば、それは当然のことで、親として自分を否定するような学校には子供を行かせたくないという親は、救い難いオオバカ者である。大学以上は言うまでもない。

それをヤダと言う親は、子供を学校行かせたがらない親、以上ではないのだ。

こういう親から子供達、学生を守るのが、国家であり社会なのだ。

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2006年11月 3日 (金)

反射光:必要なことだけ教えることの愚

SAGAさんが、高校の必修科目履修漏問題について、「必要なことだけ教えることの愚」という記事を掲載されています。

 学校関係者の「必要なことだけを教えればいい」という態度、完全に狂っていると思う。

そもそも学業、学問、知性、理性に「必要なことだけ」なんてものは存在しませんよね。

教育というのは、「いかに、必要なものを、少しでも多く、知ってもらうか」ということ。

校長や教師がこれに、背いたことを、絶対に許してはいけないと思う。

 履修してない生徒に甘い処置、仕方がないにしても、その代償は大きくとるべき。

例えば、もっと生徒に厳しい態度で臨めるのなら、関係校長らは、停職、降格、減俸、再教育で済んだところを、生徒の負担を軽くする為に、校長は懲戒免職の道を選ばざるを得なかったぐらいの結果は必要だと思う。私は、こうして、さらに将来を悲観して自殺する校長が出てきてもやむ無しだと思う。生徒達の方が、自分達のことを思ってくれた校長が懲戒免職では可哀相そうだから、100時間でも70時間でも補修履修しますという動きが出てくるなら、素晴らしいことでもある。

 私はというと、私がもし当事受験生だとして、たぶん、再履修負担減嘆願の犠牲になった校長に同情せんと思う。もともとが自分達の為にしてくれたとは思わん。学校の実績優先の自己保身動機の仕業としか思わない。たぶんそんな性格の学生だったと思う。

 そうでなければ、ただ甘い処理ですんだ結果を享受した、生徒達にとって、はなはなだ教育的でない結果を、教育関係者が教えただけのことになってしまう。こうして、得をした生徒も損?をした生徒も、「実社会をナメ、ますますズルガシコイ悪人になっていく」「社会を諦観し軽蔑し、良い子がグレ子になる」傾向を必ず助長すると思う。

 企業なんかも、問題高校の履歴のリストを持って、その高校出身の入社希望者が来たら、面接で、「君はどういう考えで、どうそれをあがなったか、当時の校長らをどう思うか」問うべきだろう。企業の経営陣は会社の宣伝の為にそれを表明し、次の経営陣にも、申し送るとした方が良い。

私、「06年10月1日朝日朝刊から

という記事の最後の方で、「教壇の授業は、あるていど遅れている子ベースが教育の基本です。そのかわり、秀才の子が授業中に、勉強の内職しているの、とがめるのは良くない。」と書いたのは、勉強が他のクラスメートより進んでいる生徒は、数学の授業で数学の内職をして良いという主張。補修履修で、違う大学受験科目の内職は許されない。世界史の補修授業で、大学院レベルの世界史の論文読んでいるのは許せる。

私、自分が受けた、教育制度で心が痛むことがある。当時、学区制度がある公立の志望高校に行くの、下町の中学でレベルが低かったので内申書が楽勝で、一発試験の点数あまり 必要なかったんです。高校入学して、山の手出身のクラスメートには、入試の自己採点結果は秘密でした(笑い)あの中学で文系の学力落ちてしまった(汗)。中学受験に失敗したけど、歴史、地理、生物の知識はあの時の受験勉強が基礎になってる気がする。大学受験は一浪したけど、結構沢山受験して、結果は友達から奇跡、フロックと言われたし、自分でもそう思う。ただ、今思うと、本気で受験勉強しなかった3年間は、なにものにも代えがたい時間だった。大学入試の一発試験の準備なんて、記憶力の悪い私には1年以上は長すぎたんです(笑い)。大学での感想。エレベータで来たやつら、学力、低い方に偏ってつくづくピンキリだと思った。

 高校での勉強、はやくから理系志望だったけど、歴史とか嫌いだったわけじゃない。中学のときからなんだけど、幾分意地もあって、歴史の中間、期末試験とか、年号とか覚えなかったし、たまたま知っていても、わざと年号の問題には解答しなかった。そんなゆとりもあった。

効率的すぎるのは、私も寂しい。酒飲んで、学生時代の話をするとき、「普段、読書とかしてないくせに、(遊び、部活に夢中、趣味に没頭)中間、期末試験がせまって、勉強しなきゃならないときに限って、何故か小説・新書・ブルーバックスとか読み始めちゃう」てな話題になって意気投合、それを聞いて「フン」なんて態度の秀才君とは、仲良くなれませんね(笑い)

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2006年9月11日 (月)

特定建築士 ???? (2)

このブログの9月1日の記事

特定建築士????

で、

記事では、特定建築士について、まだ良く判らない点があります。

この案では、これからの建築士試験では、受験するときに、特定構造建築士、特定設備建築士、これまでの1級建築士の延長のいずれかを選択して受験するのかなということです。

 記事では、1級建築士の中に、特定構造建築士、特定設備建築士という専門資格を創設しとあるので、これが判りません。

と掲載しました。

その後、読売や朝日の朝刊を読んでも、依然、判りません。

(記事の中で朝日新聞のサイトの記事にリンクを張りましたが、全然関係ない内容になっちゃてました 汗 今後リンクはムダみたいですね。)

それでも、読売新聞では、ネットサイトでも9月8日付け

[姉歯被告初公判]「建設行政と業界が裁かれている」という社説をのせています。

>罰則や検査制度を強化するために、先の通常国会で建築基準法など関連法規が改正された。建築士の再教育や、欠陥建築の賠償保険への加入義務づけなども検討されている。

 建物の安全性に対する不安を消し去るには、対策を実効性あるものにし、事件の背後にある業界の無責任体質を一掃しなければならない。

起訴された姉歯被告と関係企業の経営者だけが裁かれているのではない。国土交通省をはじめ、すべての関係者がそう自覚すべきである。

としめくくっています。でも建築士制度に関してはやはりダンマリという気もする。

大新聞の間ではタブーなのかな? 制度問題で建設民間市場が冷え込むの、日本の大学・専門学校の建築学科(後述しますが、日本建築学会の存在にも影響します)の制度問題に発展するのを回避するのが社会的使命と考えているのかなとも思ってしまう。

保存はしていないけれど、はじめは大新聞なんかも、米国なんかでは、建築構造技術者、建築環境設備技術者は建築学、建築家とは教育においても初めから独立した責任をもっていて、専門家として活躍しているんだとは言っていたんですよね。日本でも見直そうという記事もあったように思うんだけど。

 建築の構造で言えば、建築士制度問題にも関わりあうべき、建築学科、建築学会、国土交通省の構造の教授、先生、研究者って、土木系はもとより、地震工学、地球物理学、造船工学、古典応用物理学、コンピュータサイエンスなんかの碩学ともかかわり合わないようにして、建築学会という巨大学会の中で、無駄に国家研究予算とか浪費して、のうのうとしていたがっているのかのとも思ってもしまう。

で特定建築士なんだけどケンプラッツというサイトでは、9月1日つけで

特定建築士の前提は一級建築士」と国交省審議会が最終報告

という記事を載せていたんですね。

国土交通相の諮問機関、社会資本整備審議会建築分科会の基本制度部会(部会長:村上周三慶応義塾大学教授)は二転三転の議論の末、831日の第11回会合で最終報告をまとめた。最終報告は、構造と設備の新たな専門資格「特定建築士」の創設、建築士試験の受験資格や試験内容の見直しが柱。国交省と職能・業界団体が繰り広げてきた激しい攻防は、一応の決着をみた。

 最終報告は、731日に公表した報告書案(日経アーキテクチュア814日号で詳報)をほぼ踏襲した。国交省が818日まで募集したパブリックコメントには3893件の意見が寄せられた。これらを踏まえ、報告書案を一部修正・追記。「建築士のうち構造設計、設備設計を担える技量を持つ者がほとんどいない」との意見を受け、構造や設備の専門能力のある一級建築士を育成することなどを盛り込んだ。

最終報告の主なポイント

専門資格者制度の創設
新たな専門資格「特定建築士」は、一級建築士を前提とする
・設計で特定建築士の関与を義務付ける「一定規模以上の建物等」は、今後検討する
工事監理は、特定建築士の関与を義務付けない
建築設備士の扱いは現行通りとする

建築士試験の見直し
・受験資格の実務経験は、設計および工事監理の業務に関するものとする。具体的な範囲はこれから決める
・受験資格の学歴要件は、必要な科目履修を要件とする。大学だけでなく、専門学校や短大、高専などの教育機関も認める
・既卒業生や在学生の受験資格は、経過措置を講じる
建築士試験で、構造・設備の試験内容を見直す
・二級建築士や木造建築士も、受験資格や試験内容を見直す

現行の建築士のレベルアップ
定期講習の義務付けは、業に携わる建築士を対象とする
・定期講習義務に違反した場合、監督処分の対象とする

より詳しい情報は日経アーキテクチュア2006911日号「追跡・建築士制度」で 

とありました。(慶応大学には建築学科、土木学科とかなかったと記憶しているので、村上周三慶応義塾大学教授ついて、ネット検索してみようかなと思っています。あと建築設備士についてですね。)

で、私は全く、釈然としません。俄然、徹底抗戦に興味が高まっちゃいます。

同じケンプラッツというサイトでは9月8日づけで

「建築家法制定の方向を探りたい」、建築家協会が見解

という記事も掲載していました。

日本建築家協会(JIAは現行の一級建築士を再判定し、レベルアップを目指して絞り込む方向性がトーンダウンしたことについては、遺憾の意を表明しつつ、今後、安全性だけでなく、総合性や統括性、芸術性まで含めて定める「建築家法」制定に向けた議員立法的な方向を探り、JIA登録建築家制度を強くアピールする。とのことです。

なお日本建築家協会が社会資本整備審議会建築分科会の基本制度部会が831日に公表した最終報告を評価しているのは

1)現在の建築士の位置付けを設計および工事監理に携わる者に集約していこうという方向、(2一級建築士の枠内ではあるが専門資格ができたこと、(3)建築士の登録更新性について、講習の義務付けなどに、より実行性のある形が取られるようになったこと、(4)設計・監理業務の独立性、特に監理業務について工事着工時に監理契約書添付を義務付けたこと、(5)売り主の瑕疵担保責任のため、保険についての充実が図れるように整備する方向が打ち出されたこと。 だそうです。

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2006年9月 1日 (金)

特定建築士????

06年8月31日の朝日新聞朝刊に

耐震偽装防止 欠陥補償資力、義務に 国交省部会最終報告案

「特定建築士」を創設

という記事が掲載されていました。

朝日新聞のニュースサイトでも

特定建築士というキーワードでサイト内検索したら出てきました。

前のこのブログの記事では

 「耐震偽装防止 1級建築士に新試験 制度改革へ国交省素案 不合格者は降格」

という7月29日の新聞記事を紹介しましたが、これはすぐに、既存建築士など既得権者の猛反発を受けて、廃案になったのでした。

 このときの新1級建築士は、構造や設備の専門家の上に君臨する、えらーい立場になる予定だったんです。ゆえに、このこと自体は、既得権者である建築士が反対する必要はなかったんだけど、自動的には、このおいしい新1級建築士にはなれないんで反発したんです。

 試験を受けないと建築士でも新1級建築士なれない案で、建築士にとっても難しい試験になるかもしれないし、そうでないにしても、大昔に建築士とった人は、再試験そのものに自信がなかったんだと思う。

 また建築士以外からの反発としては、おいおいまた、構造とか設備の専門家でない、それらで責任のとれない新建築士が、お高くとまって、タダメシ喰うのかよということでもありました。(実際には、中高年の1級建築士は、コネ以外では再就職も難しいのではないかと想像しています。世の中いかがわしい資格ビジネスの詐欺があるようですが、建築士制度って国家のそれになりつつあるような気がします。大学出て一部の大きな設計事務所、建設会社に就職しない限り、中流以上の生活は無理そうです)

 

 で今度の案はというと、やっと正反対になって、構造や設備の専門家の上に君臨する、なんかよく、わけのわからん、えらーい立場の資格をつくるということではないんですね。

 ここで、ことわっておきますが、私は構造や設備の専門家の上に君臨するエラーイ人がいちゃだめだと言うつもりはないんです。素晴らしい建築デザインをする、構造や設備の細かいことは知らない巨匠建築家はいていいんです。(巨匠デザイナーがいなくても、平凡でも、最大公約数的な、そこそこ良質なビルは設計できますが、マンション、中小企業の為のビルはほとんどそれ。)それは建築家としての実力ですよね。資格試験でどうのこうのの問題ではない。また実際、そうした巨匠は出来の悪い建築士の弟子より、優秀な構造、設備の専門家であるパートナーを仕事では求めるんだと思います。

 記事では、特定建築士について、まだ良く判らない点があります。

この案では、これからの建築士試験では、受験するときに、特定構造建築士、特定設備建築士、これまでの1級建築士の延長のいずれかを選択して受験するのかなということです。

 記事では、1級建築士の中に、特定構造建築士、特定設備建築士という専門資格を創設しとあるので、これが判りません。

 いずれにせよ、まだまだ、いろんなことで、バカバカしくて、つきあいきれないな、という予感は大きいかな。

 巨匠建築家になるポテンシャルのない建築士から、構造技術、設備技術、現場監理を除いたら、代書屋と、どこにどんな部屋は欲しいとかのマンションデベ企画担当者、企業の施設担当者の御用聞きの仕事しか残らないのが実態ではないかと思う。おまけに良くて電子ドラフターというべきしかないCADに満足しているのがせいいっぱいのITオンチでもある。プレゼンテーション、生産性、品質管理の向上ということにも大きく資質が欠けているようです。

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2006年7月 1日 (土)

耐震偽装と官製資格

 私は読売新聞・朝日新聞の朝刊を購読している。ものぐさなので切り抜きとかはしていないが、気になるページは抜き出して捨てないでいることもある。これも気まぐれなので、かなりいい加減ではある。この06年6月26日に建築士制度の改革に関して国交省の構想が出され27日には新聞報道されている。この手の問題に関心を持って、4月ぐらいまでなら、この2紙の関連ページはある程度残しているのだが、いつまでも持ってはいたくないので、この機にこのブログにメモして順次、破棄しようと思う。読売と朝日の姿勢、熱心さの違いもみえてくるかもしれない、今回はその手始めである。

 私は、新聞等は耐震偽造がらみで、建築士制度等に関する疑義の踏み込みが、どうもあまいと指摘したが、今のところ、27日の報道のその後の受け止め方にしても、その印象に大きな変化は感じないのである。しかし、26日発表の国交省の構想は大問題ではあるとは思う。

■06年6月27日~30日■

【1】 6月30日の朝日新聞の社説では、結局、一連の捜査の結果としては、建築基準法違反で起訴された姉歯建築士の単独犯行ということで終わってしまったと報告されている。

 しかし、その経緯では、日本の建築制度は設計、確認、施工、販売のすべての面で、安全を図るにはほど遠いというが判明されたとしていて、私も同感である。社説の表題は「耐震偽装 そろって無責任だった」である。

 姉歯被告に構造設計を発注した設計業者は不正に気づかず、素通りであり、建築確認を担った民間の検査機関も機能していなかったのだ、政府や自治体は穴だらけのチェックシステムをそのままにしていた。それは確認業務を民間開放する前からだったことを編集者は見抜いていると思える。じつは国交省の役人も早晩このようなことが露呈することを読んでいたようにも思えるのだ。それがゆえにの、民間開放であり、先の基準法改正だったようにも感じる。ただその予想をはるかに上回って、露呈が早かったのである。今の国交省の幹部は、天下って10年は現行の規準法のマイナーチェンジと現行の建築士制度の維持でなんとか逃げ切るつもりだったのだろう10年もあれば、民間開放以前の自分達がやっていた闇も葬れるというものである

 現行の法律では、姉歯氏自身の量刑も軽いし、発注設計業者の責任も問えないのである。

ただ私は前に述べたが、経済力根拠に乏しい建築士の量刑を重くしたって問題の解決にはならないと思う。

施工、販売の企業の偽装強要は立証できなかったが、欠陥を購入者に隠匿して工事代金、販売代金を受け取った責任の追及が残っている。

 再発防止のために、建築基準法が改正され、設計業者、検査機関の他、第三者機関が構造計算をチェックすることになった。

しかしこれは、どうなんだろう?検査機関の存在価値と責任が依然として問題で、その解決になっていない

 この社説は、販売会社の賠償保険の加入義務付けを提案している。保険会社による偽装や手抜きのチェックを期待している訳である。私もこれは必要だと思う。

【2】同じ朝日新聞は29日の「検証 構造改革② 第一部・官から民へ 自己責任揺らぐ安全」でも耐震偽装問題に触れている。今回問題になった、建築分野における規制緩和は、阪神・淡路大震災の教訓を生かせないまま、米国の建設市場開放圧力に屈したのではないかと指摘している。これは小泉政権確立前になされているようだ。

【3】29日の読売新聞「姉歯被告ら追起訴 耐震偽装 捜査が終結」では、東京地検は姉歯氏の「審査がきわめて甘い。イーホームズに確認審査を出せば、改ざんを見破られることはない」との証言に、被害の広がりはイーホームズのずさんな確認検査があったと認識していたと報じている。また読売新聞は「耐震偽装 安全再構築 業界の体質 施工も手抜き横行」で姉歯氏が偽装した物件における、さらなる施工上の手抜きも報じた。

 また阪神淡路大震災を例にとり、「もしうちの物件だけ壊れなかったら恥ずかしいですから」と語ったゼネコン関係者をひきあいに出した。恥ずかしいのは「うちの物件だけ壊れたら」ではないのである。もし自分の物件だけ壊れなかったら他社に較べて丈夫さに無駄があったという発想だそうな。記事は中間検査の徹底の重要性を強調するが、それは自治体の裁量に任されていて、あまり実施されていなかったのである。

【4】読売新聞は28日に「耐震偽装 安全再構築 構造設計者 圧力に弱い”下請け”」と題する記事を掲載している。姉歯氏以外の十数件の違反建築建設に加担した構造設計者の話である。「元請けの意匠事務所に設計料を踏み倒され、この10年、借金地獄だった」と語る構造設計事務所の社長の談話もある。東京電機大学今川教授の指摘は「日本の建築は、施工も設計も大工が担ってきたから、今でも中心は施工者で、設計者の地位は諸外国より低い」だそうな。

実はここが、私の本題に近い話なのだが、国交省は今秋にも、構造と設備の2分野について専門資格を設けるそうなのだが、これはさておいても、1級建築士に新たな試験を受けさせて、合格した建築士を、構造などの専門資格者を指示する立場に位置づける方針だとしていると読売新聞は報じるとともに、それでは構造設計者が下請けの立場であり続けることに変わりはないという意見も載せている。

【5】超高層マンションは構造設計の流れが姉歯氏が偽装した計算とは全く流れが違うし、大手が設計し施工しているのだが、朝日新聞は28日、その安全性に関する記事「わが家のミカタ 高くなるほどリスク増す」を掲載した。仮に巨大地震でも崩壊しない(できるだけ死人を少なくするという意味であって、補修で再使用可という意味では勿論ない)にしても、揺れは高層ほど大きくなるし、実際の被害は未知数だと指摘している。

【6】先に述べたように、27日に読売新聞は1級建築の制度改革について1面で報じている。「耐震偽装防止 1級建築士に新試験 制度改革へ国交省素案 不合格者は降格」である。この試験が実施されると現在30万人いる1級建築士は激減することになるそうだ。素案ではまた、構造、設備の専門資格者制度を創設し、新試験にパスした1級建築士が、これら専門資格者を統括し、最高責任を負う構想ということである。

【7】27日、同、読売新聞「耐震偽装 安全再構築③構造計算ソフト ”国のお墨付き”過信」という記事も掲載した。まず、マンション33件の構造設計を偽装した札幌の浅沼2級建築士の話から始まる。「基礎的な知識がなくても構造設計者として飯が食えてしまうのは、構造計算ソフトの助けがあったからだと」との声を載せている。データを適当に入力しても、試行錯誤を繰り返すうちに、誰でも「正解」を導きだせるようにもなってしまうと指摘。国交省は今後、現在の大臣認定ソフトを全て無効とし、新たな大臣認定の基準づくり進める方針だそうである。改ざん防止も取り込む予定。日本建築構造技術者協会の初代会長、矢野氏の「いくら基準を変えても、ソフトという道具に頼っている限りは根本的な解決にはつながらない、構造計算は構造設計の一部でしかない。設計の思想をきちんと議論できるよう設計者の技術を高め、安全への責任を負わせることが必要」との談話を示している。

【8】朝日新聞は27日、小さくしか扱っていない。「構造と設備設計 2資格を創設へ 建築士改革で国交省」である。

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2006年4月23日 (日)

建築家・建築士

 私は、青年のころから、絵や工作が好きだったこともあり、視覚美術に興味があって、特別にその方面の本なんかも買い集めている方だと思う。同時に科学少年でもありたいと思っていました。科学者・数学者の伝記、啓蒙書なんかもずいぶん読んだんじゃないかと思う。実際、今の仕事はITじゃないけど、汎用数学ソフトMathematicaなんかを活用している会社員なわけだし。(もうFortran,basic,C,Lispなんか忘れてしまった。最近Javaの勉強をしはじめている。汗)

 

 視覚美術・芸術に興味があったので、絵画、彫刻家の他、建築家関係の著作物にも結構アクセスしました。ミケランジェロ、ブルネレスキからライト、コルビジェ、アアルトから丹下健三、磯崎新、村野藤吾、白井誠一からポストモダン、アレキサンダー、安藤忠雄、佐藤大(nendo)とか、少しばかり知っています。(最近、某新聞は死人に口無しか、丹下健三氏の悪口が多い? NHKは牧歌的な生活感のある坂倉準三を持ち上げる。)

 以前、建築家と建築士って、遠いって書きましたが、実は以前から、建築家ってのも世界的に問題になっているんですよね。

 世界的にいって、建築家ってのは身分の予備軍としては、医者、弁護士から、もう脱落していると思う。代わりはデザイナーをまとめるプロジェクトマネージャかな。

だから日本の場合の建築士は、もともとその存在が重層的にいびつだったんじゃないかと思う。もちろん、変化できない慣性の重さは、その背後にべったり土建国家として旧建設省が存在しているからでもある。

 はっきりいって現代は世界的にも、アトリエ建築家ってのは、存在できていない、食ってはいけない環境みたいです。アトリエ的であらんとすれば、工業デザイナーの仕事として建築に係わらなくては食っていけません。その意味では、世界的にいっても、建築の大学教育は難しくなっています。建築という枠の中で、人材を育成することの意味が判らなくなってきているんじゃないかと思います。米国の大学なんかでは、建築におけるCADCAM研究、ビジネスプロセス、プロジェクトのモチベーション研究が残された道になるんだろうと思う。そして学生としても、社会人としても他分野の人材との人脈が重要になってくるんでしょう。(それには、ますます、建築という範囲にとらわれない、美学、工学上の幅広い高度な教養が必要になってくるが、日本では他学部、他学科、に比べてその水準がどんどん低くなっています。このことでは、こいつが凄いと、鑑定できる環境の水準が異常に低い。対照はIT産業です)日本の建築士を目標にしていたら、とてもおぼつかない世界です。

 日本は、古い建築家像と建築士制度のせいで、建築教育と建築がますます空洞化していきそうです。すなわち高度なシビルエンジニアリング、ビルディングエンジニアリングの民間活用の素地がない。プロジェクトマネージャとして人脈を構成する対象の素地がない。

 最近、大学で一流ほど、建築学科、土木学科から、建築士、技術士が必要か評価する世界、すなわち設計事務所、建設会社、国交省、不動産、デベロッパーに行かない人が増えているらしいけど、その選択をした人も、その選択から、取り残された人も、おそからず、この日本の空洞化には驚愕するはめになると思う。

(これは、木村建設、ヒューザーとかでなくても、三菱だったか野村だったか、一流のデベでも、売れないマンションを出してしまった最近の報道からも感知することができます。こうした、一流だから、この行動になるので、山とある木村建設、ヒューザークラスでは、似たようなことが秘密裏に横行していると思われます)

でその最大の被害者はというと、国民なわけである。

 そもそも、ミケランジェロ、ブルネレスキの時代はもちろん、コルビジェ、アアルトの時代と比べても、建築設計の需要の構造が変化しているわけです。建築家がどんなに抵抗しても、現代では建築はハイテックスタイル、エンジニアリングならざるを得ないのです。だからもし建築家的な要素の仕事が建築にあったとしても、それは自動車におけるカーデザイナー以上にはなれない。そして建築は技術が発達したので、造形的な制約は自動車なんかよりはるかにゆるくて、その意味では、建築家より彫刻家、カーデザイナー、家具デザイナーにデザインしてもらった方が、カッコ良いか、もしくは便利な建築になるのです。そして、現代は、コンクリートと鉄とガラスで作る建築においては、建築家不要の設計の方が多いのです。病院建築なんかは、建築家に設計させない方が良いものができます。

まあ、戸建住宅は施主の趣味的なもんだし、レトロなもんだから、ライフスタイル哲学(建築士の素養外)とか、建築家に設計頼むって需要はあるかもです。それでも、建築士にまかせるよりは、実績作品のあるインテリアデザイナー(有資格者という意味ではない)とエンジニアの組み合わせの方が成功する確率の方が高いと思う。

 日本の建築士から構造安全性設計とエネルギー環境設計を除いたたら、建築基準法という本の引き方と、鉛筆とT条規の使い方以外、何も残らないけど、その構造安全性とエネルギー環境設計能力が恐ろしく低水準なまま、その能力を、わけもわからないまま下請で使って、報酬をだましとる位置づけになっちゃてる。

 こんな資格の中から、構造や設備環境の専門家を選び直しても、カスの中から、必要なものを探すようなもんだと思う。

 日本の建築士ってのは、故田中角栄が大工さん、土建屋の延長でも、コンクリート、鉄骨でビルの設計ができるようにって、でっち上げちゃった資格制度そのまんまじゃないかと思う。

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2006年4月16日 (日)

官製与信をぶっとばせ2 官製資格

■建築士制度問題への伏線 エネルギー管理士 公害防止管理者

 私が建築士制度、建築確認検査制度のおかしさに興味を持ったきっかけは、勿論、姉歯建築士による耐震偽造問題であるが、実はその前に私なりの伏線があった。

 つまり、地球温暖化防止の問題もあり京都議定書なんかの動向に興味があったわけである。当然、我が国のエネルギー消費政策にも影響する。

 エンジニアとして、その有用性・取得難易度はともかくとして、官製資格の「エネルギー管理士」に興味を持ったのだが、その制度内容がメチャクチャだと感じたのだ。大仰な筆記試験制度(内容は悪くはない)と、対象工場の従業員なら何日間か缶詰になって講習を受ければ取得できる2つの道が用意されていた。これじゃ、やる気なくなるよね。

 官が、企業に強要する、エネルギー管理士の雇用は、官の手による企業への、ゆすりたかりにも等しく、また企業も、エネルギー削減への努力がままならない事情を、世間から隠蔽する為に、これを必要悪として利用しているにすぎないことが判ってくるのである。

 また、エネルギー管理士などは、工場などの製造業に関わることなのだが、まあエネルギー消費者としてはこちらが大きいので、それが重要ではあるのだが、同じくエネルギー問題を事務所ビル、商業ビル、住宅で対策しようとする政策が制度的にこれまたヒドイ。

この分野は、大都市におけるヒートアイランド問題にも関係する。

開発の免罪符的な屋上緑化の滑稽さもみえてきたりもする。)

実はこの時点で、建築士あるいは建設系の技術士等の問題には遭遇していたのである。もちろん米国のLEEDという制度と比べながらCASBEEとか言う制度なんかについてもネットなんかで調べた。建築士などエクセルベースの代書屋として優遇される方向のようだ。マニュアル読んで判らないのかしらんと思うんだが、講習とおまけの修了試験なんて、建築士ってここまで水準が低いのかって?  そこに耐震偽造問題がおこったのである。

 同様のことは、公害防止管理者の制度にも言えよう。公害防止管理者など、企業が公害の防止に努力することに何の役にも立っていなかった。むしろ、企業が環境ISOなどに、取り組みはじめたことで、やっと姿勢がマシになってきたのである。この最近の企業自身の努力以外、それまでは環境省・役所の環境課・公害防止管理者など何もしていないのである近隣等の我慢が限界に達して、はじめて事態が発覚するのである。ならはじめから公害防止管理者の制度など不である。エネルギー管理士にいたっては、エネルギー使いすぎの発覚がとがめられることすらないのが実質である。国民本位、愛国心のかけらもない制度である。建築士も同様ではないのか?

■官製資格の矛盾 官の伏魔伝 産官の国民に対する共同陰謀

結局、こうしたことが、官のためにだけになされ、国民にとっては、企業の効果のないムダなコストとして、物価高に反映され、かつ税金も高いという二重苦の結果にもなるのである。就業条件の脅迫としては三重苦とも言える。国に絞りとられているのである。

こうしては、建築士、エネルギー管理士、公害防止管理者などで、自らの責任をあいまいにした上で、まともに働きもせず、こうした資格制度実施の外郭団体、資格受験予備校、受験参考書出版、民間検査機関、試験会場などをつくって、天下り先などを量産しているのである。

 そもそも、官が国民のために、ものごとが適正に行われているかを、管理しようとするならば、事後を自から、もしくは第三者によって検査・確認するしかないのであって、官製資格者を従事させたところで、その者が企業に雇われている身である限り、原理的に機能する訳はないのである。企業などは、そうした官製資格者を置いておけというから置いとくのであって、その者に官が本来すべきパフォーマンスを発揮して欲しくないのが本音なのである。その意味では、産官の国民に対する共同陰謀の観もある。よほどのことがない限り、(医者、弁護士等については考え保留中)官製資格など公務員でない限り必要はないはずである。

IT産業では、投資者が官製資格の被害者か?

 これらに比べると、私はコンピュータ、ITには詳しくないのですが、IT分野での官製資格ってどうなんでしょう? 昨今のコンピュータープログラム関係の不祥事をみると、それらは、官のIT時代の便乗でしかなくて社会の本当の役には立っていないように思えます。本当に優秀な技術者が、それに応じた報酬にならないような仕組みというか、業界が資格者というだけで品質と生産性の悪い従事者に過分な報酬を払うことによりコスト高になっていないでしょうか? 求人なんかを見ると、高度な官製資格あるいは高度なベンダー資格を持つことされていることがありますが、もし私が、銀行なんかのオンラインシステムなんかは別として、プロバイダー、ポータルサイト、アプリ開発の会社を興すんだったら、高度なベンダー資格しか眼中にしないと思う。少なくとも、情報処理技術者を集めなくっちゃとか、それが何人いるなんて言ってる社長には、投資はせんと思う。それで騙された出資者って多くないのかしらん? 泡のようにつぶれたIT企業ってそうなんじゃないかしらん。社長自身も海千山千でコンピュータのことはなんも知らんのだろう。

■何故、新聞は建築士制度問題・官製資格問題の踏み込みが甘いのか?

 私ね、テレビでニュースはあまり見ないんだけど、何で新聞は、建築士制度問題とか踏み込まないかなと思っていたんです。それで気づいたんですが、新聞社って建築士、情報処理技術者なんかを養成する研修機関を運営していることが多いんですよね。通信教育もそうなのかな?

 あるいは過去に建築士、情報処理技術者が足りない足りないって記事たくさん書いていたのかもしれない。

■追想

 ちょっと話が飛ぶけど、英会話の初等教育、大学共通入試のヒアリングの問題と関連して。現代的にいって、コンピューター、プログラミング教育ってどうなってんだろう。ある意味、英語以上に世界共通語ですよね。私は数学概念記号、物理学概念記号だって重要な世界共通語だと思ってます。今後どんなにコンピュター言語が、高級化、自然言語化したとしてもFor文、Do文の理解とか、教育要素として現代の知的遺産だと思ってます。

また、オブジェクト指向、プロジェクト管理、部品化、並列処理、ロバスト、冗長性とかコンピュータ以外でも役に立ちそうな知的資産概念の宝庫でもあるんですよね。でも報酬を得る仕事としては、概念じゃどうにもならん動作してなんぼ、それはOSとかベンダーのプラットフォームの理解、利用経験でしかありえないもともと官なんかが口を出せるような世界ではないんじゃないかな? CADなんかもSFXとか、どうなんだろう?ローカルだよね。

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2006年3月19日 (日)

朝日新聞:同じ計算法でも強度増 偽りの安全

 姉歯氏の耐震偽装問題は、建築士の懲罰を強化するという方向の他(これが解決であるのか議論も必要だ。解決の偽装のようにも思える)、別の問題も浮かび上がらせてしまった。耐震設計評価の体制の根幹に関する不信感のようなものである。

私はこの分野、不案内なのだが、好事家な面もあって、2冊程、関連図書をざっと観てみた。

 ①オーム社刊・日建設計東京オフイス構造設計室編「建築物の性能設計と検証法」(耐震設計を中心として)3500円。②丸善刊・地盤工学会「地盤・基礎構造物の耐震設計」(地盤工学・実務シリーズ13)6800円。2回ほど、居酒屋に行って吟醸、純米酒で、ほろ酔い楽しむのを我慢すれば良い程度の出費だ。

①②とも、私の能力では、判りやすいとは言えないのだが、直観的には、そこそこ良書である雰囲気はある。特に②は、この分野としては、経験工学、仕様書的な色彩が薄く、比較的、科学的、理学的なアプローチなので、他分野の科学、工学の碩学らには、いくぶん、しっくりくるかもしれない。(ということは、ある程度誰が読んでも面白いということでもある)②を選んだのは①では納得できなかったからでもある。

本屋で物色して思ったのだが、地盤・基礎に関しては、建築構造の書棚では、仕様書的な本ばかりで、②のような良書風のものが見当たらなかった。建築をやっている人間は、このようなことに頭を使うなってわけじゃないとは思うけど?

 建築士系の構造担当者が設計したものって、軽い戸建なんかは、別としても、重いコンクリートで作った、マンション、学校、病院なんか大丈夫だろうか?(べつに土木系の技術者を持ち上げている訳じゃないけど。T定規での意匠計画の製図を課せられてない程度に、修練の時間が有効かなという程度。ただ建設白書の理解?(建設白書の販路)などバカバカしいものも課せられているみたいです。あるいは、こんなんで点数が取れない、建設系技術士と同じ称号になっちゃう他分野の技術士等が可哀想でもある。電検なんかも内線規定等理解以外の知識能力にこそ私は興味がある(電磁気学、回路計算とか私にはチンプンカンプンなあれが判ってるって凄い!!)のですが)そのせいか本屋の技術士関係はいつも建設系が圧倒している。一方、技術系は建築系は他分野に比べて(土木に比べても)程度の低い図書ばかり。

②は、私なんか免震構法ってかなり良いじゃんなんて思っていたけど、地盤特性を良く吟味しなきゃダメという指摘も書いてある。

姉歯氏問題以降の問題としては、姉歯氏とは、ほとんど関係ないところで、やはり構造計算書の問題が発覚した。

A:1つはやはり提出資料のズサンで、設計者が規準なんかもともと適当なもんで、肝心なことは、自分の経験と勘で担保しているから、良心的なんだという一種のひらきなおり?

B:もう1つは、やはり姉歯氏とは、ほとんど関係ないところの話なんだが、保有水平耐力計算ではダメだったが(この時点で違法建築)限界耐力計算では大丈夫でした、みたいな話。もともと限界耐力計算法は、2000年の規準法改正のアダ花みたいなもんで、当時から、あれに批判的な専門家達もいるみたいだ。

C:それで、また、Bを知った?のか、姉歯氏に設計されてしまった、マンションの住人達が専門家?の力を借りて別の認定ソフトで計算し直したら、補強で済んで、取り壊しは、まぬがれるんだというニュース。(喜べる話じゃないが、彼らもそこまで追いつめられている?)こうなると、もう耐震評価への信頼観はドロドロ混迷の様を呈してきた。それは建築士系の技術者が担う構造設計への不信感にもつながる看護士がなんのためらいもなく医療行為を行っているに近くないのか?

まあ、そんな複数(106種類?)のソフトを認定してしまった、専門家の言い分もあるのかとは思う。でも、こうなった以上、国交省、建築学会、建築士協会?等は大新聞、数社の最低2面ぐらいを使って、説明記事を掲載するとともに、ホームページで公開する必要はあると思う。少なくとも保有水平耐力ソフト、限界耐力計算ソフト等の数等や認定の概要経緯、確認検査機関のそれらソフトの保有状況を掲載すべきかと思う。掲載するまでこれらの関係者は建築士試験実施とか、その類の技術者教育啓蒙活動とか諸活動を停止するべきだとすら思える

私は関係者が、この件(2000年の規準改正)に関して、我々は、十分な期間、、各界の識者、市井の技術者にヒアリングを行ったのだという言い訳は絶対に認めたくない

 ソフトの種類が多いことについては、コンクート構造、鉄骨構造とか、壁構造に対応するかしないか、何階建まで計算できるかなどソフトのコストパフォーマンスなどあるかと思う。しかし、これをどのように市井技術者が使い分け、運用してくるかというリスク評価を予想しないことは指導行政の言い訳のできない、放置できない重大な落ち度であることは間違いあるまい。私は根本的な制度の清算の必要性があると感じる。この辺の適切さをコントロールできるとすれば、それは例えて言えば、看護士の領域ではなくて医師の領域に相当するのではないかとも想像する。

 何か、地震国、日本で市井技術者に、コンクート、川砂(代用海砂?)ジャリを大量消費させるのが、何より重要、優先事項なんだって気もしてきてしまう。

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2006年1月31日 (火)

外国語会話力リスニング力

ちょっと古い話ですが、大学の共通1次試験のリスニング試験のトラブル
私、語学教育って悪くないと思うし、大学の入試でそれを問うことも別にかまわないと思う。
勿論、外国語会話力、リスニング力も有意義だと思う。
でもね、所詮、試験でしょ、そんなに頑張って人を評価できるほどのものではないんですよね。
そこそこ、アンフェアでない方法であればよいんであって、機材つかって、トラブルのリスク負ってまで
外国語リスニング力、問う必要あるのかな
と思う。

外国語リスニング力って、すごい武器だと思う。でも今の日本の大学教育受けるのに
そんなに必要な力かしらん。教授が授業で外国語しか話さないって大学少ないと思うんですよね。
外国語でしかデイスカッションできない授業ばかりの大学って日本では少ないと思うんですよね。
そもそも、日本が力ついてきたのは、日本の書物も充実していて日本語で、いろんな学問の先端が勉強できるってことでもある。
勿論、それでも、外国語の書物は読めた方が良いから、入学の時に語学力をチェックをしても良いとは思う。

勿論、企業が求人で、外国語会話力を重視するのは、当然かもしれないし、
そのニーズに応えるのが特色の大学があっても良いと思う。
でもそれが全ての大学の存在価値だとは思えないんですけどね。だから共通1次試験で頑張らなくてもと思う。

日本でノーベル賞をもらった、科学者、文学者って私よりズット外国語会話できただろうし
読み書きは相当なもんなんだろうけど、外国語会話一流って訳じゃないと思う。

日本人みんなが、外国語会話力に時間とられすぎると、他の学力落ちないかしらん?
だって、先人達のおかげで日本語でだって覚え切れない、読みきれない知識や書物いっぱいあるのに。
そっちに、十分な力を注ぎたいと思っている学生には不利だよね。
(多くの学問では、先端になれば、外国語文献読解できないとライバルに遅れをとるだろうけど)

それと、外国語会話力って独学しにくいから、学生にとって経済的に不利なんですよね。
なんか、外国語会話力教習機材屋、教習事業屋と癒着してんじゃないだろうか?
あるいは、日本人が日本語で賢くなると、ヤダなと思っている政治家、官僚の都合なのかしらん?
今の日本って、凄くチープでいやしい姿勢が蔓延してるし。

私は、外国語できる日本人、非常に尊敬しています。もっともっと出来るようになって世界で活躍するべきだと思う。
でも、みんながみんな日本の大学で磨くべきことなのかなと思う。
私も、外国語会話力身に付けたいと思うけど、すでに出来る人への尊敬を十分にもって、
自分がそう思われることよりも、もっと充実させたい力は別のところに置きたい
と思う。
その成果を、他の人が外国語で紹介してくれるくらいの仕事が出来ればと思う。もちはもち屋ってあるんじゃないかしらん?
フォーマルな場では、ちゃんとした専門的語学力のある人の力借りないで、自分のチープな力で対応していたら、相手に失礼じゃないかしらん?

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2005年12月31日 (土)

肺ガンと地震

私はヘビースモーカーである。
科学的に考えて、自分の命を大切にするという意味では大変、愚かである
弱い、自殺願望があるのではないかと思う。

酒も結構飲む。まあタバコと違い自然に休間日を取れる体質ではあるのだが。
休間日をとれないで飲酒をする人も、弱い、自殺願望があるのではないかと思う。

私は飲酒運転に対しては、もともと人一倍、神経質なほうである。
転技量にうぬぼれはまったくないし、なにより自動車保険会社の免責事項になるのを恐れているからだ。

この辺の、ここ最近の世の中の科学知識の提供ぶりは、個人的には決して脅迫的ではないと思っている。
たぶん、自分の場合は、長生きできない理由としては、別の因子が強いだろうと
勝手に解釈して、満足快楽と心配を秤りにかけての結果、トレードオフとしてスモ-カーを選んでいるわけだ。
ただし、こんなクールな(つもりの)言い方でカッコつけても、内実は、私の心の欲望に負ける弱さ、逃げでしかない訳だ。

この辺の事情については、医学会等の発言と産業界の力関係は、ここ最近はおおむね良好ではないかと思う。
私が、喫煙のせいで肺ガンになったとしても、
公的に責任のある立場なのに私に間違ったことを教えた、そうした商売を放置したと文句を言えるようにはなっていない
つい最近までは、専売公社系や農林水産省系は、商売の邪魔になると、こういう啓蒙に逆らっていたわけである。

基本的に医学系の人々は、人の健康や人体の安全に対するプロである、
タバコ、酒を造り、販売する側の陣営は、そのことに関してはプロではありえないのだ。

たとえその医学者が愛煙家、酒好きであったとしても、プロとしての見解はそれに左右されてはならない。
プロとはそういうものである。ある意味、プロというのは、そのことに関しては慎重、臆病であるべきものなのである。

大地震で命を落としたり、怪我をすることの警告は、非常に難しい問題があると思う。
現代人は、家に住まないわけにはいかないから、喫煙のようには、自己責任で、トレードオフの判断は容易にできないわけである。
ただ、それを気にしすぎたくない、それを忘れて、日々楽しく過ごしたいという
誘惑が多くの人の心の中に、ありそうだとは思う。私も庭にテントで暮らしているわけじゃないので、そうなのである。
私も大地震がきたら、かなりヤバそうな環境で暮らしているのである。
私は、日本人の平均よりは、そして建築士なんかの平均よりは大地震がきたとき建造物に何が起きるかの、
想像力に、ある程度の自信があるのだが、
なかなか便利なところに、コストパフォーマンスの良い、利便性、快適性のある物件がないので、妥協しているのである。
例としては、直方体の12本の稜線に相当する部材がしっかりとしていて、それを平らな地面のごろんと置いたような
家屋が一番良いのだろうと思う。四角が構成要素でなくて三角形が構成要素だとなお良い。
全体の大きな稜線ががっちりとしていことが重要なのである。稜線から基礎、杭とか足のようなものが出て、
地面の上に立っているのはよろしくないのである。水平を保つためのアジャスタは必要かも知れないけど。

例えば、5千万円以上もする車を買って、まるまる、それに保険をかける人はなかなかいないと思う。
あるていどの修理代の足しになるぐらいの保険料を払いう人はいても。つうか、5千万円以上もする車なんて、普通の人は買わない。
ポンと、こんな車を買う人は、どこか、明日にでも事故を起こして大破しても、まっいいかという感覚がある人なんじゃないと思う。

心配しすぎる人は、夢を手に入れることが難しくなるのは事実だと思う。
見晴らしの良い、広いマンションに住みたいという夢を持っていても、
明日にでも、大地震がくると思って、躊躇している人は、いくら金を持っていても
その夢を達成することはできないのだ。
新しいマンションに家族で引っ越してくる喜びは、人生最大級の喜び、幸せであるかも知れない。
それを、日々労苦の生活の目標とすることは、なんら恥ずかしいことではないと思う。
それに水を差すようなことを言う人間は悪魔かも知れない

震度6の地震だって、もしかしたら東京には後200年たってもこないかも知れないのである。
震度5の地震だって、100年たってもこないかも知れないのである。
(きたときの性状も予想通りとは限らないが、後遺症も含めて想像以上にひどい確率も小さくはない)
こればかりは、せいぜい確率論的な話で、結果は神のみぞ知るである。
かもしれないは、個人の責任であって、国庫でそのリスクを特別に低減してもらうことは公平、公正上許されない
(将来、喫煙者は肺がん治療を保険医療では受けれなくなっても仕方がないかも知れない。その前に毒物・麻薬扱いして欲しい気もするが)

ただ私は断言する。マンションで、タバコの問題における医学者系のプロはいない
日本の建築士、構造エンジニア、国交省は、そのプロではない
プロであることを問われたことはない

米国映画の「ディープインパクト」を観た。
たかだか、直径4、5キロメータの隕石で、米国は世界は壊滅してしまうのだ。
地球の重力で遠方から加速され続ける運動エネルギーを考えれば
それを大地震のエネルギー>ハリケーン>水爆のエネルギーと比較するればそんなものかも知れない。

それほどの隕石じゃないものが、ニューヨクと東京の近くに落ちたことを比較すると
東京の方が被害は極小かもしれない。日本は地震国だから。
マンハッタンだったらビルの中にいた人間は、ほぼ全員即死に近いかもしれない。
危険確率と、欲望怠惰のトレードオフの問題である。

タバコに関しては、それまで、専売公社系や農林水産省系、財務省(税金)は悪の陣営にいたと言って良いだろうと思える。
ただし医学系も保険点数の稼ぎ方、医薬品認可等では悪の陣営にいると言って良いだろう。
善悪は相対的な問題である。

建築行政に関しても、ローンとかでマンションを購入した方々、
あるいはもしかしたら、試験料や資格受験産業に受講料を払った建築士らは被害者なのかも知れない。
悪の陣営は、国交省、建築学会、建築士会、資格受験産業界、建設不動産業界、住宅金融業界、一般金融業界であろう

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2005年12月27日 (火)

日本人は資格好き?

日本人は資格好きなんだろうか?
世界で国家というものに属する国民はみんな資格好きなんだろうか?

資格の存在は誰が欲しているのだろうか?
労働者・勤労者? 経営者? その資格業務のサービスを受ける消費者?
試験制度を維持する関係者? 役人?
日本人の怠け心、談合気質が、役人達につけ込まれているのではないか?
日本人全てが、自分で自分の足を食っているタコではないのか?

資格は認定だから、その意味では、広義には卒業証書、卒業認定を内包するものと言って良いだろう。
逆は真ではない訳だ。
資格が卒業を必要としない認定の場合は卒業認定と競合する場合もあるだろう。
資格が卒業を必要としない認定の場合は卒業認定を補完する場合もあるだろう。

私は、それらの是非を問うことに意味はないと断じる。それは結果的に世間が評価すれば良いのだし
優れていないものは、淘汰されれば良いのである。

人間に付与する認定とは、商品だろうか?
私は実質商品だと思うし、商品にならざるを得ないと断じる。不良商品は淘汰されるべきである。
商品だったら、不当な独占販売は許されるのだろうか
政府が供給することは許されるのだろうか

政府が供給して、競争原理は機能するのだろうか?
政府が供給すると、資格を得たいというものは、自己負担が少ないようになっているのだろうか?
政府が供給して、その経費は、無駄な国庫、血税負担になっていないのだろうか
不公平再配分、役人利権になっていないだろうか? 関係者のバラまき、バラまき雇用、バラまき発注の温床になっていないだろうか?
競争原理の働かない政府供給で、正しい目的に向かった認定要件不断の見直し改良の、不断の努力を維持できるのだろうか?

政府供給の資格認定がなくなると、世の中にどういう支障があるのだろうか?
卒業を必要とするものであれ、そうでない試験合格認定であれ、民間資格同士の競争では何故いけないのだろうか?

卒業を必要とするものであれ、そうでない試験合格認定であれ、民間資格認定供給者
認定してもらいたいと思う人間にも、認定者が供給するサービスを受けたいと思う消費者にも
大いに、その認定内容の効用をアピールするべきだろう。自らの認定内容のシステムをアピールするべきだろう。
これからは、こういうスキルが必要、重要であるが、我々は卒業者にこういう方法でそれを教育伝授し、認定している、
試験では、こういうふうに、問い、認定していると
アッピールして良いだろう。
アッピールの内容に対しては、全ての商品と同じく公取りの査察や取締を受けるべきである。
非常に厳しいISO19000s的な監査を受けるべきである。

資格者を雇用するもの(企業)は、有資格者との合意、契約に基づき、
クライント、消費者に雇用者(企業)がどのような有資格者構成を持っているかアッピールできるべきだろう。
雇用者(企業)がそのアッピールでどれだけ、市場で有利に立てるかは、市場、消費者の判断である。
有利にならない、雇用者(企業)を救済するような圧力、関与(政府、規制、マスコミ、世論)があってはならない

いいかげんで、正しい目的に向かった認定要件の不断の見直し改良を怠っている
資格認定供給者は、淘汰されるべき
だろう。
私は、一例として、建築士という資格認定は、とっくに淘汰されるべきものだったと思っている。

私は、学校教育も卒業認定という意味では、資格制度の1つだと断じる。
卒業認定を軽んじる無視する、学校、教育機関、塾というのも、それなりに素晴らしい場合もある
これからの時代は、学校もより
その認定内容の効用をアピールするべきだろう。自らの認定内容のシステムをアピールするべきだろう。
今は、これからは、こういうスキルが必要、重要であるが、我々は卒業者にこういう方法でそれを教育伝授し、認定している、
試験では、こういうふうに、問い、認定しているとアッピール
して良いだろう。
これこそがもっと重要になるべきだと思う。これまでの日本は、これが非常にだらしなかったと思う。
そして、卒業認定という手段を用いないシステムが、このだらしない、学校教育を脅かすことも多いに結構だと思うのである

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2005年12月24日 (土)

日本人にとって資格とは?

別にポータルサイトであるヤフージャパンが資格受験産業に寄生している企業というわけじゃないけど
ヤフージャパンと米国ヤフーとを較べてみると、何かヒントが得られるかもしれない

ヤフージャパンでは
暮らす―>学習―>資格情報
       ―>資格試験向け学習ステーション
       ―>新年から始めたい資格・おけいこ特集
というディレクトリ連鎖で、あるわ、あるわ、簡単に判るというか花盛りでもある。

一方、米国ヤフーでは、私の英語力なさでもあるが、今ひとつ、こんな簡単には行かない。
米国では職業キャリアとしては、試験で取得できるライセンスというのはマイナー
興味はどこでどんな教育を受けるかにあるのかも知れない。
確かに、米国映画や米国ドラマでも、資格試験の受験勉強してますとう言うシーンはあまりない(と思う)。
将来・・・(弁護士、デザイナー等)になる為に、夜間とかでスクールに通っている、とかのシーンは多いけど。

しかたがないので、ディレクトリモードでLicenceで検索をかける。
とりあえず、最初に出てくるのが「007 殺しのライセンス」
あとは自動車免許教習者(インストラクター)のライセンスぐらいか。
いずれにしても、日本とは文化がまず違うという気がする。
英国のようだが航空エンジニアのライセンス。試験合格ではなくて卒業するかどうかのようだ。
Civil Licence (土木系)というものが存在するのを知る。これはオーストラリアのもの。民間のようだ。
EUでは、コンピュータードライビングライセンスがあるらしい。このECDL試験合格の為の民間教習機関がある。
ヨーロッパでもコンピューターのような新しい世界では、ギルド的な伝統的評価は追いついていないのかも知れない。
欧州も米国に較べれば、日本的な役人天国に近いところはあるだろう。

これは、あくまでも勘なのだが、米国人というのは実効性のない形式主義を本能的に嫌う国民なのかとも思う。
それと、筆記試験で問えることの限界を認識することのコンセンサスが確立しているように思える。
米国にプロフェッショナルエンジニアという、筆記試験合格資格制度があるようだが、どの程度のステータス、必要性なのだろうか?
結果的には、独学も許すけど、やっぱ理科系の大学学部程度の教育機関卒業したら、と言う内容であるようにも思える。
あるいは、通学時間が確保できない職業軍人の社会復帰、服役中の囚人の社会復帰教育に貢献できる制度なのかも知れない。
別になんでも米国が優れているわけじゃないし、仮に良いところがあっても、時代の変化でマイナーチェンジ、マイナスチェンジもあるだろう。
米国だって、つい最近まで、国民の理科教育水準の低迷に悩んでいた。現在は日本がそうである。
ただし、私に言わせれば、日本人ができた理科というのも九九ができるか程度のことであって、
高度成長を支えてきた日本国民の真の理科センスが特に高かったとは思われない。

勉強、学習、学問が高貴であるとすれば、その成果をもって世の中を良くする、世の中を変えることが目的でなければならないだろう。
その次に大切なことは、その成果をもって、正しく責任を果すことであろう。
位置付けそのものには何の価値もない。まして既得権的なものと結びつけられるものではない。
働いた得た金で物品を買って所有、蓄財するのとは訳が違うのである。

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2005年12月18日 (日)

悪代官役人天国、無責任利権官製与信をぶっとばっせ1

私ね
悪代官役人天国、無責任利権官製与信をぶっとばっせ
というテーマでちょと考えていこうと思っているんだけど
そのことのきっかけは、耐震偽装問題から建築士制度問題。
でその他、いろんな国家資格的なもの、資格受験産業なんにも疑義を表明していく予定。
それぞれに共通、固有の変なところが一杯あると思うんですよ。誰の何の為にという点でも。

でも、これって大変、心苦しいとこがある。
というのは、世の中には、これらの習得を目指して頑張っている若者がたくさんいるってこと。
私は、その努力や夢は素晴らしいものだと思う。
ドラマの登場人物でも、そうしたことに向かって頑張るってのは、重要なアイテムだし。
(時々、シナオリオライターって・・・資格、日・・とか資格受験産業とかから袖の下もらってんじゃないかと疑ってしまう)
だからそれを傷つけるってのが目的なんじゃないということは表明しておきたい。
内容がなんであれ、ちょっと難しいハードルに挑戦するってのは良いことでもあるし。
それに、仕事で上司のご機嫌とか人間関係にわづらわされないで、客観的な評価が下される結果でもあるから
良い面も多いにある。

でも、プロの仕事の現場では、それに、こだわらされることが、
実質、仕事の品質の支障、誤魔化しになっていることもありそうなんですよね。
あと資格受験産業への補助金のバラまきになっている場合もあります。
これが全く世の中の役に立っていない。

介護事業を丁寧やっている人なんかは、実は有資格者って
介護対象者から評判が良くなくて、本当は雇いたくないんだけど
開業許可とかあって仕方なく雇っているという話も聞く。
一生懸命ヘルパーやって勉強する時間がない人をよそに
適当にやって、試験受かって、いつのまにか高い給料もらっている人がいるみたいな。
これって、所管官庁と教育機関の利権的でもある。国交省とともに悪名高き厚労省でしょ。
本来、事業者というのは、家庭じゃないから、所管官庁の査察とか受けなきゃいけないんだけど
有資格者の頭数そろえておくと、暗に査察手ごころ見たいのあるんじゃないかな。
だから、よからぬ介護事業者ほど、適当な有資格者ありがたがっちゃう。
この査察こそ、しっかりやってくれないと、介護心配ですよね。
所管官庁って、介護対象者やヘルパーさん達と仲良くなっても甘みがないから、
そういうことに興味ないんですよ。資格制度構築とかにやっき。
ただ、介護関係の資格の良さは、試験問題が全く役に立たないことを問うている訳じゃないとは言えるかな?
現場で経験的に得られること以上のことを、勉強して介護に生かそうとしている方々も、たくさんいると思うし。

その点、建築士ってのは、現代的にそうとうヒドイと思う。現場、時代のニーズとかけ離れている。
試験制度の為の試験って色彩が強そう。だって、T定規に鉛筆で製図試験ですよ。採点も何でやってんだか良くわからない。
しかもこれは、一応意匠?の能力を見ることになっていて、鉄筋とか鉄骨は書かなくていいんです。
(今どき、日本でそれを手書きするのもおかしいけど。)でも建築構造エンジニアもこの試験を受かる練習をしなくちゃならない。
でないとね、お前の設計部は建築士が少ないじゃないかって言われちゃうんですよ。
現代的に建築のプロに必要な知識って、最低限でもそれなりに高度だし、膨大な範囲になっちゃう。
でもね、たぶん、素人が建築士の試験問題見ると、大変だな~と思うかもしれないけど
最低70%ぐらい本質的に狭い範囲の過去問題の繰り返しだから、まる暗記的な準備で事足りるみたいです。
そうでないと、物凄く低い点数でしか合格者出せなくなっちゃうんです。世間にカッコがつかないんですよね。
そんな訳で、ちゃんとした建物をつくる、あるいは説明責任を果すという目的の為としては、
この試験制度に膨大なマンパワーと時間が無駄に浪費さてれいるんです。

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2005年12月17日 (土)

反射光・耐震偽装問題

悪代官役人天国、無責任利権官製与信をぶっとばっせ。
これを、このブログの1つのライフワークにして見ようかと思う。
きっかけは、耐震偽装問題である。
思わず、SAGAさんのブログにもコメントさせて頂いてしまった

1級建築士の中には、ひでえやつがいるんだ。
そいつを使ってひでえ、もうけをする業者がいるんだ。
って問題だけじゃないと思う。これは制度がおかしいという露呈の1例だと思うのである。
こうした例を、生み出してしまう、制度がおかしいでのある。

1級建築士制度、建築確認検査制度には、国民を守る力はないのである。
ないのに、公認機関とか、試験制度でタダ飯を食っている人間がいるのである。
お上御用学者がいるのである。

だから、こういう制度を放置し続けた、
悪代官役人天国、無責任利権官製与信をぶっとばっせ
ということになる。

日本では医師免許、弁護士免許、公認会計士等だって、問題はあるのかもしれない。
でも、建築士とかは、やっぱおかしい。機能してない。
悪代官役人天国、無責任利権官製与信でしかない。

日本には、こうした制度が多すぎるように思う。

介護関係なんかも既に問題になっているようだ。
これから地球温暖化も重要になってくるが
エネルギー管理士とかも変だ。
環境問題も重要になってくるが、公害防止管理者?ってのも機能していない。
情報処理関係の官製資格だって、何あれって思っている人いないのかなぁ。
こんなのに、経営者がこだわるように、お上が仕組むから
重大な、国際的にも恥ずかしいシステムトラブル続きなんじゃないかな?
技術士ってのも、どうしようもない。

これからの、日本は少ない若者で、効率良く先進国としての日本を維持していかなくてはならない。
頑張られても困る、大量の古い人間を、なんとか養っていかなくちゃならいハズです。
こんな、悪代官役人天国、無責任利権官製与信に関わるような仕事に、人材さいていられないハズだ。
国庫をむさぼらては、いられないハズだ。
こんな、意味のないものを取得するに、本買ったり、受講したり、受験料払うの
役人が遊んで暮らすために金搾取されているとにすぎない。国内非税搾取と言って良い。

最近は自分達が作って与えた資格免許に自信(当たり前だ)から、否、人口が減って
甘い汁を吸い足りなくなったからと、あらゆる分野でCDPとかが大流行だ。冗談じゃない。

これから、こんなことを暴いていきたいと思う。

経団連、経済同友会とか、賢い人達の集まりなら、もっと抵抗して欲しいと思う。
やっぱ、ダメオヤジ、老人なのかしらん?
結局、この人達も無責任利権官製与信で適当に社員扱ってきたタダ乗り一派でしかないのか。
顧客本位、市民本位で、信頼を得る社員を指導、育成できない連中でしかないのか。
だから、世界に通用する仕事から、ひたすら取り残されつつあるのか。
孫氏やホリエモン、楽天の社長達じゃなきゃ、もうダメかな?
旧財閥系金融、セメント屋、鉄屋、重工、家電なんかの経営者じゃだめな時代なのかも知れない。

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2005年12月 4日 (日)

反射光、、「構造計算書偽造問題はIT化で解決,じゃないのか?」

YasuAtSellToJapanさんが、ブログ「Sell To Japan 日本語版」の記事、「構造計算書偽造問題はIT化で解決,じゃないのか?」
からTBを送ってくださいました。
私の関連記事は
時代錯誤の落とし子、建築士と建築構造計算捏造問題、責任の所在は?

私も専門家でないから、かなり適当なんですが、報道から察するに

①A1:正しい入力 ―> A2:応力出力 ―> A3(断面設計)応力出力適合断面条件―>A4:適合判定出力
②B1:偽造入力 ―> B2:偽造応力出力 ―> B3(断面設計)偽造応力出力適応断面条件―>B4:適合判定出力
③C1:正しい入力 ―> C2:応力出力 ―> C3(断面設計)偽造断面条件―>C4:不適判定出力
みたいな計算をしておいて

④A1:正しい入力 ―> A2:応力出力 ―>B3(断面設計)偽造応力出力適応断面条件
―>(A4:適合判定出力・B4:適合判定出力)
⑤A1:正しい入力 ―> A2:応力出力 ―>C3(断面設計)偽造断面条件
―>(A4:適合判定出力・B4:適合判定出力)
みいたいな、構造計算書を捏造したんじゃないでしょうか?その他、ちょこちょこ物性値みたいなものもいじってるみたいですが。

確かに、入力条件とか、断面条件のデータをCDとかメールで受け取って、検査確認機関のパソコンで再計算すれば
偽造は防げるハズですよね。基本的には自分達で、キーボードから再入力することはしなくて済むハズですよね。
普通、こういうソフトは入力の続きは明日やろうに対応するから、入力データ、中間出力はセーブしますよね。
それを読み取って計算はチョチョイのチョイだと思いますよね。

基本的に、認定構造計算ソフトの多くは、有限要素法とかは使ってなくて、せいぜい多元連立1次方程式を解くみたいなもんじゃないかな。
だから、1台のパソコンで1日100物件の再計算をしても、パソコン10台あれば、1日1000物件の再計算ができます。

YasuAtSellToJapanさんが、参考かな?示している「鉄筋コンクリート構造の離散化極限解析法」って書籍、かなり高級で、
建築士で、こうした内容理解している方1%以上いるんですかね。?
一級建築士試験って、微積分学、行列理論知らなくても大丈夫って前提で試験問題つくってるみたいです。
いくら地震の少ない米国でも、現代的には建築家が構造設計計算能力があるとは期待されていないみたいです。構造エンジニアと共同で設計してます
省エネ計画、空調設備の設計も出来るとは思われていないと思う。日本は逆で、構造エンジニア、設備設計者がたくさん一級建築士なんですよね。現場管理者もそう。意味ないんじゃんになっちゃてる。米国なんかでは、うちの建築家っていうのに最低限相当しそうなのは、日本の建築士の中では3割?1割?いないなって言われていると聞いています。

考えようによっては、

同じソフトを使うのだから、出力のベリファイは簡単なハズ出だし、実はベイリファイ対象の出力自体、提出の必要がない。
とは言え、計算過程の中間出力はともかく、実際に現場でつくる為の図面と一致してなければならない訳ではあります。
それでも、今どきなら、検査員がパソコンとかもって現場に行けば良いので、紙の図面の必要性は未来的には疑問ですね。
現場用の設計マスターデータがあれば、通信でベリファイもできそうです。

まあ、はっきり言って、はじめから、認定確認検査機関が時代錯誤的に怠慢とは言えそうです。
設備投資を嫌がって、ヤラズボッタクリ体質だったと言われても仕方が無い。
そもそも、設立されて間もないから、まだちゃんとした生え抜きがいなくて、かつて所管行政にいたロートルの建築主事とかその下で仕事してた人達で作った会社が多いんじゃないでしょうか。で設立の資本も業界から集めている。民間として早く安く検査する物理的根拠がもともとなかったのかも知れません。
とすれば、やることは手抜きですよね。

私ね、行政ってのは、立法の手伝いをしちゃいけないとは言いません。そして違法結果を排除することがお仕事だと思うんですよ。
指導ってはの気をつけなくちゃいけない。指導は責任に結びつくから。役所は責任とろうとすると血税でしょ、責任能力ないんですよ。
違法結果を排除するだけでなくて予防もしたいとしても、基本的な手段は恫喝と警告で良いんです。そして適法の情報提供です。
これまた、税金でタダでやるべきことを、やっていない必要な情報をタダで配信しないで、くだらないパンフレットばかり発注しているんじゃないでしょうか?

私は民間の損害保険会社の活用を念頭しましたが、官製のそれや、業界のそれってどうかなと思います。
官とか業界協会って、不適格者擁護体質になっちゃうんです。で個々の不適格者は能力がないから、手綱緩くしてもらおうとペコペコ体質でしょ。
それが楽しくってしょうがない機関になちゃう
んじゃないかな。で本当に損害賠償しなきゃならないとき、建物利用者本位でなくて逃げまわるし
損害賠償ばかりになって、金銭的に破綻しそうになると、倒産させないで、所管省庁経由で血税投入しちゃうんじゃないかな。
これがあるから、建物利用者本位でなくて逃げまわるじゃなくて、大判ぶるまいにもなっちゃうかも。保証してもらう方はペコペコした甲斐があるなぁと。設立資本金集めた甲斐があるなと。
もともと不当に安い保険料で保証したり、問題おこした設計事務所、建設業者なんからの、債務回収なんかそっちのけでね。
最終的には血税使っての、不適格者が設計建設した建築の販売促進になっちゃうんじゃ。実際、政治的にもこれっきゃ考えてない。
民間の損害保険会社活用の方が、不適格者排除としては機能するんじゃないでしょうか。
官製のそれや、業界のそれっていうのが、つきまとうから、民間の損害保険もビジネスとして躊躇しちゃうんじゃないでしょうか。

、ITってのは使い方次第で、公開性、透明性、トレサービィティ、ベリファイ、エラーチェックとか、ローコストの正義の剣にもなると思います。関係者の皆様、お仕事頑張ってください。

問題の建物、少なくとも、住んでる人じゃなくて、近隣や通行人にとっても危ないというのなら、解体撤去ぐらいは血税でやるのも仕方ないかしらん。
責任追及は後まわしにするにしても。

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2005年12月 3日 (土)

時代錯誤の落とし子、建築士と建築構造計算捏造問題、責任の所在は?

世の中は、あの建築構造計算偽造問題で揺れています。
建築確認検査機関の問題もあるし姉歯氏は一級建築士でした。

一級建築士として、誇りを持って仕事をされてこられた方々も心を痛めているご様子。
また、建築が大好きで、一級建築士受験勉強に励んでいる方々の気持ちにも水を差す事件でした。
そんなことから、つらつらとこんなことを考えています。

医師・弁護士・建築家
というのは、欧米では最高水準の倫理感や能力を有する者が従事する
特別なステータスのある職業と見なされているそうな。
欧米に限らず、日本でも、憧れの職業ではあるのだろう。

(ただし、昨今、米国では弁護士は訴訟屋とも言われ、必ずしも尊敬されていない方々もいるらしい。)

これらは、なるのが難しい職業なのか、それとも、まっとうするのが難しい職業なのか?
ただ、基本的には、欧米では伝統的には、建築家というのは
少なくとも、医師・弁護士に較べて、なるのがむづかしい仕事だとは思われない。
どちらかと言うと、まっとうすること、認められられることが難しい職業じゃないかと思う。
その意味では、芸術家の部類である訳だ。
しかし、何故、画家、彫刻家、作曲家達と離されて
医師・弁護士と並びたてられるようになってしまうのか。今回はその疑問は保留しておく。

さて、日本において建築士というのは、そもそもなんなのだろう。
先の意味で建築士=建築家では、とうていなさそうだ。

この日本における建築士なるものの、得体のなさを考察するに、まず
医師・弁護士・日本の建築士を並べて違いを検討してみる。
この考察の興味は、はたして建築士が医師・弁護士と並び称される職業なのかという問いでもある。
そうでないとすれば、建築家と建築士の距離は非常に大きい。

特徴しては、建築士というのは1級、2級がある。
2級医師、2級弁護士というのは聞いたことがない。ナースには似たような制度があるのだろうか?

建築士の特徴には、建築確認申請制度というものとの関わりがある。
つまり、建築士は設計した建物が建設されるにあたって
個別案件1つ1つに、作成した設計図書のお上の確認検査が必要とされる
正確には建築確認申請を要求されるのは、建築士ではなくて建築主ではあるようだが。
しかし実質上は、建築士の仕事、案件ごとに、作成した設計図書のお上の確認検査が必要とされると言って良いだろう。

弁護士がクライアントの弁護活動を行うにあたって、
個々の案件について、お上に弁護活動(計画)確認申請書が必要だったら笑ってしまう
弁護活動中間検査なんて受けていたら笑ってしまう。

医師が患者さんに、治療を処置するにあたって
個々の案件についてお上に治療行為(計画)確認申請書が必要だったら笑ってしまう
治療行為中間検査なんて受けていたら笑ってしまう。

ようするに、建築士という資格、建築士の仕事は、医者や弁護士の仕事や資格と違って信用のできないものだと
国からお墨付きを貰っているのである
。その資格を与えている、資格を得るように強要しているのは国家なのにである。

今、一連の事件で世間で話題になっているのは、建築の認定民間確認検査機関である。
それまでは、この手の業務は所轄行政の建築指導課等、建築主事が行っていた。
いづれにしても、こうした機関が必要(強制)であるなら、建築士制度は必要ないし
建築士制度が必要なら、こうした確認検査機関は必要ないのである
。少なくとも両方の制度があること自体が無意味なのである。
あるいは、両方の制度とも無意味なのかも知れない。
建築設計、施工監理を必要とする社会のニーズに何の貢献もしていないのである。無駄な雇用創出、集金制度なのである
職業の為の職業なのである。所轄官庁がなにかやっているふりする、天下り先をつくる為だけの、何の役にも立っていない制度なのである。
一生懸命仕事をして、稼いだお金で、住宅やビルを建てたいと思い、優れた設計を欲しがる人から
意味のない手数料を搾取する無駄な雇用を生み出す制度なのである。
この得体の知れない構図こそが、建築士制度、建築確認検査制度なのである。

私は、民間確認検査機関で良いと思う。そして建築士制度はいらないと思う。
建築士制度はあっても良いかも知れないが、
建築主は建築士を頼らないで建築設計してもらい、建設してもらえるようであって良いと思う。
建築士であるかどうかは、建築主が誰に建築設計を頼むかの参考程度のもので良いだろう。
建築士に相当する民間資格が存在するようになって、国家資格である建築士より、建築主らの評価が高くなっても良いと思う。

法治国家である以上、建築基準法等条例等に違反する建築物は存在してはならない
違反する建物は原則、すみやかに完全適合にするか建物自体の撤去である。行政は、いかなる情状も斟酌することは許されない
行政は原則、設計図通りに、建築されているか、なんらかの方法で確認できうるべきだ。だからと言って設計図が合法であるかの責任を負う必要はない。
建物が出来てしまってから、好きなだけゆくっり図面をチェックして、設計図が違法であったら、撤去命令とかを出しても良いのである。出さなくてはならないのである。
さて、そうなった場合の損害を誰が被るのか。勿論、是正、撤去を命じる行政(血税)がそれを被る必要はない。
それは、原則、建築の保有者であり、建築主である。そして彼らがその責任を誰に肩代わりしてもらうかは純粋に民事契約上の問題
である。

②さらに建築基準法等違反の他、建築主、建築所有者が、自からその建築で生命が脅かされるたりするのは、基本的には建築所有者の自己責任である。
③建築主、建築所有者が、その建築を他人に利用させて、その人の生命が脅かされれば、それはその建築主、建築所有者の責任である。
ただし、事前に例えば、建築設計者や建設業者が文書をもって、それらの責任を替わってとる契約になっているのなら、その契約は有効でなければならない。それ無しに、建築士法に記載されているような、自動的になんらかの責任があるような文学的な文章ははなはだあいまいで、誤解を生む以上の意味をなしていない保証賠償として機能するのは個別の民事契約内容だけなのである。これは今回の事件でも明かであろう

①をクリアしていることが、②③の場合の免責になるとは限らない。実際の裁判になれば、免責を得やすいとは思うが。
また血税を使うことになる行政は②③に介入する権利はないことにした方が良いだろう。血税を使うしかない行政のお墨付きや保証は結局無責任なのだから。

(①)建築主、建築所有者は、まず設計が違法建築になってしまっていて建設して撤去など余儀なくされるリスクに備えるべきだろう。そうなった場合に備え信頼に足る損害保険会社と契約すべきである。あるいは設計者、建設会社等が損害を肩代わりするという契約を提示した場合でも、彼らが破産倒産した場合に、信頼に足る(資本力がある)損害保険会社が保証人的についているか確認すべきであろう。この場合、設計者、建設業者と保険会社はお互いの免責事項について綿密な取り決めが要求されるだろう。そして保険会社はリスクを限りなくゼロにする為に、信頼に足る民間確認検査機関を利用することができるだろう。信頼の源泉は民間確認検査機関の資本力ではなくて、ちゃんと検査確認業務をやっているかどうかである。ここに国や行政が足しになる余地はないし、余地があるべきでもない。

(②③)これは建物免震システムなど特別な設計をし建設した建物の、地震保険料等にかかわることでもある。免震等でも普通よりさほどの耐震性しかない場合もある得るとの関心も必要だ。免震だから柱を細く、梁を少なくできる等の興味で設計をする技術者も少なくない。結局これは地震のとき他の免震でない建物と同じように損傷すれば良いという免震の設計思想である。もちろんそうでない免震設計こそが普通だろう。

④建築基準法、政府刊行物、建築士試験の内容では推し量れない高度の水準の設計ができる設計士は、クライアントや保険会社に、自分の能力を自由にアッピールすべきだろう。自分も世間も信頼している、建築家、学者、技術者の著作物、論文等を明示して、この水準で私は設計しますと言っても良い。卒業した教育機関の水準に見合った仕事をしますでも良い。嘘を言ってないなら、裁判でも本当にその水準の理解力で仕事をしていたかは検証できるはずなのである。裁判官は良識をもってそれが現実的な人智の範囲であったか判断できるだろう。誇大広告は裁かれ処罰されるべきである
今の建築士の立場が、行政がおこなった誇大広告の産物のようにも思われる。国家資格取得者は責任をとらずに、責任能力がないのに既得権意識が勝りすぎているかも知れない。まるで社会主義国家の中で、党員になれたかのような振る舞いに近い。自分では実務をせずに管理者気取りではないのか。
有資格者(党員)に任せかせましたは、免責にはならないのである。これをあいまいに許すから、責任の所在が途絶える。有資格者に責任能力の根拠はないのである。

(②③)建築は消防法を順守すべきことは勿論だが、保険会社独自の保険料を決める価値判断はあっても良い。
消防庁は消防隊員がより低いリスクで消火、救助活動できるか個別の建物の情報に関心を持つべきだろう。活動を躊躇したくなるなるような建物の情報を把握しておくべきで、それを建築主、保険会社等に勧告しておくことも良いと思われる。実際に活動を躊躇したとしても、必要以上にとがめられる必要はないだろう。建物の使用者、利用者は、そうした情報を知りえるべきである
建物によっては、最上階等に建築主、建築所有者で私設消防隊を常駐させるような考え方も必要かも知れない。

建築を愛して仕事をしている方々、そうした仕事を目指している方々、建築士の勉強は何だったのか、何を勉強しているのか
疑問に思うことも大切かなと思う。建築を愛するがゆえ、そうした疑問が将来役に立つことがあると思う。
建築士になる為、受験予備校で、本来じっくり考えるべきプラニングをさっさとやるテクニックを教えてもらい
製図試験で、図面の植栽に鉛筆の点々で影をつけたりして、私は受験予備校に授業料払っていましたということを
採点者にアッピールする。こんなことで合格した資格で本当に良いのか。もっと現代的な設計現場が要求する能力を問う試験であるべきように思う。
そもそも製図試験の採点者とは何者なのか、受験予備校の関係者とどのような情報交換をしているのか。

④のような設計活動を促すような制度であっても良い。このようなスタンス、能力のバックグラウンドで私は開業しますという、届出制にすることも可能かも知れない。クライアントは届出内容を知ることが出来なければならない。届出内容に虚偽があってはならない。無届開業は許されない。

多くの人に、建築家、設計士として、良い仕事ができるように、自己責任で研鑚に励んで頂きたいものである。
女優菅野美穂さんのように、いつもいつも、人の幸福の為の自分の役割を愛し、果すことを熱心に考えているようになりたいものであります。

ちなみに、私は建築士に関して、その取得者第1号は、土建金権国家中興の祖でもある故、田中角栄元総理とも聞いたことがあるんですが、本当なのかなぁ。

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